09.マダム・ノワールは謎だらけ その2

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マダム・ノワールのことを考える時間が長くなっていくジョイス。

紳士のクラブに出かけた帰り、意外なところで彼女を見かけて――。


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 翌日、ジョイスはふたたび紳士のクラブに出かけた。

 いよいよ社交シーズンが始まる直前となり、社交界の面々がロンドンに戻ってきていた。人が増えてくると、それだけ多くのうわさが速度を増して広まるようになる。

 クラブでは今日もタバコと葉巻の煙が充満し、レイとその友人たちが宵の口から酒とカードゲームに興じていた。

 レイが目ざとくジョイスを見つけた。「おっ、うわさをすればなんとやらだ。ジョイス、こっちだ!」

 ジョイスは呼ばれるままにテーブルに向かった。レイがグラスを掲げて挨拶する。「いい辛口のシェリーが入ってる。まずは一杯どうだ?」

「ああ、もらうよ」ジョイスは座りながら返事をした。

 酒が来るのも待たず、レイは話しはじめた。「耳に入ってるぞ、例の美人テーラーの件。おまえのところに住み込んでるって? いったいどうやって落とした? あっという間の早業じゃないか」いささか興奮ぎみにまくしたてる。同じテーブルについているほかの紳士たちも興味津々の顔つきだ。

「いや、かなりの数の仕立てを頼んだだけだ。実利と効率を考えて住み込んでもらうことになったが、べつに深い意味はないぞ」

「おいおい、隠すなよ。いま正直に言えば、賭け金をせしめてもたからないでいてやるぞ?」レイはにやにやとからかうように言った。

「うそじゃない。彼女は毎日、作業場の居間にこもって縫い物ざんまいだ。助手とふたたりだけで飾り刺繍までやるそうだから、いくら時間があっても足りないと言っていた」ジョイスは突き放すように言った。食事やお茶をともにしていることや、マダム・ノワールが文学や音楽にも造詣が深いことは、なぜか言いたくなかった。興味本位で立ち入られたくない。


 じつは、最初に彼女のピアノを聞いた日から、毎日、少しずつ演奏を聞かせてもらっていた。食事やお茶の時間には、本や歴史の話にも花が咲く。彼女自身の経歴についてははぐらかされるが、ほかの男と暮らした話などジョイスも聞きたくはなかった。異国から来て男装しているくらいだから、いろいろと事情があるのだろう。深く詮索するのはよそうと思っていた。


 だが、昨夜、かなり遅い時間に図書室で彼女と鉢合わせした。なかなか寝つけず、眠くなりそうな難しい哲学書でも持ってこようと図書室に行ったのだ。

 しかし、寝つけない理由は薄々わかっていた。

 母から手紙が届いたせいだ。

 伯爵令嬢が早々にロンドン入りしているから、早く訪問せよとのお達しだった。ジョイスは令嬢の名前すらよく覚えておらず、訪問する気もまったくないのに。


 まさか、あんなに遅い時間にだれかが図書室にいるとは思わなかった。カチャリとドアを開けた瞬間、ろうそくの明かりだけの室内で、彼女がさっと振り返った。

 いつもの黒ずくめの衣装ではなく、ナイトドレス姿の彼女が……。

 彼女のほうも、人が来るとは思っていなかったのだろう、ガウンもはおっていなかった。

 あわてた様子で、どうしても読みたくなった本があって取りに来た、というようなことを早口でつぶやきながら、本を抱えて彼の横をすり抜けた。

 ジョイスは息をのんだまま、ひとこともしゃべれなかった。

 彼女は本を胸に押し当てていた。しかし、いつもはクラヴァットで隠れているのどや首は隠せない。腕も、ひじのあたりまで見えていた。

 のども、首も、腕も、真っ白だった。

 やわらかで薄いナイトドレスは、肩や背中や腰の線をところどころ浮かび上がらせて……。

 ジョイスは言葉を返すのも忘れて突っ立っていた。

 彼女が横を通ったときには、花のような香りがふわりと立ちのぼった――。


「ジョイス? おい、ジョイス!」レイの声に、ジョイスははっとわれに返った。「どうした? ぼんやりして」

 ジョイスは、シェリーの入ったグラスをテーブルに置いた。「すまない、急用を思い出した。話はまた今度」

 ぽかんとしている友人たちを残し、ジョイスはクラブを出た。

 このところ、気づけばマダム・ノワールのことを考えている。毎日、毎食、顔を合わせているのに、ひとりでいるときも彼女のことが頭から離れない。自分のそんな状態と気持ちの正体に、ジョイスはうすうす気づきはじめていた。


 クラブから馬車に揺られ、レスター・スクエア近くまで戻ってきたときだった。

 ジョイスは見るともなしに窓の外を眺めていたが、道が混み合ってきて、馬車が速度を落とした。ふと目をやった路地で、マダム・ノワールに似た人影を見たように思った。彼はとっさに馬車を止めさせ、路地に目を凝らした。

 ついには幻覚まで見てしまうようになったのか?

 ジョイスは半ば本気で心配になったが、やはり彼女だった。横にサラらしき小柄な女性を連れている。

 ふたりがこんなところでなにをしているのだろう?

 彼女たちの前には、労働者ふうの男がいた。なにか話をしているように見えるが、楽しい話をしているようには見えない。

 ロンドンの街なかで、あんな男と、どんな用事があるというんだ?

 とてつもなく気になったが、後ろからやってきた馬車に警笛を鳴らされ、馬車を出さざるを得なかった。

 タウンハウスに戻ってくると、やはりマダムとサラは留守にしていた。用事があって店に行ってくると言って出かけたらしいが、あの男が客ならば、店で話をすればいいだろうに、どうしてあんな街角で?

 まさか、個人的な関係のある男なのか?

 ジョイスはすっかり落ち着きをなくし、着替えもせずに書斎を歩きまわっていた。


「今回もなにもわかりませんでしたね」サラがため息をついた。

 シャーロットも浮かない顔をして、暗くなりかけた道をふたりでタウンハウスに向かって歩いていた。

「仕方がないわね、ロンドンは大きな街で人が多いし、わからなかったと言われればどうしようもないわ。でもクリスのことはともかく、おじのことなら少しは手がかりが見つかりそうなものなのに……」気落ちした様子でシャーロットは言った。

「確かに、これだけ人がいるのですものね」サラは周囲を見まわし、またため息をついた。「でも、今回も手間賃だけ払うことになってしまって、残念ですわ」

 ふたりはクリスとおじの所在を突き止めるため、何でも屋の男に人探しの依頼をしていた。

 ロンドンでなんのつてもないシャーロットは、店を始めるために部屋を借りたとき、仲介人や近隣の人間に相談をしてみたのだ。そうして行き当たったのが、さきほどの何でも屋の男だった。

 貴族を探すのは難しいと言われたが、とにかくその男に頼むしかなかった。二、三週に一度は会って成果を確かめているが、いまのところなにもわからず、手間賃だけを払いつづけている。


 ようやくタウンハウスに戻ってきたときには、すでに夕食の時間を過ぎていた。シャーロットとサラは急いで身支度を整え、食堂におりていった。ジョイスのほうが先にテーブルについて、食前酒を飲んでいた。

「申し訳ありません、遅れてしまって。ちょっと必要なものがあって、店まで取りにいっていました」シャーロットは説明しながら席についた。

「仕上げに使うものなのかな? そろそろいまの一着が仕上がりそうに見えるが……」ジョイスが無表情で尋ねる。

「え……ええ、そうなんです、もうすぐですから、楽しみにしていてくださいね」にこりと笑い、シャーロットはそそくさとナプキンを広げた。

 ジョイスは探るようなまなざしで彼女を見ていたが、食前酒を飲み干すと、夕食を始めた。

 彼女はあきらかにうそをついている。街で男に会っていたことを話さない。なんでも彼に言わなければならない義理などないのはわかっているが、ジョイスは内心おだやかではなかった。

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