02.わたしはもう令嬢じゃない
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旧シュルーズベリ伯爵家の領地にあらわれたのは、23歳になったシャーロットだった。
彼女は生きていた。パリへ逃れたあと、紳士服のテーラーとなって帰ってきたのだ。
おじと弟の行方を探すために――。
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「早く出して、早く!」シャーロットは息を切らせて馬車に乗り込み、御者に叫んだ。
「どうなさいました、お嬢さま?」年かさの女性が少し腰を浮かせて尋ねた。くすんだ茶色の質素なドレスをまとった、小柄でふっくらとした女性だ。
「人に見られてしまったわ。すぐに逃げてきたから大丈夫だと思うけど」シャーロットはいったん腰を浮かせてスカートを直した。
「まさか、グイドに?」サラがおののいた顔で心配そうに訊く。
「いいえ。おじさまはあそこにはいないはずよ。そのことはあなたが調べてきてくれたじゃないの」シャーロットはサラの目を見て、安心させるようにうなずいた。「あそこはもうシュルーズベリの土地ではないわ。王室預かりになっているなんて、どういうことかわからないけど……さっき見かけたのは、黒髪の背の高い男性だったわ。まだ若くて……」
ほんの一瞬のことだった。
それでも背が高くて体格がよく、すらりと均整の取れた人ということはわかった。
かつてダンカンに襲われたトラウマで、シャーロットは男性に恐怖心を持っている。もちろん悪い人ばかりでないことはわかっているし、サラの家族があたたかく接してくれたおかげで、問題なく男性と接することもできるようになった。ただパリでは、彼女が男性とふたりきりにならないよう、周囲が気を配ってくれていた。
「そうですか。でも使用人も入れ替わってしまったみたいですし、これではクリストファーさまの行方も……」サラは声を詰まらせた。
ガラガラと車輪のまわる音を聞きながら、シャーロットは下唇を噛んだ。
クリストファー。
かわいい弟がどうなったのか、見当もつかない。おじの行方さえわからないのだ。弟の手がかりはまったくなかった。おじが伯爵家の財産を狙っていたことを考えると、正当な跡取りであるクリスの存在はじゃまなだけ。つまり、クリスはもう……。
シャーロットはきつく目をつぶってかぶりを振った。
「でも、城をもう一度この目で見ることはできたわ。ありがとう、サラ、あなたのおかげよ。あなたがいなければ、わたしはどうなっていたか」シャーロットはつとめて明るい表情をつくった。
そう、8年前のあの夜。
死を覚悟して海に身を投げたシャーロットは、左肩を岩に強打して気を失った。そしてそのまま海に流された。当時シャーロットの侍女だったサラがいち早く異変に気づいて探しまわっていたところ、近くの浜に流れ着いたシャーロットを、運良く夜が明ける前に発見したのだ。
その後のサラの行動は早かった。肩の傷を応急手当てし、衣服を調達し、数日のうちにはドーバーを渡っていた。ぐずぐずしているひまはなかった。とにかくケント州から離れるのが先決だった。
サラの実家はパリで仕立て屋を営んでおり、一家はシャーロットが敵国の人間であるにもかかわらず、迎え入れてくれた。もはやシャーロットに帰る家はない。貴族の娘として生きることはできないのだ。
まずは肩のけがを治すことに専念した。左肩に近い二の腕の肉がえぐれ、星の形を思わせる引き攣れた傷痕ができてしまった。けれど命があっただけでも奇跡だと思わなければならない。
体が回復したあとは、仕立て屋の一員として、少しでも技術を身に着けて働くしかなかった。
ところが、シャーロットのなかには思わぬ才能が眠っていたらしい。
デザインや仕立てに関するセンスがあり、手先も器用で、数年のうちには親方も舌を巻くほどの紳士服が仕立てられるようになった。
シャーロットはそのまま、パリでも立派に生きていけるはずだった。
しかし、彼女の心から故郷が消えることはなかった。
喪に服することもできずに別れた両親。どこでどうしているのかわからない弟。放り出したままの領地。
あの後、おじとダンカンがなにをどうしたのか――どうしても気になった。
自分の生活が安定すればするほど、故郷のことを思い出した。
だからシャーロットは決心した。イングランドに戻り、領地と弟のことを確かめようと。
思いきってサラの家族に胸の内を明かすと、彼らは心配しながらも理解してくれた。
「本当に、命があってようございました。海に落ちたとき、気を失われたから水を飲まずにすんだんでしょうね」サラは当時を振り返り、これまで何度もくり返してきたことを口にした。「あれから本当にお嬢さまは苦労されて……それでもこんなに立派に成長されて……。だからこそ心配なんです。ここへ戻ってくるのは反対でした。クリストファーさまはおかわいそうですが、なにもわざわざ危険なところに戻ってこなくても……」サラは手にしたハンカチをきつく握り締めている。
「大丈夫よ、おじには見つからないようにするし、わたしももう子どもじゃないもの。みんなに鍛えてもらったおかげで、男性とも問題なく接することができるようになったわ。わたしはどうしても、クリスがどうなったのか知らずにはいられないの」
シャーロットはサラの目を見つめたが、ふっと申し訳なさそうな顔に変わった。「ごめんなさいね、サラ、あなたには苦労ばかりかけて」
サラはイングランドに戻ることに反対しながらも、ついてきてくれた。彼女がいなければ、本当にシャーロットは生きてこられなかっただろう。
「いいえ、お嬢さま。わたしはだんなさまや奥さまに本当によくしていただきました。わたしにできることなら、なんだって」サラはハンカチで目頭を押さえた。
「ありがとう、サラ。ひとまずロンドンに出て落ち着きましょう。おじは賭け事や娯楽が好きで、昔からにぎやかなロンドンに住んでいたわ。ロンドンなら仕立ての仕事もあるでしょうし、お仕事をしながらおじやクリスのことを調べられると思うの」
「でも、お嬢さま、大きな街にはいろいろと危険も……」パリを知っているだけに、サラはやはり心配そうだ。
もちろんシャーロットにも不安はあった。紳士服の仕立てをするためには、男性とじかに向き合わなければならない。パリではサラの家族が守ってくれたが、ここでは自分とサラのふたりきり。でも、男性がこわいなんて言っていられない。
「大丈夫よ、サラ。わたしに少し考えがあるの」シャーロットは自分に言い聞かせるように言った。「それから、もう“お嬢さま”はやめてちょうだいね」
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