010 お風呂場は花園

「……失礼しま~す」


 風呂場への戸を開けて、恐る恐る、先客が居ないかを確認する。

 右、よし。

 左、よし。

 正面――人影が一人。なにやらコソコソと隠れて居るもんだから、発見するのが一瞬遅れてしまった。


「うわぁ――ごめんなさい! 見てすみません……!」


 咄嗟に謝罪を口にしながら手で目を覆う――いいや、覆いきれない。この小さな少女の手では顔を完全に覆い隠すなんて難しかった。指の隙間から相手の姿が見えてしまう。

 華奢で細い体。肉付きは程々。身長は小さくて、薄い金色のロングヘアー。胸はまだまだ発育途中と感じさせて、瞳はまるで宝石細工――と、そこまで見てようやく悟った。


「……な、なんだ。鏡か……ただの、鏡」


 鏡。ただの鏡。

 知らない誰かの裸じゃなくてホッとするような、勘違いして自分の体をマジマジと見た事による恥で顔が赤くなるような、そんなぐちゃぐちゃな感情が頭を支配する。


「なにやってるんだ、俺は……」


 この体になってから同じ台詞を何度も吐いている気がする。恥を紛らわすように頭をガシガシと掻きながら、風呂場にようやく一歩踏み込む。


「んっ……」


 冷たい地面に思わず声が漏れる……が、その声に少々色気を感じてしまった。だけど今度こそ邪心には屈しない。歯を噛み締めて山場を乗り越える。


「かけ湯は……無いのか? 石けんとかも無さそうだな……」


 風呂は最初に体を洗ってから入る派だが、鏡と浴槽以外の設備はなにも無い。シャワーが無いだなんてなんと不便なことか。

 仕方ないので俺は手でお湯を汲んで体に浴びせる。小さな手なので全身を洗い流すのに思ったよりも時間がかかってしまう。


「っ、と。髪を入れないようにして……これで良いかな」


 頭に濡れた髪の毛を巻き付けて準備を整える。髪の毛が長いからまるで竜巻が頭に乗っかっているみたいな図だが、これが風呂のマナーを守る最善の筈だ。こんな長い髪に今までなったことないから初めてやるけど。

 準備を終えた俺はゆっくりと石造りの浴槽に足を入れる。ちゃぷん、と足の切っ先が水面に触れると温かさが伝わってきた。適温だ。


「…………ふぅ~」


 そのまま足、もう片足、それから肩まで一気に浸かった。

 浴槽は広く、俺を含めてあと三人ぐらいは大人が入れそうな大きさだ。お湯こそ温泉ではなく水を湧かしたものっぽいが、疲れを水に流すのには十分だ。


(……どうして、こんなことになったんだろう)


 ぶくぶくと水面下に沈めた口から泡を吹く。

 今日の出来事をフラッシュバックのように頭によぎらせて、感傷に浸る。

 死のうと思ったら雑に助けられた。奇妙な姿の少女が現れた。見知らぬ世界に飛ばされた。俺の体が少女のものになっていた。不気味な怪物に襲われて、またまた不思議な女性に助けられて――


「……ぶくくくくく」


 遂に鼻まで湯に沈んだ。考えれば考えるほど訳が分からなくなって湯に沈んでしまう。ああ、もしも神様が居るのなら、どうして俺はこんな奇妙な出来事に巻き込まれたのだろうか……


「……お待たせ~! カタルちゃん、居る?」

「! は、ふぁい!?」


 ザバッ、と立ち上がりIの字の如く起立の姿勢を取る。

 今の声はリヴィアさんだ。背中越しに聞こえたが間違いない。間違いないから振り返らない。振り返ったら“凄いもの”が見えてしまうそうだから。


「…………」

「……あら? ぷ、ふふっ……カタルちゃん、凄い髪してるわよ……ふふふ」

「こ、これは湯船に髪を入れないために……」

「ふふふ……あら、そんなこと気にしなくて良いのよ? それよりもそんなグルグル巻きにしちゃったら、折角綺麗な髪の毛が痛んじゃうわ」


 ……そういうもの、なのだろうか?

 いや、そういえば此処は異世界なのだったか。にわかには信じられないが、もしそうなら日本の風呂のマナーとかそういうのは無くても別に不思議ではない……かもしれない。


「さて、と……あら、カタルちゃんって石けんとかシャンプーは持って……ないわよね。お姉さん忘れてた……」


 ああ、なんだ。あるんだ石けんとシャンプー。

 風呂に入る前は体や髪をピカピカに洗いたい派故に、湯汲みだけで浴槽に浸かることへ違和感を感じていたのでその存在はありがたい。無かったらこのお湯がばっちいし。

 なんだ、異世界と聞いていたけど現代日本とあるものはそう変わらないじゃないか。残念ながらシャワーが無いけど、この程度ならまあ目を瞑れる。


「ご、ごめんなさい……リヴィアさん、もしよかったらシャンプーと石けん借りても良いですか? ああいや、借りると言うよりは返せないので正確には頂くことになるんですけど――」

「ん? ええ、良いわよ。ちょうど新しい石けんを用意できたから是非とも使って使って」


 ああ、リヴィアさんは本当に良い人だ。この世界に足を踏み入れて助けに来てくれた人がこの人で本当に良かった。

 俺はリヴィアさんの姿を見ないように――できる限り――勤めながら、体を洗うために鏡の元へ行こうとして――


「……あ、そうだ! 折角だからお姉さんが背中を洗ってあげる!」

「――ぶふぅー!? ぶくぶくぶくぶく!?」


 ……思わず、一気に浴槽へ沈んだ。

 リヴィアさん、本当に良い人過ぎないか……!?

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