08.マダム・ノワールは謎だらけ その1

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侯爵のタウンハウスに住み込むことになったシャーロット。

食事をともにするのはもちろん、休憩時間にもふたりの交流は増えていき――。


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 翌日、タウンハウスに着いたシャーロットとサラは、それぞれ別の部屋に案内された。

 二階にあるジョイスの主寝室から数部屋空けた最奥の部屋がシャーロットに、そこから短い渡り廊下を渡ってすぐの部屋がサラに用意されていた。家人やゲストが使う部屋をあてがわれるという、これまた破格の扱いだった。

 食事もいままでどおり、昼も夜もアフタヌーンティーもふるまわれ、さらにもちろん朝食もつく。シャーロットの頭にミセス・スミスの渋い顔が浮かんだが、どうしようもない。あんな注意を受けたばかりなのに、前よりもっと待遇がよくなってしまった。


 その日の昼食後、美しい中庭のベンチでシャーロットが休憩していると、一階の突き当たりの部屋からジョイスが出てきた。廊下の窓からシャーロットが見えたようで、彼も中庭へやってきた。

「あたたかくて気持ちのいい午後だね」ジョイスの手には本が一冊握られている。

「まあ、ご本ですか?」シャーロットは目を輝かせて尋ねた。

「ああ。けがで動けなかったとき、退屈しのぎに昔の本を引っ張り出して読んでみたら、また本がおもしろくなってね」ジョイスはひょいと本を持ち上げた。

「それは……?」

「ガリバー旅行記」ジョイスがにやりと笑う。

「ガリバー旅行記! わたしも大好きです」シャーロットは思わず両手を打ち合わせた。

「読んだことがあるのか? フランスでも人気があるのかな?」彼が目を丸くする。

「えっ――」一瞬、シャーロットは言葉に詰まった。「え、ええ……とても有名なお話ですから……」どことなく視線が泳いでいる。

 しかしジョイスはそれに気づかず、代わりになにかを思いついたようだった。「もしきみが本を読め――いや――本が好きだというなら、図書室を使ってもいいぞ。こっちだ、案内しよう」

 思わぬ提案にシャーロットは驚いたが、ジョイスのあとについていった。

 一階の廊下の突き当りにある、先ほど彼が出てきた部屋は、図書室だったらしい。四方の壁一面に天井まで本がぎっしり詰まっていて、上のほうにははしごまでかかっていた。さらにガラス扉のついた飾り棚もあり、大判で薄めの本がたくさん入っている。背表紙に目を留めたシャーロットは、表情を変えた。

「これは――楽譜ね?」彼女の声のトーンが高くなった。

「そうだ、よくわかったね」ジョイスはガラス扉を開けて一冊取り出した。「これはバッハの平均律。ぼくは弾けないが、眺めているだけでもおもしろいんだ」

「ええ、彼の音楽は、心が洗われて、澄んでいくような気がするわ」

 ジョイスは見るからに驚いた顔をした。「聞いたことがあるのか?」バッハと仕立て屋など、とても結びつかないのだが――。

 彼女ははっとして少しうろたえたようだったが、はっきりとは答えなかった。ジョイスも深く追求することなく、別の質問をしてみた。「もしかして、きみはピアノが弾けるのか?」

 マダム・ノワールは一瞬ためらってから、「少し……」とつぶやくように答えた。

 ジョイスはさらに何冊か楽譜を取り出すと、彼女を一階の客間に連れていった。客間の奥に、カバーをかけた大きな四角い家具がある。彼がカバーをはずすと、下からアップライトピアノがあらわれた。

「よければ自由にどうぞ。妹がたしなんでいたんだが、もうだれも弾かなくなったから。調律はたまにやっているはずだ」ジョイスはピアノの上に楽譜を置いた。

「妹さんはご結婚でもされて、遠くに行かれたの?」

「亡くなったんだ、六年前に、十七歳で」

 かわいいセシル。

 金髪で、青い瞳の、天使のように純真だった妹。あの子はひねくれぎみに育ったジョイスにもなついて、慕ってくれた。しかし十七歳という若さで天に召されてしまった。体が弱いながらも、社交界にデビューするのを楽しみにしていたのに。

 シャーロットの表情がたちまち驚きと哀しみにくもった。「そんな……お気の毒に……ごめんなさい」

「きみが謝ることはない。だれかが弾いてくれれば、ピアノも楽譜も、そして妹もうれしいと思うよ」ジョイスはスツールを引き出し、さっと腕を振った。「さあ、どうぞ」

「もうずいぶん弾いていないけれど」そう言いながらも、彼女は腰をおろした。ピアノの蓋を開け、楽譜を一冊手に取って、譜面台に広げる。

 ひとつ深呼吸をして鍵盤をなでると、シャーロットは軽やかに弾きはじめた。モーツァルトのピアノソナタ。愛らしく澄んだ音色が、客間いっぱいに響いて広がっていく。

 ジョイスは目を見張ったが、そのまま耳をかたむけた。

 数分後、第一楽章の最後の一音が鳴り終わると、ジョイスは盛大な拍手を送った。「すばらしい。こんな演奏がこの屋敷で聴けるとは思わなかった。ありがとう」

 シャーロットは頬を染め、花がほころぶような笑顔で彼を見上げた。

 ジョイスは息が止まりそうになった。またしてもその笑顔に目を奪われた。マダム・ノワールはもともと美しいが、笑顔には光り輝くような魅力がある。何度でも見たくなるような、格別な魅力が。

 彼は、思わず彼女の背中に手を置いた。「ほかにだれも弾く人間はいないんだ、いつでも好きなときに弾けばいい。楽譜も、本も、自由に使ってくれ」

「あ、ありがとうございます」彼女は急に目を伏せ、礼を言って立ちあがった。「作業の合間に時間ができたら、使わせていただきます」どこかあわてた様子でピアノの蓋を閉じると、ジョイスの横をすり抜けて客間を出ていった。

 ジョイスは彼女の笑顔と態度のギャップに困惑していた。近づいたと思ったら、遠ざかる。

 女だてらにテーラーなどしている女性が、本も読めるし、ピアノも弾ける。謎だらけだ。未亡人ということだから、結婚していたときにピアノをたしなんでいたのだろうか。

 結婚――彼女がだれかと暮らしていたという事実が、急に現実となって押し寄せてきた。ジョイスは怒りにも似た、もやもやとした気分になった。なんなんだ、いったい? いらだたしげに小さく息を吐くと、本を読む気も失せて、帳簿付けでもしようと書斎に向かった。


 ドキン、ドキン、ドキン――動悸がおさまらない。

 本も、ピアノも、大好きだった。15歳のあの日まで、読まない日も、弾かない日もなかったくらい。だから侯爵の申し出に気持ちを抑えきれず、ピアノを弾いてしまった。そうしたら……。

 あんなふうに喜んでくれるなんて――。

 彼の笑顔に息が止まるかと思った。背中に置かれた、大きくてあたたかい手。びっくりして、どうすればいいかわからなくなって……ろくにお礼も言えずに出てきてしまった。

 彼はやさしい。

 でもミセス・スミスの言うとおり、そのやさしさに甘えるのはやめなくちゃ。

 勘違いしてはだめよ――彼とわたしの世界が交わることはないのだから――。

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