弐
どれくらい走っただろう——。
気がつくと、背後から追ってくる気配を感じなくなっていた。足を止めて恐る恐る振り返ってみると、古賀健司の姿も声も、いつの間にか消えていた。もちろん他の子分達の気配もない。
なんとか逃げれたのか——安心して大きく息を吐いた途端、足に力が入らなくなり、僕は思わず膝頭に手をついてしまった。足ががくがくして、まるで自分の足じゃないみたいだ。
僕は上半身を支えたまま、頭だけを上げた。そして弾む息を整えながら辺りの様子を見渡してみた。
周囲は背の高いごつごつした木で囲まれている。神社で見るようなぐにゃぐにゃと曲がりながら伸びている木だ。木の陰で日光が遮られているのか、昼間のはずなのに夜みたいに真っ暗だった。今が昼だと分かるのは、この広場の上だけがぽっかりと吹き抜けていて、夏の強い日差しがギラギラと差し込んでいるからである。
広場は学校の教室くらいの広さがあり、足首くらいの高さの、背の低い草が一面に生えている。広場に降り注ぐ光はとても強くて、目の前が白く霞んでいるように見えてしまうくらいだ。だからだろうか?まるで夢の中で夢だと気づいた時のような、頭がふわふわしているような、そんな不思議な心持がした。
明暗のコントラスは白黒写真のように木陰の暗さを一層強めて、その闇の向こうから誰かが見ているような、そんな嫌な想像を掻き立てさせる。走って身体が火照っているはずなのに、なんだか背筋がぞくりとするのを感じた。
なんだろう、ここは——今まで何度もこの村には来たけれど、こんな場所は一回も来たことがない。僕が目を細めて眺めていると、僕はそれの存在に気がついた。
広場の真ん中に、ぽっかりと丸い穴が空いていたのだ。
まだ疲労感の残る足を引きずりながら近づいてみると、穴はマンホールくらいの大きさで、不自然に丸く地面を切り取っている。
その穴の四方にぼろぼろの木の棒が刺さっていて、神社で良く見る紙と縄で作った飾りが結ばれている。多分、その縄飾りで丁度穴を囲うように繋がっていたのだろう。それが今は千切れて、棒の途中で垂れ下がっている。
「まるで何か大きな力で引き千切られたみたいだ……」
思わず口にして、慌てて頭を振り、その想像を打ち消した。ここは山の中だ。きっと野生の動物もいるだろう。きっとそういうものが切れた縄を噛んでしまって、それでそう見えるだけだ。きっとそうだ。
そして、もう一度よく見てみると、引き千切られ、垂れ下がった縄飾りの一つに、小さなお札が一枚絡まっていた。
くちきき——泥と埃で汚れたお札には、かすれた墨文字でそう書いてあった。
くちきき、その言葉に僕は、以前ばあちゃんが教えてくれたこの辺りの言い伝えを思い出した。
この辺りの山には、昔から「くちきき様」という神様が住んでいる。くちきき様に不安や不満を言うと、たちどころにその悩みが解決してくれる。その代わり村人は年に一度、くちきき様が山から降りてくるお盆の季節に、神様にお礼をするのだという。今村で行われているお祭りが、まさにそれである。
お祭りはお盆の初日から村の神社で色々と執り行われ、最終日の夜に、各家の作物を家の戸口の前にお供え物として置いておく。
くちきき様はお盆の最後の日、一軒一軒家を廻り、お供え物を持っていき、その合図として、家の戸口を四回叩くのだという。
その時、絶対に返事をしたり、戸を開けて神様の姿を見てはいけない。もしそんな事をしたら、お供え物と一緒に連れて行かれ、二度と人間の世界には帰れない。だからその日はしっかり戸を閉めて、朝が来るまで家の中で神様が通り過ぎるのをじっと待つんだという。
そんなの子供を早く寝かせるための作り話だと思っていた僕は、ばあちちゃんのその話を話半分に聞いていた。
これが、そのくちきき様なんだろうか——?
僕は穴を覗いてみた。こんなに明るいのに穴の底はまったく見えなくて、地の底まで続いているようにさえ感じられる。
不安や不満か——迷信なんて信じてないし、まして神様なんているわけない。でも、何故かこの穴を見ていると、自分の中に、嫌な気持ちがどんどん湧き上がってくるような感じがした。それはぐらぐらと熱く湧き上がりながら、腹の底から外へ外へ出ていこうとしているみたいだ。
そして、押し上げられる気持ちと、秘密の場所を見つけたような高揚感と、何が起こるんだろう、という好奇心がぐちゃぐちゃになっていき、そして——
「古賀健司が居なくなれば良いのに……」
吐き出すようにつぶやいたその言葉は、響く事もなく、吸い込まれるように消えていった。僕は少しの間、黙って穴の中を覗いていた。辺りはしんと静まり返り、少し耳鳴りが聞こえる気がする。
——
————
————————やっぱり何にも起きない——
僕は大きくため息をついた。
「なにやってるんだろう、僕……」
考えてみれば、こんな穴に愚痴を言ったところで何が起こるわけもない。一瞬でも神様や言い伝えを信じた自分が馬鹿らしく感じられてしまった。こんなことをしても何も解決するわけないのだ。
足は疲労を感じるけど十分に動く。今は何時くらいがわからないけど、そろそろ帰らないとばあちゃんも心配するだろう。僕は元の道を探して辺りに視線を移した。
その時である。
今まで一切吹いてなかった風が、夏にしては妙な生温かさのある、まるで人の吐息にも似た風が、ふわりと僕の顔を撫でたのだ。そして言いようのない嫌な感じが、足元から頭のてっぺんへぞくぞくと駆け抜けていった。何か得体の知れないものが目を覚まし、今まさにこちらに向かってゆっくりと近づいてくる姿が突然頭をよぎった。
周囲の木々が風に呼応するように騒めき出す。獣の唸り声のような低い音を立てて、その木の間を風が通り過ぎていく。先ほどまであんなに静かだったのに、今はすべてがひっきりなしに音を立てている。
木も草も風も虫も、全てが一斉に騒ぎ出したのだ。
僕は後ずさりしながら、ぽっかりと空いた穴のほうへ視線を向けた。先ほどより遠くから見ているので、穴の底を見る事はできない。しかし、確かに感じるのだ。
その穴から、何かが上がってきているのを——。
僕は穴から無理やり視線を引きはがすと、回れ右をして走り出した。こっちが村に続いているかはわからない。でもとにかくこの場から逃げないといけない、そう感じた。
背後から、風の鳴く音が聞こえてくる。いや、あれはまるで大きく深呼吸をした時の音だ。穴の中にいる「なにか」が眠りから覚めて、久しぶりの外の空気をたっぷり吸いこんで、今まさに穴から這い出ようとしている。そんな怖ろしい想像が頭を駆け巡る。
振り返って確かめるか?
いや、絶対にダメだ。もし振り返ったらきっと後悔する。怖いのを必死で耐えながら、木の隙間へ一心不乱に駆けていく。
なんだか、木々の密度がさっきよりも増している気がする。まるで僕を通さないようにしているみたいだ。闇は一層深くなり、その奥から不気味な物音が聞こえてくる。一瞬のためらいの後、僕はその闇に駆け込んだ。この場所にとどまるよりずっと良い——。それくらい、今の広場は異常だった。
森の中は日の光が入らず、ちょっと先を見る事もできない。そのうえ木が密集していて、僕は何度もぶつかりながら走り続けた。足を止める選択肢はなかった。そんな事をしたら、きっと捕まってしまう。何に?わからない。自分でも馬鹿な妄想だと思う。でも確かにそう感じてしまう。そしてもし捕まったら、きっと二度と戻ってこられない。
背後から伝わる気配がそう告げていた。
しばらく走ったところで、僕は走りながら、やっと振り返った。すでにあの広場はかなり遠くなっており、かすかに明るく照らされているのが見えるのみである。先ほどまでの悍ましい気配は、今はもうほとんど感じない。
危なかった——僕はやっと安堵し、視線を前に向けた。その時である。突然視界が開けて、足元の感覚がなくなった。
視線を足もとに向けるのと同時に、支えを失くした体は重力に従って急な傾斜面を一気に転がり落ちていった。口や鼻に暴力的な土の感触を感じながら、ごろごろと斜面を転がっていく。視界は目まぐるしく変わり、痛みよりも衝撃が身体に突き刺さってくる。
助けて———そんな声が誰に届くわけでもなく、僕は山の斜面の下まで転がり落ち、
そこで意識を失くしてしまった。
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