05.この緊張は、だれのせい?
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仕立てのための採寸が始まった。
ジョイスの体に残るひどい傷痕を見てシャーロットは驚くが、彼女が落ち着かないのは傷のせいではなかった。
ジョイスもまた、彼女の存在を間近に感じて落ち着かなくなり――。
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シャーロットは鋭く息をのんだ。
侯爵の右胸から脇腹、さらには肩と背中にかけて、ひどい傷痕が大きく残っていた。
軍人なのだから傷があるのは当たり前――とは言えないほどの、むごたらしい傷痕。
肉は引き攣れ、そげたところは色が変わって、でこぼこしている。
「す、すみません……すぐに薄い肌着をお持ちして……」彼女はあわてて言った。
「いや、かまわない。ただ、きみを驚かせてしまったのなら申し訳なかった」やはり、若い女性には刺激が強かっただろうか。先に話しておけばよかった。しかし、どう切り出せばいいか迷っているうちに、機会を逸してしまった。
「いいえ、わたしは大丈夫です」マダム・ノワールの声が気丈に答えた。
「それでは、さっそく採寸に入らせていただきます」シャーロットは落ち着いた口調を取り戻し、黒のフロックコートのポケットから巻き尺を取り出した。
ひどい傷にびっくりはしたけれど、いやな気持ちになったわけではなかった。
だって、彼女にも傷はある。海に落ちたあの日、左腕に深い傷を負った。それだけの傷でも痛みに何日も苦しみ、傷痕が残ったことがつらかった。それを思えば、この侯爵の傷は――どんなに痛かっただろう、苦しんだだろう。
シャーロットは気持ちを鎮め、無駄のない手つきでジョイスのサイズを計りはじめた。
マダム・ノワールの手はあたたかく、やわらかかった。
最初に彼女の手と巻き尺が肌にふれたとき、ジョイスはわずかに息をのんだ。目隠しで視覚が奪われたことで、ほかの感覚が鋭くなったのだろうか。痛いほどに彼女の気配を感じた。
それに、彼女の声。少し抑えたおだやかな声が数値を次々と読み上げていくのが、不思議と心地いい。
しかも彼女の手は、ときおりジョイスの肌をかすめた。
このしなやかな手に、もっと肌をなでてほしくなる。
信じられない。いったいぼくはどうなってしまったんだ。
ジョイスはじっと前を向き、努めてゆっくりと呼吸をしながら、採寸が終わるのを待った。
しかし上半身が終わると、マダム・ノワールはひざまずき、下半身のサイズを計りはじめた。
胴まわりや腰まわりを計るとき、まるで彼女がジョイスに抱きつくようにして巻き尺をまわす。彼女のやわらかさや体温が伝わって、花のように甘く可憐な香りがふわりと漂った。太もものまわりを計られたときには、筋肉がぴくりと跳ねてしまった。
こんな緊張は初めてだ。とにかく忍耐だ、耐えろ、耐えろ。
永遠にも思えるような長い時間が過ぎ、ようやく採寸の終わりを告げられたときには、ジョイスは詰めていた息を吐き出した。
「お疲れさまでした」
マダム・ノワールの声がやさしく響く。シャツを肩から掛けられた感覚があり、目隠しがはずされた。
ジョイスがシャツのボタンを留めてブリーチズを穿いたところで、マダム・ノワールとサラが二人がかりでクラヴァットを巻き、上衣を元どおりに着せてくれた。従者に世話を焼かれることには慣れているが、なにぶんいつもと勝手が違う。
体の奥から熱がじわりと滲み出すような、腹の奥が重たくなるような……。
くそっ、長らく戦場にいたとはいえ、こんなふうに初対面の女性に反応してしまうとは!
しかも、相手は男装で、指輪もしているんだぞ?
「これからすぐに生地の手配をいたします。実際にお手に取って選んでいただいたあと、裁断、仮縫いへと進んで、修正を加えながら仕立ててまいります」マダム・ノワールは視線を泳がせながら巻き尺をしまい、助手の記録に目を通しつつ、今後の予定を口にした。
「その作業のことだが」ジョイスは彼女をさえぎるように言った。「ぼくのタウンハウスに住み込んではどうだろう? 場所も広く使えるし、移動の時間もかからない。ぼくも毎日のようにここへ出向くのは大変なのでね」
考える前に、ジョイスの口から住み込みの提案が飛び出していた。
クラブの紳士仲間と“マダム・ノワールを落とす”賭けをしているからといって、よこしまなことを考えたわけではないのだが……。
シャーロットは、かすかに眉根を寄せてジョイスを見上げた。
住み込みの提案をされたのは、じつはこれが初めてではない。これまでにも同様の提案や、もっとあからさまに店の外での逢瀬を持ちかけられたこともある。そのたびに丁重に、しかしきっぱりと断ってきた。住み込みで作業ができれば確かに仕事ははかどるだろうが……。ブランフォード侯爵から下心のようなものは感じられないけれど、用心するに越したことはない。
「いえ、お申し出はありがたいのですが、ここで作業をすることに慣れているので、必要に応じて店に来ていただく形を取っているんです。でも、今回は数も多いですね……」彼女は少し考えた。「いらしていただくのが大変なら、侯爵さまのお屋敷に通って作業させていただきましょう。次は生地を見ていただくのですが、お屋敷にお持ちしてよろしいですか?」静かだが、決然とした口調だった。
どうして住み込みを持ちかけたのか、ジョイスは自分でもわからなかった。勝手に口が動いてしまった。だから、こうきっぱりと断られては、それ以上食い下がる理由もない。
「わかった。では、明日にでも生地屋を連れてきてくれ」ジョイスは外套をはおって帽子をかぶり、手袋とステッキを手にしてすみやかに部屋を出た。
待たせておいた馬車まで戻ると、タウンハウスまで戻るよう言いつけた。
ロンドンの街を馬車に揺られながら、ジョイスはこの数時間を振り返った。
マダム・ノワール。
うわさどおり、黒ずくめの男装の麗人テーラーだった。女だてらに紳士服の仕立てなどして、どんな男勝りの勝ち気な女か、あるいはテーラーとは名ばかりの娼婦のように妖艶な女かと想像していたが、高貴な貴婦人と言ったほうがしっくりくる。
仕立ての腕には相当な自信があるのだろう。彼の挑発めいた言葉に気丈な反応を返していた。しかし、どこかはかなげなところもあるような気がする。
指輪をしていたから、やはり未亡人なのか? あるいはどこかに連れ合いがいるのか?
男の影を感じて、なぜかジョイスの心は波立ったが、明日からひんぱんに彼女に会うと思うと、どこか気持ちが浮き立つのも確かだった。
「お嬢さま、大丈夫ですか?」椅子に腰かけてぼんやりしているシャーロットに、サラはそっと声をかけた。
男性に恐怖心を持っているシャーロットが紳士服の仕立てをすることは、心身ともにかなりの負担がかかる。パリで鍛えられたとはいえ、ここには女ふたりしかいない。その対策として、シャー ロットは男の身なりをし、左手の薬指に指輪もはめると言い出した。若い女だからとなめられたり、不埒なことをされたりする危険が、少しでも減るのを期待してのことだ。
客に接するときは、ことさら事務的に話す。採寸のときは客に目隠しをさせ、できるだけ動きを封じる。そして、かならずサラも同席する。
目隠しは客から不満が出るかもしれないと心配したが、意外にも断られることはなかった。
ロンドンで店を開いて3カ月。
シャーロットは、なんとか問題なく接客をこなせている。
しかし、今日のブランフォード侯爵に対しては、いつもより緊張していたように見えた。
彼のあのひどい傷のせいだろうか? 傷があることを除けば、惚れ惚れするような紳士だったけれど……。
「えっ?」シャーロットがはっとして顔をあげ、サラを見た。
「大丈夫ですか、お嬢さま? どうかされましたか?」サラはくり返した。
「あ、いいえ、大丈夫よ。時間がかかったから少し疲れただけ。でも、がんばらないとね。あれだけの高価な衣装をいっぺんにあつらえるなんて、めったにない上客だわ」にっこり笑い、説明に使った紙を集めてそろえだした。
「おじやクリスのことを調べてもらうには、たくさんお金があったほうがいいもの」
そう言いながらも、シャーロットは自分が描いたデザインや説明の書きつけを見ながら、さっきの客のことに心がうつろっていった。
あの傷には驚いた。まだ癒えきっていないような、痛々しい深手の傷痕。
でも……彼女の心に強く残ったのは、あの傷痕よりも、彼の肉体そのものだった。
あの胸、あの腕、なんという美しい筋肉。無駄な肉などひとつもついていないように見えた。おなかも腰も硬く引き締まり、太ももの流れるような曲線はギリシア彫刻を思わせた。
節の目立つ大きな手は、指が長くて、手のひらも大きくて……これまで何人もの客の採寸をしてきたけれど、あんなに美しい肉体を持った人はいなかった。
巻き尺を当てる手が震えそうだった。彼の腰に腕をまわしたときには、筋肉の硬さと熱さが伝わってきて、自分の体温が跳ね上がったような気がした。呼吸や鼓動が速くなったことを知られるのではないかと思うと、緊張して……。
いやだ、どうしてこんなにひとつひとつ鮮明に思い出してしまうの?
いままでこんなことは一度もなかったのに。
ブランフォード侯爵には恐怖心というより、落ち着かなくなるなにかがあった。彼が立ち上がったときは存在感に圧倒されて、思わず後ずさってしまった。でも、こわかったわけじゃない。それなのに、いつものように冷静に作業を進めることができず、やたらどきどきして、それを一生懸命に隠しながら作業を進めた。
だから彼が帰ったあと、どっと疲れが出てしまったのだろう。
明日から毎日のように顔を合わせなければならないのに、こんなことで大丈夫なのかしら……。
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