第3話 勧夕とアクアリウムデート(前)

 無垢で純真で、がんばりやさんの女の子がある日恋に落ちてしまう。

 最初は王子さまのいじわるな態度や、身分の差にむっとするのだけれど。

 しだいに王子さまの不器用だけれど心優しいところや、彼が本当は女の子のような人と初めて出会ったから、素直に接するのを怖がっていたことを知る。

 勇気を出して女の子のもとへ白馬に乗って駆けつけてくれる王子さま。

 女の子は涙ぐんで、彼女も勇気を出して、彼の差し出してくれた手をとる。

 とっても美しいラストシーン。

 お決まりってほどベタで、べたべたに甘いラブストーリー。

 きっとこんな物語みたいな恋は、現実にはありえない。

 ましてやわたしのような、地味で暗めで、ケーキ屋さんに行くときも欠かさずクーポンやポイントカードを持参するような、無垢でも純真でもない女の子には。

 ──たぶん王子さまは訪れない。

 でも、でも。

 わたしは読み終えたばかりの小説のラストシーンに目を瞑ってたっぷりと浸りながら、思わず椅子の下でばたばたと足を動かした。

 夢みたなら、頑張ってみなくちゃ。

 ヒロインの女の子はいつだって頑張ってたんだもの。

 そうしてあらためて、文庫本の褪せた表紙を見つめながらうん、と頷くと、頬を撫でるような夏の涼やかな風が吹いた。

「ん……」

 ふと、さっきよりも暑くないことに気がついて、顔をあげると。

「よう。待たせちまった」

 ──わたしの王子さまがいた、なんて。

 彼のつくる日陰がわたしを強い太陽の陽射しから守ってくれていた。

 弾かれたように、わたしは言う。

「ま、待ってないですっ。いまきたばっかりですから、べつに、緊張して三十分まえからここで本読んだりしてないですからっ」

「そんな前からいたのかよ……今日は暑いし陽射しも強いだろ? 二人で出かけて熱中症にでもなられたら俺が朝永に殺されるんだ、気をつけてくれ」

 差し出してくれたのは王子さまの手──じゃないけど、結露した冷たいペットボトル。

 彼は冗談めかして心配してくれる。

「あ、ありがとうございます……」

 ボトルを頬につけてみて、ぼう、っとわたしの頭の中が熱くなっているのがわかった。

「具合悪いとかねえか? 無理せず言ってくれよ」

 水をひと口飲んで、喉の奥をさらさらと冷たいものが通り抜ける快い感触。

 だけどそのすぐそばで、熱をもって強く拍動している心臓がある。

 変わらず頭はぼんやりとしていて。

「……熱が、あるかもしれません」

 そう言うと、彼は目に見えてあたふたとして。

「おい!? マジかよ、とりあえずどっかの日陰に行って……いや、すぐそこだから水族館に入っちまって、それから救護室に……」

 けれどわたしはすっと立ち上がると、おずおずと言った。

「だ、大丈夫です。熱は、やっぱり気のせいだったみたいですからっ」

「そうか……? でも、心配なのは変わんねえから、この暑い外からはさっさと退散して室内に入ろうぜ」

 彼はそう言うと注意深くわたしの様子を見てくれながらも、建物に向かっていこうとする。

 何してるの、由依。

 ヒロインになるんでしょ?

 わたしは、王子さまに応えたヒロインのように勇気を出して、声をかけて呼び止める。

「先輩っ」

「……ん、どうした?」

 彼の振り返った表情は、後ろに背負った太陽の光のおかげでうまく見えない。

 だから、なんとかうまく言えそうだった。

「やっぱり、ちょっと心配なので……て、手をっ、握ってくれませんか……?」

 それを聞いた彼は、ぐ、と面食らったような顔をして。

「……おうよ。気をつけて歩けよ」

 わたしの差し出した手を、彼の手が握る。

 少し震えていたのが、不思議とおさまる。

 そうして、王子さまとヒロインみたいに、わたしたちは初めて手を繋いだ。

 ひな先輩は、もう繋いだのかな。

 もしまだだったら、わたしが抜けがけになっちゃうかも。

 ……でも、いつかはどちらかが。

 隣を歩いてくれる彼の顔をそっとのぞきこむと、照れくさそうに笑い返してくれる。

 頭の片隅で考えながらも、いまは、わたしはひとときの幸せを感じている。



「わあ……!」

 大きな水槽にはたくさんの魚たちが踊るように自由に泳ぎ回っている。

 小さな海みたいだ。

 本当の海よりずっと小さいけれど、色とりどりの魚が絵画の上の絵具みたいにそれぞれの色でキャンバスを彩りあって、まるで大きな絵みたいでもある。

 右手で分厚いガラスにそっと触れると、ひんやりとした触感が指に伝わる。

 左手の指は高峰先輩の指に絡めたままだから、さっきからずっと熱くて、そのコントラストが笑い出しそうなくらい幸せで。

「綺麗だな……一年のころは部活ばっかだったから気付かなかったけど、近くにこんなすげえ水族館があんなら来ときゃよかった」

 高峰先輩は薄く浮かべた笑顔と、感嘆のため息混じりの声で言う。

 その声は耳元で小さな声で言われたから、だってそれはわたしたちが手を繋いでいるからなのだけれど、どこか囁かれたようなこそばゆい感じがして、思わずふふっと笑ってしまう。

「どうした?」

「……いーえ! ただ、わたしは先輩が一年生のとき、ここに来てなくてよかったなあって思いましたよ」

「そりゃ、なんでだよ?」

 先輩は怪訝そうな顔をして尋ねる。

「そ、そんなの……先輩のはじめてには、いつもわたしが一緒にいたいですから」

 わたしは照れ隠しのつもりでなにげなく言ったことから、もっと恥ずかしいことを言わなくちゃならなくなって赤面していた。

「……残念だったな、俺の初めてのよちよち歩きは俺だけのもんだぞ」

 高峰先輩も水槽を見るふりをして顔をそむけている。

 でも、耳が赤いからすぐわかる。

「ほんと、残念です。でも、先輩のお母さんに聞いたら、そのときのこと教えてもらうぐらいはできますよね」

「……そこまでこだわるのかよ」

 さすがに恥ずかしさが限界に達したのか、先輩は行こうぜ、と呟きながらわたしの手を引いてくれた。

 強く引くのではなく、わたしの気持ちをうかがってくるような優しい力で。

「……ふふっ」

 わたしはさっきよりもずっと上機嫌になって、彼のすぐ後ろをついていく。



 水族館の中にはレストランがあって、それを見つけたときちょうどお昼時だった。

「先輩、お腹すきませんか?」

「お、こういうとこのメシってなんかワクワクするよな。行こうぜ」

 自然に二人でお店の中へ。

 魚をかたどったハンバーグやかわいらしいメニューがたくさんあって、わたしはそのたびいちいち高峰先輩に見せたがった。

 先輩もそれを静かに笑って聞いてくれて、最後には結局どれにすんだよ、と軽くツッコんだ。

 店員さんに注文を伝えて、テーブルに案内される。

「あ……」

 ふと二人席を見て、わたしは気付く。

「手、離さなきゃなんですね」

「……繋いだまま食えねえだろ?」

「でも……」

 わたしが手をきゅっと握って先輩の顔を見ると、目に見えて困った顔をして。

「……ほら、あとでまた繋げばいいだろ」

 そんな先輩の赤らんだ顔がかわいくて、わたしは思わず白状する。

「ふふ、言わせちゃいました」

「意地悪すんなって」

 向かいあって座り、さっきまで見ていた魚たちや珍しい海の生き物の話をしていると、すぐに料理が運ばれてきた。

「わ、本当にカニさんの形なんですね」

 わたしが注文したのはカニさんホットケーキというので、写真を見て一目でかわいいと思ってそれに決めた。

「でもなんでカニなんだ? イルカとかペンギンとか、かわいいやつならいろいろあっただろ。水族館っぽくもなくないか?」

「いーんです! わたしカニさんが好きになったんですから」

 さっき二人で館内を見ていたとき、水槽のすみっこでじっとしていて、わたしたちが見つめても動かない地味なカニさんがいた。

 高峰先輩が水族館の名脇役だな、と言ってわたしもそう思った。

 じっと見ていると、ひそかにはさみを動かして、わたしのほうへ手を振っているみたいだったから。

「先輩はシーフードカレーですか?」

「魚見てたら食いたくなってね」

「もうっ」

 二人で話しながらゆっくりと食事をして、しだいに食後の飲み物も運ばれてくる。

「先輩、いつもコーヒーですよね」

「そうだな。ま、習慣みたいなもんになっちまってるから、好みで選んでるかって言われると微妙だけど」

 わたしが飲んでいるのはアイスミルクティー。

 つめたくて甘い、たっぷりミルクの。

「……わたし、コーヒーって苦くてだめだったんですけど」

「ま、よく考えりゃ勧夕ちゃんはまだ高校生なりたての一年だもんな。おれも最初は酸っぱいわ苦いわで何がうまいのかわかんねえって思ってた」

「そうなんですか?」

「おうよ。でも、部活の先輩がいつも缶コーヒーでな、練習終わりによく付き合わされるうちに欠かせなくなっちまった」

 これも依存症なのかね、と笑う。

 わたしはその高峰先輩の、懐かしそうでいて、どこか寂しそうな表情を見て、言わずにはいられなくなった。

「……わたし、コーヒー飲んでみたいです」

「ん? でもミルクティーもあるし、全部飲んだら腹いっぱいになっちまうぞ」

「だから、先輩のをひと口ください」

「お、おう……ま、勧夕ちゃんがいいなら俺はいいけどさ」

 そう言って差し出してきたコーヒーカップをわたしはそっと注意深く受け取った。

 思わずフチを見てしまう。

「……ちょっと待て、いったん返してくれるか?」

「え、なんでですか?」

「そういや、俺ハンカチ持ってんだ。カップの俺が飲んだとこ拭かせてくれ」

 わたしは黙ったまま、カップと先輩を交互に見つめる。

「……頼むって」

「冗談ですっ。こっちで飲んでたの知ってますから、わたしはこっちから飲みますね」

 そうしてカップをくるりと回して、わたしはコーヒーをひと口飲んだ。

 口の中に広がったのは、前に飲んだときの記憶から想像していたより、ずっと香り高い風味と、ほどよい酸味と。

「……やっぱり、にがいです」

 強い苦味。

 高峰先輩はいつもブラックだから、わたしも飲めるようになりたかったけど。

「ミルクと砂糖入れるか? いちおうついてきたやつがあるから」

「いいです。ブラックじゃないと意味ないですから!」

「なんでそんな頑固かね……?」

 わたしはカップを返して、ミルクティーで舌を慰めながら言った。

「でも、いつか先輩と一緒にブラックコーヒーが飲めるように、わたしきっと好きになりますね」

 それを聞いた高峰先輩は心から嬉しそうにしみじみと言う。

「……そりゃ嬉しい限りだなあ。俺も後輩とコーヒーが飲める日が来るかと思うと泣けてくるぜ」

「ちょっと、初めて息子と居酒屋に行くお父さんじゃないんですからね?」

 高峰先輩はわたしの呆れたような返事に笑って、でも真剣そうに言う。

「でもま、俺や影井、朝永にとっちゃ勧夕ちゃんが初めての後輩だったからな……そのかわいいかわいい後輩がちょっとずつ大人になっていくのを見られると思うと、我が子を見るような思いなんだって」

 わざとらしく取り出したハンカチで目元をぬぐうふりをする先輩。

「成長を喜んでくれるのはうれしいですけど……あんまり子供扱いすると怒りますからね?」

「わりいわりい。勧夕ちゃんがあんまりかわいいもんだからつい、な」

「む……」

 うまく言いくるめられてしまう。

 高峰先輩はさりげなく、注意深くわたしの飲んだカップのフチを避けて、またコーヒーを飲んで笑っていた。

 べつに、ちょっとぐらい触れてもいいのに。

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