07.彼のやさしさに甘えてはだめ
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ブランフォード侯爵邸での仕立て作業は順調に進むかに見えた。
しかし、ジョイスから寛大な特別扱いを受けるシャーロットは、いきなり女中頭からとがめられて――。
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翌朝、マダム・ノワールの店の前にモールバラ侯爵家の小型馬車が停まった。店の上階をすまいにしているシャーロットとサラは、侯爵のタウンハウスに向かおうとしていたところだった。コヴェント・ガーデンからメイフェアまで歩けなくはないが、少し距離があるため、乗合馬車を使うつもりでいたのだが――。
「ブランフォード侯爵のお言いつけでまいりました」御者がシャーロットに言い、馬車のドアを開けた。
シャーロットとサラは顔を見合わせたが、促されるまま馬車に乗り込み、あっという間に侯爵のタウンハウスに到着した。
この日以来、店とタウンハウスの行き来には、いつも馬車が出されるようになった。
破格の扱いだ。
広く明るい二階の居間で、作業はとどこおりなく進んだ。
侯爵が同じ屋敷内にいるのですぐに確認や修正ができるし、療養を終えたばかりの侯爵が疲れないよう、仮縫いを短時間ずつにすることもできる。結局、やはり通いにしたのは正解だった。
作業は毎日、午前中の遅い時間から夕方までだったが、昼食とアフタヌーンティー、さらには夕食までふるまわれた。しかも侯爵と同じテーブルにつくという、通常では考えられない待遇だ。
断ろうとしても、侯爵から「食事中に衣装の相談をしたい」と言われてはどうしようもなかった。実際は衣装の話など少しだけで、ほかのこと――たいていマダム・ノワール自身のことに話題が移っていった。
シャーロットはマダム・ノワールとして、パリでの生活や仕立ての仕事についてはそれなりに話したが、シャーロット・ヘムズワースだったころの話ははぐらかしつづけた。作り話をしてもよかったが、うそをつきたくはないし、あとでつじつまが合わなくなってもいけないと思ったのだ。
侯爵はとてもおだやかな人だった。軍人として戦っていたとは思えないほどおだやかで、落ち着いた声でしゃべる。物腰もゆったりとして、そばにいるとなぜかほっとする。
「これでも昔はやんちゃだったこともある」と言われても、信じられなかった。
男の身なりをしたシャーロットに対して、いつも椅子を引いてくれ、ドアを支えていてくれ、重い荷物を持ってくれる。まるでレディに接しているかのような扱いをされて、知らず知らずのうちにシャーロットは大事にされる心地よさを味わっていた。
そんな日々が十日ほどもつづいたころ――。
「マダム、ちょっとよろしいですか?」その日の作業も終わろうとしていた夕刻、険しい顔の女中頭ミセス・スミスに呼び止められた。
「わたしがこんなこと言うのもなんですが、もう少し、分をわきまえたほうがいいんじゃありませんかね? 食事をたかったり、送り迎えをさせたり。ずうずうしいですよ。だんなさまはおやさしいからあれこれしてくださいますけど、仕事の手間賃はちゃんといただいてるんですから」
シャーロットはショックを受けた。「そ、そんな……でも、それは侯爵さまが……」途中で声がしぼむ。
「ふつうは断るものですよ。厚かましいったらありゃしない」言うだけ言うと、ミセス・スミスはあらためてシャーロットをにらみつけ、口をへの字にして廊下の奥に消えていった。
シャーロットは動揺した。
そんなつもりはなかったのに、自分が浅ましい人間に見えていたなんて……!
青い顔をして作業場の居間に戻ると、そそくさと手荷物をまとめた。不思議そうな顔をしているサラを追い立てるようにして、タウンハウスを出る。今晩も夕食が用意されているはずだったが、とても食べていられる気分ではなかった。
「お嬢さま、どうしたんですか?」小走りでサラがついてくる。
「なんでもないわ。今日の作業は終わったのだから、もう帰りましょう」適当な言い訳を口にした。
「でも、お食事と馬車が……」サラはタウンハウスのほうを振り返りながら言った。当然、今日も食事をして馬車で帰るものと思っていたのだろう。
「それはもういいのよ。そもそも、そんなものがあるほうがおかしかったのだから」シャーロットはいっそう足を速めた。だいぶ暗くなりかけていたが、三十分も歩けば帰れるだろう。
ロンドンでもひときわにぎわうピカデリー・サーカスにさしかかった。
行き交う人が多くなり、シャーロットは若い労働者ふうの男とすれ違いざま、肩が少しぶつかった。すみません、と小声で謝ったが、男は足を止めた。
「おいおい、人にぶつかっといて、すみませんですませようってのかい?」男はすでにだいぶ酔っ払っているようだ。「こぎれいな格好しやがって、すかしてやがる。こっちは今日も仕事にあぶれてるってのによぉ……」文句を言いながら、シャーロットの目の前まで近づいてきた。と、男がなにかに気づいたように、まじまじとシャーロットの顔を見た。
「あれ? あんた、もしかして女か?」帽子をかぶってうつむき加減のシャーロットを、下から覗き込むようにして男は目を細めた。「よく見りゃあ、きれいな顔してんじゃねえか。そんな
シャーロットの体がびくっと跳ねた。「や……やめ……」こわくて身がすくみ、足も動かない。
「お嬢さま!」サラが駆け寄って間に入ろうとした
「ババアはすっこんでろ!」男はサラを乱暴に押しやり、じっくりシャーロットの顔を眺めまわす。
「あんた、見れば見るほどほんとにべっぴんだなぁ。こんなとこをうろついて、客を探してんのか? おれが相手してやるよ、あんたみたいなのなら大歓迎だ」男がシャーロットの手首をつかんだ。
「ち、違います! 離してください!」シャーロットは手を引こうとしたが、男の手は振りほどけなかった。逆にもう片方の手もつかまれ、もみ合いになる。
「離して!」シャーロットは恐怖でパニックになり、必死で身をよじった。
かつての忌まわしい記憶がよみがえってくる。のしかかられて……押さえつけられて……。
「やめろ!」
目の前に大きな手が伸びてきて、シャーロットの手首をつかんでいた男の手があっという間にひねりあげられた。シャーロットの両手が、ふわっと自由になる。目を上げると、そこにはブランフォード侯爵の顔があった。
「女性に無体を働くとはけしからんやつだ。牢屋に入れられたくなければ、さっさと消えろ!」圧倒的な迫力で男をにらみつける。
大きな背中が、シャーロットの目の前に広がった。たくましい壁。
長身のジョイスに上からにらまれ、労働者の男は逃げるようにいなくなった。
立ちすくむシャーロットにジョイスは向き直ると、やさしく肩に手をかけた。大きな手のあたたかさが彼女の肩に沁み込んでいく。
「大丈夫か? けがはないか?」彼は心配そうな顔で覗き込んだ。
シャーロットは磁石に引かれるように、ジョイスの胸にもたれかかった。
なんて大きくて、あたたかな胸……。
ジョイスは目を見張った。小さな黒い頭のてっぺんを見下ろすと、華奢な肩が小さく震えている。
思わずその体に両腕をまわした。
「大丈夫、もう大丈夫だ」ゆっくりと小さな背中をさすってやる。すっぽりと腕に収まってしまう、小さな体。紳士の格好をしていても、まぎれもなく、やわらかな女性の体だった。
感じたことのないような、庇護欲のような気持ちが湧いてきて、ジョイスの体がかあっと熱くなる。
「無事でよかった。食事もとらずに歩いて帰ったというから、追ってきたんだ。とにかくロンドンの夜は物騒だから」
知らず知らず、腕に力がこもった。
その腕の強さに、シャーロットがはっとして顔を上げた。両手を突き出し、ジョイスを押しやる。
「ご、ごめんなさい」どこに視線を持っていけばいいかわからない。
ジョイスはひとつ息をして、口を開いた。
「いいんだ。よかった、無事で。今日はこのまま送っていくが、明日の朝は身のまわりのものを用意してきたまえ。やはり、きみたちには屋敷に住み込んでもらうことにしよう」
サラが目を丸くして口を開いた。「ですが、おじょ……いえ、マダムは――」
「いや、いつまたこういうことがあるかもわからない。今日はたまたまぼくが間に合ったからよかったものの……やはり最初から住み込んでもらうべきだった。だいたい、通いでは時間の無駄も多い。明日から住み込みだ、わかったね?」ジョイスは有無を言わさぬ真剣な顔つきで、シャーロットに言った。
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