第5話 影井京介のありふれた一日

 本を読むことが、とくべつ好きだと思ったことはなかった。

 人は一人では生きられないというが、その箴言めいたお節介な文句は、これが意味しようとしているであろう本質的な教訓とはべつとして、つまりは本当に誰の力も借りずに生きることができるのかという問いに答えることをいったん回避して、真だろう。

 人間は多すぎる。

 どの通りを選んで目的地に向かおうとしても、そこには避けようがないほどに人間が溢れている。

 いまだ社会と呼ばれる人生の大河に出てはいない、いわば支流のひとつに留まっている高校生の身分でも、そうなのだ。

 教室で一人で本を読んでいると、あなたは本が好きなの、と誰かに聞かれないではいられないだろう。

 もはやそういう時代になってしまったことをどうこういうつもりはない。

 もしそうするつもりなら、人類は増えすぎた、半分にするべきだ、とか高らかに宣言して宇宙を滅ぼす、SFの悪役にでもなるか?

 サイキック・パワーも持ち合わせない俺はこの人で溢れる世界を、そこに生まれついたことをかろうじて呪うことはできても、最後には受け入れるしかない。

 それならばあとは、どう苦痛を和らげるかにかかっている。

 好きでもないのに、どうしてそんなに本ばかり読んでいるのかという質問は、まさにこの鎮痛剤のためである。

 そんなことを考えながら、早朝の近所の公園のベンチに座っている。

 読書が習慣になってしまった我が身体を統治する脳は、こうしたまとまりのつかない思考とまったく隣り合った場所で、活字から得られる情報を並行して処理することができるようになっているらしい。

 まったくありがたいことだ、と本を閉じて俺はベンチを立った。

 体内時計ではそろそろ一度家に帰って学校に向かう時間だ。

 公園は昨今の遊具の撤去を受けて寂しく砂場だけが残っているほとんどただの広場なのだが、子供たちで賑わっていたころの名残りなのか背の高い時計だけは突っ立っている。

 それを見やって時間を確認すると思った通りの時間だった。

 ふむ、今日も正確だ。

 この早朝の散歩、もといほとんど公園で読書するための時間をはじめとした習慣による規則正しい生活による体内時計は、我ながら狂いが少ない。

 しかし今日は夏の朝にしては珍しく冷え込んで、少し腹が痛かった。

 いちおうトイレに行っておくか。

 ぽつぽつと歩いて向かい、今やほとんど誰も利用しない公演に備え付けのトイレに入ろうとすると、水洗トイレの流れる音がした。

 珍しい、俺だけが知る穴場スポットというぐらいのこの公園で、しかもこんな早朝に利用者がいるとは。

 読書と思惟に夢中で公園を訪れた者が俺以外にいたことにも気が付かなかったが、まあたいしたことではない。

 個室トイレの中の彼は、水洗トイレを流したのだから言うまでもなくそろそろ出てくるだろうが、失礼のないように会釈でもしてすれ違えばいいだけのことだ。

 こうしていちいち対応とも言えないような段取りを考えているのは、俺の病気のようなもので、つまり他人と接するときに無策ではいられないのだ。

 何も用意しないでは、すれ違うことすらおそろしい。

 施設を出てからの長い生活と、それがもたらした経験が、他人はそれほど危険なものじゃない、といい加減に俺に教えてくれようとしているとは言っても、だ。

 そういうわけで、少しだけ身構えて個室から出る彼を待っていた俺は、次の瞬間に目にしたものに思わず目を見張った。

「……え」

 振り返りざまに見えたのは背中の大きく開いていて、そこにリボンのような形で紐が結ばれたトップス。

 露出度が高めで、くっきりと肩甲骨の見える背中、スポーティな魅力を演出する夏らしいチョイスだ。

 そこにかかるのはわずかに背中まで届いている長い艶やかな黒髪。

 追って見えてくるふわふわしたスカートは膝丈ほどで、彼の全身の印象を丸くやわらかくしている。

 しかしそこから伸びるすらりとした足は健康的にしなやかな筋肉がついていることが見てとれて、長めのソックスで覆われているとさらに引き締まってスタイルが良い。

 とどめにヒール付きのパンプスが見えたところで、慌てて顔を上げると目があった。

 ナチュラルにメイクされた顔はかわいらしいというよりは綺麗というべきで、しだいに紅潮していくためにさりげないチークの代わりのようになっている頬は活きいきとした効果を讃えている。

 リップでみずみずしく保たれたうすい唇が半開きになって、震えた声が出る。

「……す、すみませんっ」

 彼女は──もう彼女と言ってさしつかえないだろうからそう言うが、彼女は慌てた様子で俺の脇を走り抜け、出ていった。

 俺は数秒ほど硬直して、ようやく身体の力が抜けるのを感じてから。

「び、びっくりした……」

 いちおう外に出て表示を確認してみたが、俺が女子トイレに間違えて入ったわけではないらしかった。

 あの子が間違えたのか、いや、小便器のある男子トイレには入っただけで違うほうだと気がつくはずだ。

 となると、そうか。

 女子トイレが故障していたとかで緊急に男子のほうを使わざるを得なかったのだろう。

 そういうこともある。そして、間の悪いことに俺のような闖入者があるときも。

「……ふう」

 トイレを済ませて公園に出ると、いつも通りの景色だ。

 ちょっとした事件はあったが、これも日常の範疇だろう。



「……ってことがあったんだよ」

 俺が一部始終を話すと、高峰は堪えきれないといった様子で笑い出した。

「なに笑ってんだ」

「っく、すまん……いやな、お前はつくづく漫画みてえな体験するよなって」

「したくてしてるわけじゃない。お前こそどうなんだよ、土日の休日はさぞかしアニメみたいな楽しいデートだったんだろうな?」

「……影井ちゃん、それを言うなよぉ」

 高峰は頭をがしがしとかいたと思えば、急に頭を抱えて唸りだした。

「こんなにおもしろいことがあっていじらないでいられるかよ。芸人だろ?」

「芸人だけどさあ……」

 先週、朝永と勧夕という二人の女の子に告白されるという、まさにアニメみたいな出来事を経験したらしいこの高峰という男は、この土日で二人と代わるがわるデートをしていたはずだった。

「二人に相談されたときはさすがに笑っちまったよな。まさか二人ともお前が好きだったとは」

「笑い事じゃねえだろ……俺はてっきり、二人はずっとお前のこと好きなんだと思ってたんだぞ?」

 恨みっぽい目で見上げてくる。

「まさか。俺みたいな根暗を好きになるヤツがいるならぜひとも会ってみたいね」

 肩をすくめて見せる。

「あーあー、言うとりますわ。うちの高校で一番モテる男が何言っちゃってんだか」

「どこ調べだよ」

 高峰のほうもやり返すように肩をすくめてくる。

 俺のより腹立つやりかたを弁えているらしく見事に俺はムカっとした。

「俺が我が校の生き字引と呼ばれているのを知らんのかね? 不勉強だぞ、影井くん」

「初耳だわ。つーか今のお前の状況は生き字引というより修羅場の生き地獄だろ?」

「だからそれを言うなってぇ……」

 結局うつ伏せる高峰。

 俺の勝ちだ。

 今日は朝永と勧夕は委員会に呼ばれているらしく、教室には俺と高峰だけだった。

 ちなみに俺も同じ図書委員ではあるのだが、本を読むのが仕事だと思って入ったのに実態は雑用や書架の整理など大きく異なっており、サボっていたら呼ばれなくなった。

 これが世に言う怪我の功名というやつだろう。

 それはさておき。

「でもま、影井もずいぶん丸くなったよな」

「そうか?」

 高峰のつぶやきに答える。

「なったさ。前は俺しか友達いなかったくせに、いまじゃ女友達が二人もいるんだぜ?」

「お前がそうしたんだろ?」

「感謝してくれよ? 根暗な影井くんを明るい場所に引っ張り出してやったんだ」

「余計なお世話だ。俺はずっと根暗のままだし、それで満足してるからな」

「へいへい、そうですかい」

 とは言っても、確かに感謝はしている。

 思い返せば、朝永と勧夕が最初に俺に話しかけてきたとき、二人が何を考えているのかわからなかった。

 前述の通り、俺は人間が苦手だ。

 これまで似たようなことがなかったといえば嘘になる。

 だからこそ俺は恐怖していた。

 施設の暗い部屋で擦り寄ってきた女の饐えたような臭いのことを思い出す。

 わけもわからず仲間外れにされ、一人で震えていたことを思い出す。

 いまさらフラッシュバックで苦しむほどではなくなった。

 だが、身体の底まで染み付いてしまった恐怖心は簡単には消えてくれない。

「でもまあ、お前がいてくれてよかったよ。高峰」

「あん? いまさら俺のありがたみに気付いたのかよ、影井ちゃん」

 得意げな笑い顔にムカつくけど。

「お前がいるとスベり芸には事欠かないからな」

「スベろうとしてスベってるんじゃねえんだからな!?」

 高峰の笑った顔を見ると安心する。

 変な意味じゃないが、実際そうなのだから仕方がない。

 そんなことを考えていると、教室の引き戸がガラリと音を立てて開けられた。

「……うっす。兄貴いますか?」

 入ってきたのは痩身の男の子。

 見る限り一年生らしいが、華奢な感じではなくすらりとした印象だ。

「お、遥じゃねえか。お前部活どうしたんだよ」

 答えたのは高峰。

「……部活どうしたって言うなら兄貴のほうだろ? ちょっとでいいから、そろそろ顔出せよ」

「ま、そのうちな」

 俺は訊ねる。

「……どなた?」

「そういや紹介してなかったな。こいつは高峰遥、俺の弟だ。今年から俺と同じ高校に入って二人暮らしまではいいけどな、俺と同じ部活にまで入ってるんだぜ? こんなブラコンがいるかよ」

「うっせーよ兄貴」

「ちったあ兄貴を敬え」

 高峰兄弟の軽口を傍に見ながらも、俺はひとまず挨拶した。

「影井だ。兄貴には世話になってる」

「どもっす」

 長めの黒髪を後ろでひとつに縛っている男の子はぺこりと頭を下げた。

 兄への軽口は年頃らしいもので、基本的に感じの良さそうな男の子だが、高峰と同じ部活ということは柔道部だろう。

「だいぶ髪長いみたいだが、柔道部って大丈夫なのか?」

 本人に聞くには少し聞きづらく、代わりに兄のほうに話を振ってみる。

「あー、まあな。俺は危ねえから切れって言ってんだが、無理やり切らせるわけにもいかんし。試合の時はぴったりまとめて頭にくっつけてるからギリ認められてる感じだ」

「そういうやりかたもあんのな」

 今時は髪型の自由も認められるべきだし、安全さえ確保できれば髪を切らせるような時代でもないのだろう。

 俺が納得していると、高峰弟は言った。

「つか、用事あって来たんだよ。今日の夕飯作り置きしてあるから先に食っといて。俺たぶん遅くなるから」

「了解。いつもすまんな、俺料理はまるでダメだからなあ」

「兄貴の作るモンはマジでギリギリ食えるか食えないかなんだからもう二度と作んなよ」

「……ひでえなおい」

 涙を流している兄を傍目に、弟は俺のほうに目をやって。

「じゃ、すんません……部活あるんで失礼します」

「おう、頑張れよ」

「……うす」

 呟くように言うと、高峰弟はそそくさと教室を出て行った。

 しばし高峰と目を合わせる。

「お前に似なくていい子じゃないか」

「ま、兄としちゃ仰る通りなんだがな? ちょっと不本意だな」

 そろそろ帰るか、という高峰にならって俺も鞄をまとめる。

 まだ日は高いが、帰って夕食まで読書と決め込もう。

 このパターンなら腹が減ってから初めて夕食の準備を始めるから、といっても冷凍庫の保存食を取り出してレンジ調理するだけなのだが、いつも餓死と隣り合わせなのだ。

 生きるか死ぬか、読書はこうでなきゃならない。

 これが巷で聞くハングリー精神というやつなのだろう。

「なに笑ってんだ?」

「なんでもねえよ」

 今日読む本を勘案しながら、だらだらと二人で家路に着く。

 ああ、今日も変わり映えはしないが、悪くない一日だったな。

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