03.侯爵家も結婚もくそくらえ!
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ジョイスはケント州からロンドンのタウンハウスに移り、久しぶりに紳士のクラブに顔を出す。
そこで顔なじみの友人に会い、ロンドンで評判になっている男装の美人テーラーのうわさを耳にして――。
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3カ月後
1815年 11月 ロンドン
薄暗い室内にたばこの煙と酒のにおいが充満している。
ここに来るのは、いつぶりだろう。
ジョイスはクラブの入り口で支配人に外套と帽子と手袋とステッキを預け、大部屋に入っていった。
「ジョイス! ジョイスじゃないか! 久しぶりだな」友人のレイ・シャーウッドがすぐに気がついて席を立った。ジョイスより年下だが、すでに若き伯爵となっているレイは、大またで友に近づいた。「ケント州で療養中だと聞いていたが、もう体のほうはいいのか?」
「ああ。ずいぶんよくなった。ゆっくり養生できたよ。ずっと引っ込んでいてもよかったんだが、もうすぐ社交シーズンが始まるから戻ってこざるを得なくてね。取り急ぎ、ここにも顔を出しておこうと思って」
紳士のクラブの見慣れた光景を、ジョイスはなつかしそうに見まわした。
「ここは変わらないな。みんなでバカ話をして、飲んで、笑って……」
「おいおい、昔をなつかしむ年寄りみたいなことを言ってどうした? これからはおまえももっとここに来られるようになるんだろう、新たなブランフォード侯爵殿?」レイは明るく言った。
一瞬の間があって、ジョイスは小さく息をついた。「少々、荷が重いがな。本音を言えば、社交シーズンも遠慮したいくらいだ」
先に侯爵家を継いだ兄エドワードは、まさしく貴族の鑑と呼ばれる男だった。幼いころから頭脳明晰、金髪碧眼で気品にあふれ、人当たりもよく、両親の自慢の跡取りだった。とくに母親の愛情を一身に受けていた。2年前に父親が倒れて亡くなったときも、兄は期待どおり、立派に家督を継いで、モールバラ家を繁栄させるかに見えた。
しかし、その兄が流行り病で急死した。母親のショックは想像に難くなく、ランカシャー州の田舎にひきこもったまま悲嘆に暮れている。
“エドワード亡きいま、おまえが侯爵家を存続させていくしかありません”――いかにも事務的で、投げやりで、あきらめの感じられる手紙が戦地に届いた。
あのときを思い出し、思わずジョイスは顔をしかめた。ランカシャーには戻りたくない。つねに兄と比較され、エドワードさえいればいいと言わんばかりに冷遇されたあの屋敷には。
あの家族のなかで、自分だけが黒髪だったこともいけなかったのだろうか。
そんなジョイスに家督を守りたいという気持ちなどないに等しく、母親の手紙にも返事を出せずにいた。考えることを頭が拒否していた。
しかしそのとき運命の歯車は回転し、ジョイスは大けがを負った。
もはや国に帰って侯爵家を継ぐしかなくなった。
いまでは領民と母親の生活を守ること、なによりブランフォードとモールバラの名を守っていくことが、彼の役目だ。とにかく自分にそう言い聞かせ、思い込ませようとしている。
「王子の命を救った英雄がなにを言ってるんだ。みんな、おまえに会えるのを楽しみにしているぞ。とくにご婦人がたは、手ぐすねひいて待ってるな」レイはにやりと笑った。「昔からおまえは社交界に顔を出さなくてご婦人がたが嘆いていたんだ。いまや、おまえはロンドン社交界でも一、二を争う最高の結婚相手候補だぞ?」
そう、つまりは、早く花嫁を選ばなければならない。
これまで軍にいたジョイスは華やかな場にあまり出なかったが、今年はそうはいかない。爵位を継いだ以上、家の存続を図るべく、一刻も早く結婚しなければならないのだ。
田舎の母親からは、すでに候補者を推薦する手紙が届いていた。
できるだけ早くモントン伯爵令嬢に会い、求愛するように、と。
まったく、余計なお世話だ。
「その言葉、そっくりそのまま返してやる、サマセット伯爵殿。おまえこそ、どこの令嬢だろうとよりどりみどりだろうが。ご婦人の扱いにかけては右に出る者のいないおまえがまだ身を固めていないとは、それこそ驚きだ」ジョイスはじろりと友を見やった。
「おれはもうしばらく気楽な自由の身でいたいのさ」レイは両手をひょいと上げて肩をすくめた。
「おまえらしいな。だが、その気持ちはよくわかる」ジョイスは友の肩を軽くたたいた。
爵位を得たとたん、結婚、結婚と急に周囲がうるさくなった。自分という人間の中身はなにも変わらないのに、なにか枠にはめられているかのようで息が詰まりそうだ。不本意な退役を強いられたことも、いまだにジョイスのなかでは不満がくすぶっていた。
ともかく座れ、とレイにテーブルへと案内され、ジョイスは腰をおろした。同じ年ごろの紳士が五人ほど、丸テーブルで酒のグラスを傾けていた。
「そうさ、結婚なんかつまらない」レイが話を再開した。「結婚が絡むと、女とのつきあいは急に退屈になる。やはり血が騒ぐのは、秘密のにおいのする女だな」
「さっき言ってた、マダム・ノワールか?」べつの紳士が合いの手を入れた。
「マダム・ノワール?」ジョイスがけげんそうに尋ねる。
「いま評判の、男装の麗人テーラーさ」レイが意気込んで口を開いた。「名前が聞かれるようになったのはつい最近なんだが、仕立ての腕が抜群らしい。パリ仕込みのセンスと技術が相まって、すばらしい着心地だそうだ。なにやら“特別な仕立て方法”があるとかないとか……それよりなにより、テーラー本人が黒ずくめの男装をした黒髪の美女で、若い未亡人とくれば、興味を持つなというほうが無理だろう?」
「フランス人なのか?」ジョイスが訊く。
「ああ、そうだ。マダム・ノワールというのはもちろん通り名で、本名はイレーヌ・モローというらしい。ま、どこのだれかなんて、本当のところはわからないがな」
“どこのだれかわからない”という言葉に、ジョイスの脳裏にある女性が浮かんだ。
3カ月前、ケント州の領地でひと目見ただけの、あの美しい女性。
彼女はいったい、どこのだれだったんだろう。
あれから、ふとしたときに彼女のことを思い出してしまう。考えてもしかたのない相手なのに。
レイが話を続ける。「ロンドンでテーラーと言えば、むさくるしいおやじがふんぞり返って古めかしい服を仕立てているっていうのが相場じゃないか。お針子はべつとして、テーラーは男の仕事だからな。しかし美人に仕立ててもらえるのなら、そりゃあそっちのほうがいいに決まってる。フランスと戦ってきたおまえには、気分のいい話じゃないかもしれないが」
「いや、フランス人だからと言ってむやみに敵視するつもりはない。ましてや女性を相手に」ジョイスは静かに言った。
「とにかく、謎の美人テーラーだ。素性は知れないが、訳ありなのは間違いない」レイは話をまとめた。
べつの紳士が身を乗り出した。「じつは彼女、さっそくブックメーカーで賭けの対象になっているんだ。彼女を落とせば小遣い稼ぎになるのはもちろん、男の株があがるぞ。うわさでは、相当手強いらしいが……。おれたちもまずはシャツでも仕立てに行って、お近づきになるかって話してたところだ」
そんな話を聞いているうち、ジョイスは結婚について深刻に考えている自分がばからしくなってきた。母親に結婚相手を押しつけられそうになってむしゃくしゃしていたが、そんなことで悩んでいるのは時間の無駄じゃないだろうか。結婚なんて、なるようにしかならない。実際に社交シーズンが始まるまで、少し時間もある。
「おもしろそうだな。おれもひと口乗ろう。ちょうど社交シーズン用に衣装をあつらえる必要があって、テーラーを探していたんだ」気づくとジョイスはそう言っていた。
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