第4話 勧夕とアクアリウムデート(後)

 水族館の出口にあったガシャポンの前でわたしは思わず立ち止まっていた。

 そこにあったのは海の生き物のキーホルダーがたくさん描かれたカプセルトイの自動販売機で、賑わっているおみやげ屋さんの脇でこじんまりと寂しげに立っている。

 わたしはそのなかのひとつ、館内でも気に入ったタカアシガニのリアルなマスコットに釘付けになっていた。

「高峰先輩、わたしこれほしいです」

 カプセルトイの目の前にかじりつきながらわがままを言ってみる。

「……なんかリアルで気味悪くねえか?」

 そう言った先輩はカニさんの真似をして二本指をわきわきさせている。

「カニさんがかわいいんですっ」

 わたしは強硬に言い張って、お財布から百円玉を取り出した。

 リアルな作り込みだけあって一回三百円のガシャポンは、がらがらと音を立ててカプセルを吐き出した。

「ああ……イルカさん」

 カプセルの中身を見てわたしは落胆する。

 イルカさんもかわいいけど、わたしがほしいのはカニさんなのだ。

「イルカとか一番の当たりじゃねえの? ほら、パッケージの一番目立つところにあるし……これでガッカリするやつなかなかいないと思うんだが」

「高峰先輩にはカニさんの良さがわからないんですか!?」

「いや、わかるけどね? そこまでこだわる理由がわかんねーっつうか……」

 じゃ、おれも回すか、と言って先輩がお財布を出したので、わたしはガシャポンの前からどいた。

「さーて、芸人の腕の見せ所だな」

 わけのわからないことを言いながら先輩はガシャポンを回して。

「わ……!」

 カプセルの中から出てきたのは、タカアシガニさんのマスコット。

 高峰先輩はそれを人差し指と親指でつまみ上げながら、半目で太陽に透かして見る。

「一発で当てちまうのが一番よくねえんだがなあ……」

「なに言ってるんですかっ、すごいですよ高峰先輩っ」

 わたしは思わず口から漏れ出るふわあ、という声を抑えられないまま、彼の持っているマスコットを羨ましく見つめていた。

「……欲しいよな?」

「ほしいです」

 高峰先輩は意地悪そうな顔をして笑う。

「ま、俺はべつに欲しくなかったから、あげたってかまわねえが……よく見たらなかなか凝った出来じゃねえか。ただあげちまうってのもちょっと惜しいくらいになー」

「た、高峰先輩……?」

 わたしはしゃがんだまま高峰先輩をじっと見つめる。

 先輩はわたしの目を見ると、うっ、とおおげさによろめいて見せた。

「しょ、しょうがねえな……特別に勧夕ちゃんにはこのカニさんを進呈しよう」

「や、やった!」

「でも、ひとつ条件がある」

「ええーっ?」

 わたしはもじもじして言う。

「高峰先輩のお願いなら、な、なんでもしますけど……でも、あんまりその、そういうことはっ、順序があるので!?」

 最後のほうは半分やけになりかけながら言った。

 高峰先輩は泣いてるふりをしながら言い返す。

「……俺ってそんな鬼畜に見えるか?」

「み、みえませんけどっ」

「いやな、条件っつったって簡単だ。俺が引いたカニはお前にやるから、お前が引いたイルカは俺にくれよ。交換にすればフェアだし、お互いの思い出になるだろ?」

「高峰先輩……!」

 ほら、と差し出してくれたカニさんを受け取って、わたしはイルカさんのマスコットを渡した。

 ん、やっぱこっちのほうがかわいいじゃねえか、と言って高峰先輩はイルカさんを嬉しそうに見ている。

 わたしはカニさんのマスコットがあんまり気に入ったから、頬に押し当てて思わずにこにこ笑ってしまう。

「そんなに気に入ったのか? ただのカニなのに」

「ただのカニさんじゃありません、高峰先輩がくれたカニさんですから」

「……ま、喜んでくれるなら俺はそれが一番だよ」

 わたしたちはマスコットを大事にカバンにしまうと、おみやげ屋さんを出た。



 あまりに夢中で水族館を歩き回っていたわたしたちは、気付けば心地より疲れが足にも溜まっていたし、太陽はいつの間にか沈みかけていた。

 高峰先輩はそれに気がつくと、目を細めて太陽の行き先を見ながら言った。

「そろそろ、帰ろうぜ」

 わたしはまだ観覧車に乗りたかったが、先輩の目を見て、わかりました、とだけ答えた。

 駅まで歩く道は広く舗装されていて、そこを手を繋ぎながら歩くわたしたちはまるで恋人たちだ。

 きっと、いまもすれ違う見知らぬ人や、大人たちには初々しい高校生カップルと見られていてもおかしくない。

 わたしは聞いてみた。

「高峰先輩、楽しいですか?」

 努めて明るい声を出した。

 先輩は答える。

「めちゃくちゃ楽しいさ。今日は本当にありがとな」

 返ってくるのも明るい声。

 高峰先輩はわたしの王子さまなのかもしれない、と思ってみることにしていた。

 でもやっぱり、今日一日で改めて思い直した。

 高峰先輩は王子さまなんかじゃない。

 そして、わたしもヒロインにはなれない。

「よかった! わたし、高峰先輩が大好きですよ」

 心の底から、わたしは言う。

「うはっ……後輩の女の子にんなこと言われるのが夢だったんだが、実際そうなると困ってんのはなんでだろうなあ」

 高峰先輩は茜色に染まった空を見つめながら、夕陽に照らされてか、それとも血色でかわからないけれど、赤く見える横顔だった。

 結局、わたしたちは駅で別れるまで手を繋いで歩いた。

 誰の目も気にせずに、わたしのほうがぎゅっとしがみつくみたいに指を絡めていた。

 王子さまじゃないけれど、いちばん好きな人だから。



 知らない男が図書室に来たとき、わたしは確かに恐怖していた。

 高校生になってもわたしは少しも大人にならなくて、中学のころから好きだった少女漫画や恋愛小説は手放せなかった。

 ぬいぐるみやマスコットを集めるのもやめられなくて、お母さんにいつまでたっても子供ね、と言われてむくれる。

 だって好きなんだもん。

 高校で知り合った友達といるのは居心地が悪くなかったけれど、隙を見つけては図書室にこもっていた。

 もちろん、誘われたら遊びに行くし、一緒に帰りもするけれど。

 その頃、わたしは図書室で同じように居場所なさげに過ごしていた男の子のことが気になっていたのだ。

 その日も放課後の時間をわたしは図書室で過ごすことにしていたけれど、影井先輩は姿を現さなかった。

 影井京介先輩。

 初めて勇気を出して話しかけたときは、どこか距離を感じた。

 その距離が随分と近付いたなと思えるいまになっても、やはり確かに近くはない。

 わたしと影井先輩は遠くにいる。

 図書室のいつも決まった窓際の席に座る影井先輩を、中央のテーブルで本を読むふりをしながらいつも横目で見ていた。

 あとで知ったことだけれど、テスト前には図書室の利用者は進学校らしく増える。

 けれどそうでない時期は閑古鳥が鳴くほどで、わたしと彼しかいない日が多かった。

 彼はいつ見ても違う本を読んでいて、わたしは追いかけるように以前彼が読んでいた本を手に取ることもあった。

 その本はわたしにはわからないほど難しいものもあって、進学校のこの図書室の中でもいちばん難しい本なんじゃないかと思われたけれど。

 なんとなく、彼の見ている世界がわたしにも見えてくるような気がして嬉しかった。

 白状してしまうと、わたしは見つかりたかった。

 彼がいつか、わたしのがんばって読んでいる彼と同じ本に気が付いて、わたしのことにも気が付いてくれたら。

 そう願うばかりの日々が続いた。

 けれど、現実はそう物語のように都合よくはいかなくて。

 わたしは焦れったくて、ついに彼に話しかけてしまった。

 今日は、なんの本を読んでいるんですか。

 彼はふと顔を上げると、ああ、とようやくいま気が付いたように自分の読んでいる本の背表紙を見ると、そのタイトルを教えてくれた。

 たったそれだけの会話。

 でもわたしにとってはその一言が大きな一歩になって、次第に二日に一度は声をかけるようになって。

 彼がわたしの王子さまなんじゃないか、と思っていたのだ。

 そんな折に、図書室のわたしを訪ねてきた人があった。

 彼はわたしの苦手なタイプだった。

「勧夕由依ちゃん?」

「え……そう、ですけど」

 わたしはあくまで怯えが表に出ないように声を抑えてそう答えた。

「わりいね、急に訪ねちまって」

「い、いえ……それで、なんの御用ですか?」

 いま思えば名前も聞き返さなかったのはとても失礼なことで。

 だってわたしは、この軽薄そうな目の前の男の人がはやく用事を済ませて、わたしと影井先輩の図書室から出ていってほしい、なんてことばかり考えていたのだから。

「あんた、影井京介ってわかるか?」

「……!」

 わたしは体にぎゅっと力が入るのがわかった。

「どうやら知ってるみたいだな。それに、俺の考えてるとおりみたいで安心した、っつーか、まあ男としては安心してちゃ駄目なんだろーが」

「な、なんなんですか? 急にわけのわからないことを……」

「影井先輩のこと、どう思う?」

「なっ……」

 わたしは絶句した。

 この目の前の不躾な男の人は、いったいなんて言ったの?

「ああ、答えなくていいや。虚しくなるからな……初々しいね、まったく」

 わたしは自分の顔が熱くなっているのがわかって、慌てて文庫本を放り出して両手で口もとを覆った。

「……なにが目的なんですか」

 声は険悪だった。

 わたしは最大に警戒していて、目の前の意地の悪く見える笑いかたの男を見た。

「そう焦らんで、身構えるのもやめてくれ。悪いことはしねえからさ……ま、迷惑っつうならもちろんやめるけどな」

 怖い。

 上級生らしい男は、椅子に座ると切り出した。

「用っつうのは、影井に関することなんだ。あいつにサプライズで誕生日パーティ、っつうか、まあささやかながら祝い事がしてえんだけどよ。生憎ながらもう高校二年にもなるのに、情けないことにあいつには友達がめちゃくちゃ少ないんだ。わかるだろ?」

「え、ええ……まあ、あまり人と仲良くしている印象はない人ですけど」

 わたしはおっかなびっくり答える。

 そうすると彼はふむ、と頷いて。

「そこでな、いまちょっとでも影井と仲良くしてえと思ってるやつらに、俺がこっそり声をかけてな、みんなで誕生日を祝ってやろうってことなんだ。影井に友達がいないなら、誕生日をきっかけに仲良くなるきっかけをプレゼントしてやる……なんて言ったら、ちょっと気取りすぎかもしれんが」

「はあ……そうなんですね」

 わたしはすっかり気圧されて、思わず他人事で答える。

「で、あんただ。勧夕さん、俺の聞くところによっちゃ、影井にぽつぽつ声をかけてくれてんだろ?」

「えっ……ま、まあ、そうですね?」

 とりあえずそう答えると、彼は手を合わせてわたしに向かって拝むような真似をする。

「協力してくれないか? 影井に楽しい誕生日をプレゼントする……そうだな、影井ハッピーバースデープロジェクトだ! 構成員は俺と、朝永っつう二年。それからもしよければ、勧夕さんにも手伝ってもらいたい」

「ええっ、それ、ほとんどわたしの知らない人ですよね!?」

 わたしは怖気付く。

 そもそも、わたしは人見知りというほどでもないけれど、人と仲良くなるのには時間がかかるほうだ。

「そこは俺がいるさ! 任せてくれよ……自慢じゃないが、俺はうちの高校で一番の芸人だぜ? 盛り上げるのは得意なんだ。くれぐれも、そこらの仕切りたがりの陽キャとは一緒にしてくれるなよ」

「そ、そうなんですね……」

「……素直に受け取られると、それはそれで芸人殺しなんだがな?」

 頭をかいて笑っている彼は、やっぱりわたしが親しくなるようなタイプの人ではぜんぜんなくて。

 どうしても仲良くなれるとは思えない。

 ただ、なんとなく彼が影井先輩の話をするときのその目が気になった。

「……影井先輩って、誕生日近いんですか」

「ああ、一年のときたまたま学生証見せあったときに知ってな。うちの高校じゃ、あいつと話すようなのはいままで俺だけだったから、知ってるのは俺だけになるだろうよ。誰にも祝われないのも悲しいじゃねえか」

「そう、ですね」

 わたしは彼のその言葉に、嘘があるとは思わなかった。

 現に、わたしも影井先輩の誕生日なんか知る機会がなかったし。

「来てくれるか?」

「……これ、わたしの連絡先です」

 そう言うと、ルーズリーフの端に自分のメールアドレスを書いて彼に渡した。

 メッセージアプリに登録するのは、まだ躊躇があったから。

 それでも彼はありがとよ、と素直にそれを受け取る。

「邪魔して悪かったな。それじゃ、また日程なんかは連絡するよ」

 その背中を見送りながら思った。

 変な人だけど、たぶん影井先輩を大事にしてる人なんだろうな。

 友達の誕生日を祝うために、知らない人にまで声をかけられる人なんて、わたしは想像できなかったから。

 わたしなら無理だ、と思いながら、また文庫本のページを開いた。

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