16.なつかしいシュルーズベリの城で

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ケント州の領地に着いたジョイスとシャーロット。

ふたりで城内や領地内をまわるうち、ジョイスは彼女のいろいろな表情を見せられて――。


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 翌朝、シャーロットは清楚な水色のモーニングドレスで食堂におりていった。

 ジョイスが顔を輝かせて彼女を迎え、自然と頬に口づける。

「すてきだ、とてもよく似合っている」白く透きとおるような首筋や胸元が目にまぶしい。

「ありがとう、妹さんのドレスはどれもすばらしいものばかりだから」シャーロットは少しくすぐったい気持ちで、ジョイスの言葉を受け止めた。

 朝食の席で、ジョイスはさっそく切り出した。

「ここに来たいと言ったのは、ケント州の城が見てみたくなったということだったね? この城はとても美しくて、ぼくも気に入っているんだ。周囲の自然もすばらしいし。どこが見たい?」

 そう。イレーヌはモントン伯爵令嬢の話を聞いて、ケント州の城に興味を持ったのだと言った。もしや、サンドラ嬢に少しでも対抗心を感じてくれたのだろうか? もちろんサンドラ嬢を連れてくる気はさらさらないが、イレーヌとだったら、ここでいくらでも一緒に時間を過ごしたい。

「お城のなかも、まわりのご領地も、できればぜんぶ見たいです。昨日使わせていただいたお部屋もとてもすてきでした。このお城は本当に美しいわ」

 イレーヌの明るい笑顔にジョイスもうれしくなった。

「よし。じゃあ朝食が終わったら、まず城内の一階を案内しよう。どの部屋も趣味がよくて居心地がいいんだ」

 イレーヌは目を輝かせてうなずいた。


 朝食後、まずは応接間に行った。ここにはピアノがあって、ジョイスはぜひともイレーヌに弾いてほしいと思っていたのだ。幸い、念のためにと調律は早めに入れさせてあった。

 イレーヌは慈しむようにピアノをなでてスツールに座ると、そっと蓋を開けてしばらく見つめていた。

「さあ、遠慮せずに」

 ジョイスにうながされて、彼女はおもむろに弾き始めた。

 ジョイスの知らない曲だったが、美しいメロディーがやさしい音色で奏でられた。

「子どものころに練習した曲なの」曲が終わると彼女が少しさびしげに、なつかしそうに言った。「大好きで、よく弾いていたわ。曲名も覚えていないけれど」

 それでは彼女は、幼いころ、ピアノをたしなむような家庭にいたのだ。それはきっと仕立て屋ではないだろう。フランスの事情はよくわからないが……。

「そうなのか。時間はたっぷりあるから、いつでも弾いてくれていいよ。夜でも、明日でも、あさってでも」


 ひとまず応接間を出たふたりは、大広間、居間、書斎、図書室へと進んだ。驚いたのは、イレーヌが厨房や貯蔵室、屋根裏部屋など、使用人が使うところまで見たがったことだ。そんなところまで見てどうするのかとジョイスは思ったが、彼女はどこを見ても楽しそうだった。ときには真剣な表情で、家具や小物に見入ることもあった。

 ジョイスはけがの療養で来たときに城内をひととおり見ていたが、どの部屋も趣味よくしつらえられていたため、あえて内装や調度品を替えることはしていなかった。

 やがて二階に上がり、プライベートな区画にやってきた。まずは、主寝室――あるじが使う、ひときわ豪華な部屋だ。

「ああ、すばらしい立派なお部屋ね」巨大で豪華な天蓋付きベッドや、重厚だがあたたかみのあるマホガニーを使った内装を見て、イレーヌは感心しているようだった。

 なつかしいお父さまのお部屋。

 小さなころ、この大きなベッドに飛び乗って、お父さまに甘えたこともあったっけ……。

 シャーロットの胸には、昔の記憶が押し寄せていた。

 しかしそのとき、ふとサイドテーブルに目を移し、無造作に置かれたカフスボタンを見てどきりとした。突如、ここはもうジョイスが眠っている場所なのだという現実が迫ってきた。

 そう言えば、昔とは違うコロンのにおいがする。

 椅子の背もたれにかかったガウンも、見たことのないブルーのサテン――。

 シャーロットは急に鼓動が速くなり、あわてて主寝室を出た。

 その様子にジョイスも落ち着かなくなって、すぐに彼女のあとに続いた。

 どうして彼女は、この城や領地にこれほど興味を持ったのだろう?

 でも、なんでもいい。興味を持ってくれたこと自体がうれしい。どういう形でもいいから、もっとぼくのことを知ってほしいと思ってしまう。

 彼女がいま使っている主寝室の続き部屋は通りすぎ、ジョイスは子ども部屋として使われていたと思われる部屋のドアを開けた。

「ここは、おそらく子ども部屋――」振り返りながら言ったジョイスは、イレーヌが急に青ざめ、かたい表情をしていることに気がついた。小花柄を基調にした、とても愛らしい部屋なのだが……。

「どうした? 気分でも悪くなったのか? 疲れたかい?」ジョイスは心配そうにたずねた。

「い、いいえ。なんでもないわ。かわいらしいお部屋ね」繊細なレースのカバーがかかったベッドに視線が移る。ああ、なにも変わっていないわ。なつかしい、わたしの部屋。でも、このベッドで最後に眠っていたとき――!

 思わずシャーロットは目をぎゅっとつむった。

 ジョイスは顔色の悪いイレーヌを心配してこう切り出した。

「二階はこれくらいにして、少しやすもう。ずっと動いていたからね」


 居間で少しやすんで昼食をとったあと、ジョイスはイレーヌを図書室に誘った。彼女は次々と本を手に取り、ふたりで朗読を楽しんだりしているうちに時間が経つのも忘れた。ティータイムをはさむともう日が傾きかけており、外を散策するのはまた明日にしようとジョイスは提案した。

 その夜、彼女を部屋に送ったときに思いきっておやすみのキスをしてみると、彼女は逃げずに受け止めてくれた。


 夜明け前。

 空が白みかけたころ、シャーロットはそっと勝手口を抜け出した。

 まだ召使いは起きていないが、働き者の彼らが起き出すまでにはそう長くないだろう。

 足早に草地を抜けて小道に入り、五分ほど歩いたところで目的の場所に着いた。

 小さな礼拝堂と、その隣にある墓地。

 彼女の両親はここに眠っている。8年前の葬儀以来だ。

 あまり手入れもされていないのか、背の高い草が生い茂って墓標が埋まりそうになっていた。

 シャーロットは少しだけでもと手早く草を引き抜き、ひざまずいて頭を垂れ、祈った。

 ただ静かに涙が頬を伝っていた。

 顔を上げてから、両親の墓の近くに新しい墓はないかと探してみたが、クリストファーの名が刻まれた墓標は見つからなかった。

 玄関前まで戻ってきたときには、もう夜が明けていた。

 なつかしい庭が朝日を浴びて輝いていて、シャーロットは思わず足を止めた。

 ここは庭師が入ったのだろう、すっきりと整えられていた。大好きなつるバラが元気そうでほっとする。さすがに夏ほどの色彩はないけれど、植物は生命力にあふれていた。

「マダム・イレーヌ」玄関からジョイスの声がして、シャーロットは勢いよく振り返った。「こんなに朝早くからどうした?」彼はまだガウン姿だ。

「あの……早くに目が覚めてしまって、お庭がとてもきれいだったから……」シャーロットは両腕を広げて庭を示すように振った。しかし自分の手が汚れていることに気づき、さっと引っ込める。「つい、お花や木をさわってしまったの」困ったような笑みを彼に向けた。

 ジョイスはうなずき、あたりに視線をめぐらせた。

「ここの庭は本当にきれいだからね」どうやら彼女の話を信じてくれたらしい。「庭だけじゃなく、ここの森や丘もすばらしいんだ。海もあるし。今日は外に出る約束だったね。先にどちらが見たい?」

 海と聞いて、彼女の体が一瞬こわばった。

「も、森がいいわ」

「よし、わかった」ジョイスは彼女の一瞬の変化には気づかず、微笑んだ。「楽しみだな。じゃあ、手早く朝食をすませよう」


 朝食後、ジョイスは馬を用意させた。

 今日は敷地全体を広くイレーヌに見せてやりたい。馬車では小回りがきかないから、馬でまわるほうがいいだろう。

 二人用の鞍をつけた栗毛の馬にまず彼女を乗せ、その後ろに自分もまたがった。後ろから彼女を抱き込むように手綱を握ると、いとおしさがこみ上げる。

 彼女は少し肩を丸めるように身じろぎした。背中から包み込まれるようなあたたかさが全身に広がって、どきどきする。

「力を抜いて、楽にして」ジョイスはやさしく耳元でささやいた。

 シャーロットは胸がどきんと跳ねたが、言われたとおりに力を抜き、彼にもたれて体をあずけた。

「そう、それでいい」

 ジョイスはいっそう彼女を守るように身を寄せ、馬の横腹にかかとを入れて出発させた。

 少し肌寒いが、さわやかな風が心地いい。風で飛ばされないよう、彼女が手袋をはめた白い手で帽子を押さえているのもかわいらしかった。

 やがて木立ちに入ると、道が細くうねってきた。彼がこの森に入ったことはまだ数えるほどしかないが、森が深まったあたりにすばらしいブナの大木があるのを見つけていた。小川が流れている場所もあるし、まるで絵本の世界だ。きっと彼女も気に入ってくれるだろう。

 いったん小道を抜けて少し開けたところに出たとたん、巨大なブナの木が目に飛び込んできた。「ほら」ジョイスが誇らしげにブナの木に腕を伸ばした。「立派な木だろう?」

「ええ、本当に」イレーヌは心から畏敬の念を感じているようだった。しばらく木を見つめていたが、急に馬上で勢いよく振り向き、ジョイスを見上げた。

「ねえ、侯爵さま、あの木に登ってみたいわ」

 ジョイスは心底、驚いた。

 なんと言った? あの木に登る?

 いったい彼女はなにを言い出すのだろう。

「いや、それは……」彼が戸惑っているうちに、彼女は自分で馬をおりようとした。あわててジョイスは馬をおり、彼女のウエストを抱えておろしてやった。

「ありがとう」まるでいたずらっ子のような顔をしてイレーヌはスカートを両手で持ち上げ、ブナの木に駆け寄った。ジョイスがあわてて追いかける。

 木のところまでたどり着いた彼女は、両腕をいっぱいに広げて太い幹に抱きついた。幹に頬を当て、まるで挨拶するかのようにトントンとやさしく木をたたく。

 そして、さっそく登り始めた。

 ジョイスはあ然としてしまった。冗談かと思ったが、彼女は本当にするすると大木を登っていく。

 信じられない。

 いちばん低く枝分かれした部分で彼女がひと息入れたとき、ジョイスはようやくわれに返って叫んだ。

「危ないぞ! そこまででいい!」

 しかしイレーヌはにんまり笑い、ジョイスを見下ろした。

「大丈夫! 心配ご無用よ!」また空を見上げ、さらに上を目指して登り始める。

 ジョイスはどうすることもできず、冷や汗をかきながら見守った。

 六、七メートルほども登っただろうか、やっと彼女は枝に腰を落ち着けて彼に声をかけた。

「すばらしい眺めだわ! とってもすてきよ、侯爵さま!」

「もういいだろう! 早くおりてきてくれ! ぼくのためだと思って!」声を限りにジョイスは叫んだ。

 その気持ちが通じたのか、彼女はしかたないわねとでも言うように眉をくいっと上げ、木をおり始めた。

 彼女の足が地面に着くが早いか、ジョイスは彼女をきつく抱きしめた。

「どうしたの、侯爵さま? 苦しいわ」あまりに強く抱きしめられて、彼女はびっくりした。

「心配したんだ。約束してくれ、もうこんな無茶はしないと」ジョイスが真剣な顔で彼女の顔を見つめる。

「まあ……そんなに心配をかけてしまったのね。ごめんなさい」彼女はしおらしく反省したように小声で言ったが、すぐにやさしく微笑んだ。「でも、本当に大丈夫なの。こんなのは無茶でもなんでもないわ。信じて」彼女がなだめるようにジョイスの頬をなでる。

 こんな女性は初めてだ。どこかさびしげで、いつもひかえめなのに、急に少女のように無邪気になって木登りなんかしてしまう。

 ぼくは振り回されっぱなしだ。

 彼女の手のあたたかさに引かれるように、ジョイスの顔は下がっていった。

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