ずる、ずる、ずる———


 何かを引きずるような音が聞こえている。辺りは暗く、街灯のない道は数メートル先も見えないほど真っ暗である。それでも辛うじて見えているのは、空に浮かぶ月の明かりがあるからだろう。

 つまり、今は夜なのだ。

 僕の視界は、僕の意思とは無関係にゆっくりと進んでいく。周りの景色を見ると、さっきまで僕が居た山から村へ向かう道のような気がする。足取りは重いが、僕は確実に村のほうへ向かっているのだ。


ずる、ずる、ずる——


 やがて、村の入り口に着いた。村の入り口には、いくつかの石が道の端っこに並べられている。これは、村に悪いものが入らないようにする守り神なんだと、昔ばあちゃんが教えてくれた。僕の躰がゆっくりと村へ入っていくと、その石がかたかたと音を立てて震えた。


 ずる、ずる、ずる——


 しばらく歩いていくと、一軒の家が見えてきた。村の入り口から一番近い場所に立っている家で、おじいさんが一人で暮らしている。その家の戸口に、野菜や手作りのお菓子が籠一杯に入れて置いてある。

 僕の躰はその籠を拾い上げ、懐にそっとしまい込んだ。不思議な事に、あれだけたくさんの物を懐に入れたにも関わらず、躰にその重みを感じる事はなかった。まるで、懐から跡形もなく消えてなくなってしまったみたいに。

 そして、僕の手はゆっくりと家の戸口へと伸びていった。


 とん、とん、とん、とん——


 僕の手は、戸口を4回ノックした。返事はない。まるで中には誰もいないみたいに、しんと静まり返っている。

 やがて僕の躰はまたゆっくりと歩き始めた。そして、家に着くたびに戸口に置かれた品物を懐に入れ、戸口を4回ノックして廻るのである。ずる、ずる、ずる——歩くたびに、何かを引きずるような音が一緒に着いてきた。

 夜の村では、誰にも会う事はなかった。普段なら夜でも歩いていれば、何人かの人とすれ違い、挨拶を交わしたりするのだが。今夜は誰とも出会う気配がない。それどころか、人の気配すら感じない。まるで、打ち捨てられた無人の村を歩き回っているみたいだ。

 やがて、僕は一軒の家にたどり着いた。その家の外観を僕は良く知っていた。少し奥まった場所に建っている一軒家、庭には大きな柿の木があり、秋にはたくさん柿が生るんだと、古賀健司が大声で自慢していた。

 その家の戸口に、一つの人影が見えた。大きくて少しずんぐりとしたその人影は、ゆらゆらと揺れながら、虚空の在らぬ方向をぼんやりと見つめていた。その目には生気がなく、まるで死人のようにどんよりと濁っているように見える。

 僕の躰はその人影の前で止まって、そいつをじっと見つめていた。すると、そいつの視線がゆっくりと僕を見返した。次第に焦点が合い、意識が覚醒していく様が目に見えて分かった。そして、そいつが僕を認識したその瞬間、そいつの顔が恐怖に歪んだのを感じた。何か叫んでいるようだったけど、不思議とその言葉の意味を理解する事はできなかった。まるで、外国の言葉を聞いているみたいだ。

僕の躰はゆっくりとそいつに手を伸ばす。そいつは必死に逃げようと身体を動かしているみたいだったけど、何故かその場から動こうとはしない。僕の手はまるでスロー映像のようにそいつの肩に手を置き、絶対的な力で自分の懐へと押し込んでいった。

そいつは相変わらず何かを叫びながら必死に抵抗していたが、やがて僕の懐に完全に押し込められ、それっきり動かなくなった。やはり、そいつの重みを感じる事もない。僕の手はゆっくりと戸口へ伸びていく。そして——


とん、とん、とん、とん——


 家の中から答える声はない。もしかしたら、最初から無人の家だったのかもしれない。やがて僕の躰はぐるりと方向転換して、緩慢な動きで元来た道を戻っていった。村の中を通り、村の入り口を抜けて、山に入り、まっくらな獣道を登っていった。


 ずる、ずる、ずる——


 不意に視界が開けた。教室ほどの広さがある空間には、月明りが差し込んでいる。僕の視線の先にぽっかりと空いた穴が見えた。


ずる、ずる、ずる——


僕の躰はその穴に向かっていった。歩みを進めるたび、周りの木々がざわざわと騒ぎ出す。やがて、僕はぽっかりと空いた闇の中に降りていった。光はない、完全な闇である。その闇に溶けていくように、僕の意識も次第に遠のいていった。



 目覚めると、僕はばあちゃんの家の布団の上にいた。窓から差す明かりが、今が朝であることを教えてくれる。どうやら僕は、おかしな夢を見ていたみたいだ。

 布団から抜け出し、土間のほうへ行くと、ばあちゃんが朝ごはんの準備をしていた。

「おや、ずいぶんと早起きだね。昨日早く寝たからかね」ばあちゃんは目を丸くしながらそう言った。

 ばあちゃんが言うには、どうやら僕は昨日夕方ごろに帰ってきて「つかれた」と言ったあと、そのまま寝てしまったのだそうだ。晩御飯の時にも声をかけたが目覚める気配はなく、よほど疲れたのだろうと、そのまま寝かせてくれたのだという。

 昨日のあれは夢だったのか? 古賀健司から逃げ、山に入り、変な場所にたどり着いて、そして——。


 「ぼく、ちょっと散歩してくる」


 ばあちゃんにそう言って、僕は家を出た。まだ日が登って間もないのだろう、山の朝特有の、わずかに湿気を含んだ空気が身体に心地良い。遠くでは鶏の鳴く声が聞こえてくる。

 僕はある家に向かった。村のちょっと奥まったところにあるその家の庭には、早朝にも関わらずすでに人影があった。中年の女性が庭の草むしりをしているようだ。大きな柿の木の下で、腰をかがめている。

「おや、おはようさん。こんな早起きしてえらいねぇ」女性は僕に気がつくと、笑顔で声をかけてくれた。

「おはようございます。あの、古賀……健司君は居ますか?」僕は何気なくそいつの名前を口にした。



「健司? 誰の事かしら?そんな名前の人、家には居ないわよ?」



 僕はその後、村の色んな人に古賀健司の事を聞いて回った。しかし誰一人、古賀健司の事を覚えている人はいなかった。

くちきき様の姿を見てしまうと、二度と人間の世界に戻ってこられない——ばあちゃんの言葉を思い出した。もしかしたら古賀健司は、もう戻って来られないようになったのかもしれない。僕のあの一言のせいで……。

 その数日後、迎えに来た両親と一緒に僕は村を後にした。僕は古賀健司の事も、あの不思議な場所の事も両親やばあちゃんに話すことはなかった。話したら、何か恐ろしい

事が起こるかもしれないと思ったからだ。

次の年から、僕は何かと理由をつけてあの村へ行かないようにした。友達と旅行に行ったり、塾の夏季合宿に参加したりして、なるべくあの村に関わらないようにした。

 数年後にばあちゃんが亡くなり、そのさらに数年後には近隣の村と合併したのをきっかけに大きな都市開発が進んで、あの山は閑静な住宅地へと姿を変えた。

 今はあの村も山も、地図から姿を消している。

 あの場所は一体なんだったのか? あれは夢ではなく現実だったのか?今はもうそれを確認する術はない。

 ただ、今でもたまにあの不気味な広場の夢を見る。あの暗闇と陽光のコントラスト、不自然に無音の世界、そのすべてがあの日とまったく同じなのだ。

その夢の中で、あの穴から声が聞こえてくるのだ。

助けて——という、古賀健司の声が。

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