04.侯爵と乙女は二度、出会う

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男装の麗人テーラーの店までやってきたジョイス。

紳士たちのうわさの的になっていた美しさに目を奪われるが、意外にも、彼女は男に媚びることのないプロフェッショナルで――。


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 思っていた以上に小さな店だった。

 ロンドンの繁華街コヴェント・ガーデンにあるものの、大通りではなく脇道に入った横丁にあり、大きな馬車を乗りつけることもできない。

 ジョイスはマダム・ノワールの店に予約を入れ、小型の馬車でやってきた。馬車は少し離れた大通りで待たせておく。

 大きな看板が出ているわけでもなく、テラスハウスの一軒にすぎないレンガ造りの家の扉には、細い鉄製のノッカーがついていた。ジョイスがノッカーを打ち鳴らすと、少しして扉が開いた。

 出てきたのは少し年かさの女性だった。小柄でふくよかで、質素な茶色のドレスを着ている。こげ茶色の髪は頭のてっぺんでまとめ、召使いがよくやるように白いカバーでくるんでいた。

「ブランフォードだ」ジョイスが名乗ると、女性はうなずいた。

「お待ちしておりました。どうぞお入りください」一歩さがってジョイスをなかへ招き入れる。

 廊下を進んで通された奥の部屋も、こぢんまりとしていた。昼間だがレースのカーテンが引かれ、奥の壁際に置かれた大きめのテーブルにランプが灯されているだけ。

 部屋のなかほどに小さな丸テーブルと椅子が二脚、向かい合うように置かれていた。案内の女性がジョイスの外套とステッキをスタンドにかけ、奥の椅子をすすめた。

「こちらに座ってお待ちください。マダムはすぐにまいります」彼女は一礼して部屋を出ていった。

 ジョイスは帽子と手袋を取ってテーブルに置くと、腰をおろして部屋を見まわした。

 奥のテーブルとこの丸テーブル、そして窓とは反対側の壁際に戸棚がひとつあるだけだ。明かりはカーテン越しに入る淡い太陽光とランプのやわらかな光のみ。

 お世辞にも高級な店とは言えないだろう。

 コツコツと軽い足音が聞こえ、ジョイスはドアのほうに目をやった。

 静かにドアが開き、黒髪の小柄な紳士が入ってきた。まるでスローモーションがかかったかのように、その姿がゆっくりと視界に飛び込んでくる感覚に襲われる。

 の後ろから女性がひとり入ってきたが、さきほど応対してくれた年かさの婦人だった。

 若い紳士だと思った人物こそ、男装のマダム・ノワールその人だった。話に聞いていたとおり、そしてその名のとおり、黒ずくめの男装。格好だけ見れば、小柄な紳士だ。

 黒いひざ丈のブリーチズ、黒のフロックコート、その下に覗いているシャツも首に巻いたクラヴァットも黒。長い黒髪は後ろでゆるく結わえて垂らしているが、結わえたリボンも黒だ。

 まるで喪服をまとっているようだ。

 しかし肌は抜けるように白く、唇はバラ色、そして瞳は……薄暗くてよくわからない。

 彼女がわずかに伏せていた目を上げ、まっすぐにジョイスを見た。

 紫だ。青みがかった紫の瞳。

 ジョイスは思わず席を立った。

「ブランフォードだ」握手の手を差し出す。

 マダム・ノワールは静かに頭をさげ、また座るように手でうながした。ジョイスの手は力なくさがった。

「テーラーのイレーヌ・モローです。本日はご足労いただきましてありがとうございます」彼女が向かい合って座り、テーブルの上で手を重ねた。その左手の薬指に細い銀色の指輪が光っているのを、ジョイスは見逃さなかった。

「仕立てのご用命ということでよろしいでしょうか?」マダム・ノワールは単刀直入に話しはじめた。

「ああ。これからの社交シーズンに向けて、公の場に出席することが増えるので、衣装を何着かそろえたい」

 マダム・ノワールがわずかに目を見張った。「ロンドンには老舗の有名な仕立て屋が軒を連ねています。わたしのような新参者に、いきなりそんな大きな注文をなさってよろしいのですか?」

 今度はジョイスがわずかに目を見開いた。「これは商売っ気のないことを言うものだ。もちろん、依頼するかどうかはこれからの話し合い次第だ。きみは確かに新参者だが、フランス仕込みの腕前は相当なものだと友人から聞いている。それとも、実際にはそれほどの腕も自信もないということか?」

 マダム・ノワールの紫色の瞳がさっと深みを増し、唇に力が入った。「いいえ。ここは、わたしとこのサラのふたりしかいない小さな店ですが、仕立てには自負と自信を持ってあたっています」きっぱりと言って、ジョイスと正面から目を合わせた。

 なんという目だ。意志と気持ちの強さがあらわれている。気高ささえ感じると言ってもいい。

 さすが女だてらにテーラーなどやっているだけのことはある。芯は強そうだ。

「よろしい。では話し合いに移ろう。ぼくは長らく軍にいたもので、流行やデザインといったことにうとくてね。きみのセンスと知恵を拝借できるとありがたいな」唇の端を片方くいっと上げて、なかば挑発的に微笑んだ。

 なぜか、ジョイスは物静かな彼女からできるだけ反応を引き出したくなっていた。

 マダム・ノワールは少し驚いたような顔をしたが、くすりと笑ってうなずいた。「精いっぱい務めさせていただきます」

 そのやわらかな笑みに、ジョイスはまたもや目を奪われた。彼女が訳ありなのは間違いないだろうが、日陰の身のような暗さは感じられない。

 なにより、男装していてもこの美しさはどうだ。さっきから目を離すことができない。ともすれば見つめてしまいそうで、意識して目をそらしながら会話をしなければならなかった。

 ジョイスは散漫になりかける意識をかき集め、マダム・ノワールと衣装について話し合った。年かさのサラという女性は助手として、奥のテーブル前のスツールに腰かけ、話し合いの内容を書きとめている。

 少なくとも正装を三着、外出用の揃いを二着、外套を一着、肌着や下穿きもそれぞれに合わせて新調する。まずは正装用の一着について。全体のシルエットはもちろんのこと、丈やウエストの位置、絞り具合、ポケットの形や配置、レースや刺繍の飾りなど、ちょっとしたところで洒落ているか野暮ったいかが決まってくるのだという。デザインと生地の相性も大切だ。

 マダム・ノワールは図を描きながら納得がいくまで説明してくれた。それがまた非常にわかりやすく、話が一段落するころには、もはやジョイスはほかのテーラーを試そうなどという気は失せていた。

「ぜひきみに仕立てを頼みたい。仕上がりはできるだけ早く」

「ありがとうございます。幸い、すぐに取りかかれますので、一着が仕上がるまでひと月ほどあれば……。できれば本日、採寸までさせていただけると、少しでも早くなるかと思いますが?」

「けっこう。ではそうしよう。このまま、ここで?」ジョイスは部屋に視線をめぐらせた。

「はい。お手数ですが、お召し物を脱いでいただきます」そう言って立ち上がったマダム・ノワールは、窓まで行ってレースのカーテンの上から厚手のカーテンを合わせて引いた。部屋が一段と暗くなる。

「それから、これもしていただきます」フロックコートのポケットから彼女が取り出したのは、黒くて細長い布きれだった。

「それは?」けげんそうにジョイスが訊く。

「目隠しです」無表情のまま彼女は言った。

「目隠し?」ジョイスは驚きを隠せなかった。テーラーに来て目隠しをするなど、いったいだれが想像するだろう?

「なぜそんなものを?」

「当店での作業を円滑に進めさせていただくためです。ご納得いただけない場合は、残念ながら、お断りさせていただくことになります」マダム・ノワールはいくぶん硬い表情で言った。

 ジョイスはしばらく逡巡したが、こう答えた。「いいだろう。テーラーにはそれぞれのやり方があるんだろうから、おとなしく従うことにするよ」そう言えば、彼女の仕立て方法は特別だとかなんとか、クラブで聞いたような気がする。これがそれだろうか?

 ジョイスはがたりと音をたてて椅子から立ち上がった。

 マダム・ノワールがびくりとして一歩さがる。一八七センチのジョイスが立つと存在感がある。一六十センチ足らずの彼女では見上げるような大きさだ。彼はやや細身だが肩幅は広く、鍛えているだけあってたくましい。

「す、座っていていただかないと、目隠しができません」マダム・ノワールが言うと、ジョイスはまた腰かけた。

 彼女は彼の後ろにまわって黒い布を二重に巻き、頭の後ろで結んだ。

「できました、立ってお召し物を脱いでください。下穿きはそのままでかまいません」彼女が少しさがる。

 視界を奪われたジョイスはゆっくりと立ち上がり、上衣を脱いだ。どうもぎこちなくておかしな気分だ。

 すかさず横からマダム・ノワールの腕が伸びて、上衣を引き取った。少し離れたところで衣擦れの音がして、上衣をスタンドに掛けたのだろうとわかる。

 ここで、いったん彼の手は止まった。上衣を脱ぐくらいはなんでもないが、ここから先は、ふだん従者の前でしかやらないことだ。紳士たるもの、安易に人前で肌を見せたりはしない。

 それに――自分の傷だらけの体を見たら、彼女はなんと思うだろう? 男でも目を背けたくなるようなひどい傷だ。本来なら、女性の目に入れるようなものではない。

 が、相手はテーラーだ。いくら若くて魅力的な女性であろうと。

 これは純然たる商取引だ。

 ジョイスは意を決したように、クラヴァットをほどいた。シャツの襟元が大きく開く。

 さらにボタンをはずし、肩からばさりとシャツを落とした。

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