7.空回りの空
飛行魔法の練習は、藤子が帰ってきた二日後に行われた。飛行魔法の練習は、大抵広い運動場でするのだが、私的な練習で学校のグラウンドを使うわけにもいかない。なので、練習場がある運動施設へと行くことになった。
その日、菫は早朝に目を覚ました。
いつになく早く起きたせいで、太陽はまだ東の空から顔を出したばかりで、菫の母もまだ眠っていた。菫は、支度を調えると、昨日作っていた弁当を鞄に入れ、箒用のケースと一緒に持って出た。
時間をかけて眠気を覚ましたおかげで、気分はすっきりとしていた。日が昇ると気温は一気に跳ね上がり、蝉が早くもけたたましい音を立ててあちこちで鳴き始めていた。
菫は歩いて、駅まで向かった。箒などを使った飛行魔法は、事故を防ぐために、専用の道路上でしか使ってはいけないことになっている。通りに車はほとんど通っていない。魔法が発見された辺りを境に、石油エネルギーは衰退を始め、自動車はほとんど生産されなくなった。
道行く車両は大半が馬車だ。馬車と言っても生きた馬は使われていない。馬を模した魔法生物が、車両を牽引している。魔法生物はもっとも科学に近い魔法で、ロボットやAIの技術を応用して作り出されている。人間が運転する車より、魔法の
ときおり通る馬車や、ランニング中の人を横目に、汗をハンカチで拭きながら歩くと、やがて駅が見えてくる。菫と藤子は駅で待ち合わせていた。待ち合わせの時間より十五分以上早く着いていたが、駅前広場にある噴水の前には、藤子の姿があった。
「五月雨先生。おはようございます」
「あ、藤子ちゃん。おはよう」
後ろから声をかけると、藤子は笑顔を浮かべて振り返った。その笑顔に、次に言おうとしていた「お待たせしました」という言葉が、喉の奥に詰まって出てこなくなる。菫が黙っていると、藤子は「じゃあ、行こうか」と言って、駅の方へ足を向けた。慌てて、菫はその後ろを歩いて行った。
電車に乗ると、二人は並んで席に座った。電車は空席が目立つ。通勤ルートから外れた方面の電車で、しかも夏休み中だからだろうか。時間帯にしてはまばらな人の入りだった。
それでも菫は、妙に周囲の目が気になった。
こぶし一つ分の隙間を空け、並んで座る自分と藤子は、世間からどう見られているだろう。親子と言うほど歳は離れていないし、姉妹というほど顔立ちも似ていない。だが、教師と生徒が、二人で電車に乗っていると、果たして見ただけで思われるだろうか。
(恋人と……思われたり、するのかな)
そう思われたいような気がする一方で、そう見られることが恐ろしくもあった。女同士の恋人に、世間の目は優しくない。差別的な扱いを受けることは無くなったが、どちらかが男であるべきだという、無言の圧力のようなものがある。
そんなものが恐いとは、菫は思わない。
ただ、そういう目で自分たちが見られた時、藤子がどう思うかが気がかりだった。恋愛、というより結婚での苦しみを味わった藤子には、世間からの不躾な視線を受けてほしくは無かったのだ。
「如月さん、そういえば飛行魔法は得意じゃないって言っていたけれど……」
「……あ、はい。そう……ですね」
周囲に気を配っていた菫は、ワンテンポ遅れて藤子の言葉に反応した。
「そんな感じはしなかったんだけれど……体育の成績も悪くなかったでしょう?」
「ええ。ただ、他の部分で成績は補っているだけで、飛行魔法はあまり。落ちないように神経を尖らせているせいで、少し飛んだだけでも、凄く疲れてしまって……」
決して、授業における評点が悪いというわけではない。飛行魔法についても、無難な評価は受けている。ただ、それは菫が努力に努力を重ねた結果だった。そして、その努力に対して、菫はさほど手応えを感じていなかった。他の勉強とは違い、どんなに頑張ってもコツが掴めないのだ。
「そうだったのね。でも……こんなこと、言われたくないかもしれないけれど。ちょっと意外だったな」
「飛行魔法が苦手なことが、ですか?」
「うん。如月さんって何でもできるって、勝手に思ってたみたい。でも、そんなこと無いんだなって……ちょっと意地悪だけど、私の方が上手にできることがあったんだなって思っちゃった」
菫は、それまで直視しないようにしていた藤子の顔を思わず見てしまった。藤子は苦笑のような、照れているような笑みを浮かべている。その横顔を見て、菫はふと、藤子の歳はいくつだったろうと唐突に思った。そして、藤子がまだ二十五歳であることを思い出した。
いま、藤子は二十五歳の人間として隣にいる。そんなことをいきなり菫は意識した。たったの八歳しか離れていない。教員という職業は、藤子を大人に見せていた。菫にとってはそうだった。ずっとずっと年上の、手が届かないような、近づいても軽くあしらわれるような存在に仕立て上げていた。
けれどいま、藤子は、とても近かった。菫は目眩を覚えて、そっと拳に力を込めた。心臓の音がうるさかった。電車の中が空いていて良かったと心の底から思う。もし席を詰めなければならないほど混んでいたら、誰かに――藤子に、自分の心臓の音を聞かれていたかもしれない。
まるで少女漫画のような考え。菫は一度も少女漫画を見たことがなかったが、そんなことを考えた。けれど、漫画のように、何もかもが上手く行くことは無いのだ。言い聞かせるように、菫はそんなことを思った。
運動施設に着くと、菫と藤子は、広々とした運動場へと出た。運動場の一角には、飛行魔法専用のスペースがある。監視員が何人か座る飛行スペースには、空中に網が張られており、オレンジ色のポールが等間隔で立っていた。ポールの上の方には黄色いテープが巻かれ、そのすぐ下に『飛行限界』と目立つように大きく書かれている。その目印以上の高度で飛ぶと、監視員に止められるのだ。
幾度か、菫はこの運動場に来たことがあった。苦手だった飛行魔法の練習のために来たのだが、当然ながら飛行限界を超えるなどということは、意識してもできなかった。むしろ、転落防止用ネットの上すれすれを飛ぶことしかできなかった。あれから比べれば、多少は上達しただろうが、やはり苦手意識は消えていなかった。
プールの飛び込み台のような離陸台の上に、二人は箒を持って立った。5メートルほど下にネットが見える。まだ朝早いためか、運動場には人がおらず、実質貸し切り状態だった。
「飛行魔法の基礎は……言うまでもないと思うけれど、他の魔法と同じように、想像力と精神力が重要なの」
箒にまたがりながら、藤子が言った。
「ただ、何を思い描くかは、結構人によって違うみたい。そのままストレートに、箒にまたがって飛ぶ自分を想像する人もいるし、鳥になった感覚を想像して飛ぶような人もいるの。如月さんはどう?」
問いかけられ、菫はすぐには答えられなかった。藤子に話しかけられているという、緊張のせいではない。自分の解答が、世間ではあまり無いものだと自覚していたからだ。答えるまでに、たっぷり五秒以上はかかった。
「……飛行機を」
ようやく絞り出した声は、情けないほど小さかった。飛行機、と藤子は確認するように繰り返し言う。その顔は笑ったり、困ったりするようなものではない。授業ですら見せないような、きゅっと引き締まった、凜々しい表情だった。
「箒は一直線に飛ぶものだものね。急に動きを変える鳥や虫より、よっぽど理に適ってると思う。如月さんらしいな」
「私らしい、ですか?」
「もしかして如月さん、飛行機が空を飛ぶ理論を、ありったけ思い浮かべたりしてない?」
菫は頷いた。飛行機が空を飛ぶ理論。菫は空を飛ぶ時、揚力や風の影響の知識をともかく思い浮かべるのだ。横方向への加速、翼に受ける風、プロペラやジェットエンジン――そんなことをともかく考える。だから疲れるのだとは、自分でも薄々感付いていることだった。
「……やっぱり、それじゃ駄目なんでしょうか」
「駄目じゃないよ! ただ、理論より、飛ぶ姿を想像する方がもっと楽かもしれない。飛行機が飛び立つ瞬間の……映像だけじゃなくて、音や空気感も。ともかくリアルに頭の中に思い描いてみて」
藤子は片手を差し出すように掲げる。箒に乗って、飛んで見せてということだろう。菫は頷き、箒の先端を離陸台の先に向けて、またがった。それから目を閉じて、飛行機の姿を思い描く。飛行機は頭の中で滑走路に入り、加速していく――そんな脳裏の映像を頼りに、菫は一歩を強く踏み出した。そうしようと思ったわけではなく、自然と足が前に出ていた。
ぐっ、と体が離陸台の先に出る。その加速に、菫自身が驚いた。猛烈な勢いで離陸台を飛び出した体が、そのままの勢いで空に浮く。菫は目を開けて、箒の先を握る手に力を込めた。あっという間に離陸台を離れ、景色が勢いよく後ろに流れ、菫は短い悲鳴のような声を小さく上げた。反射的に力一杯箒を引っ張りブレーキをかける。ぐるん、と箒の先が回転し、向きが変わる。
「如月さん! ゆっくり、ゆっくり回って……空を飛ぶもの……そう、ヘリコプターとかは!?」
勢いが付きすぎて、半ばきりもみ回転するような形になっていた菫は、思いのほか近くで藤子の声を聞いた。菫は言われたとおり、今度はヘリコプターを思い浮かべた。空中で、そのままの体勢で制止するヘリコプターの姿を――。
「そう……大丈夫、そのまま心を落ち着けて……」
体から、意識して力を抜こうとする。すると、今度はがくんと箒の先端が下を向いた。想像だけでは無理だ――飛んでいる状態を、もっとちゃんと考えないと! 菫はとっさに、ヘリコプターを支えるプロペラを思い浮かべようとした。だが、それでも箒の姿勢は安定しない。くるくると回転を始め、徐々に浮力が下がっていく。
――落ちる!
恐怖に目を見開く。箒は暴れるようにあらぬ方を向いていた。
「如月さん!」
横から声と手が飛んできた。藤子の手が菫の手に重なる。その瞬間、菫の心は隣で飛ぶ藤子にくぎ付けになった。菫が横を見ると、足だけで体を支えながら、両手で箒と菫の手を押さえ込む、藤子の姿があった。藤子は、ふらつく菫の箒を抑えながらも、そんなことは感じさせない様子で箒にまたがっていた。それを見ていると、段々と、菫の箒は安定していった。菫の力だけではなく、藤子の力が箒に加わっているのだ。
「そう、大丈夫……ゆっくり腕から力を抜いて。姿勢は前のめりになりすぎないように」
言うとおりに姿勢を正していくと、箒も徐々に安定していった。二人は空中で静止していた。菫は、大きく息を吐いた。頬に風を感じる。朝だというのに生温い風だ。すでに気温は高い。だというのに、菫の手足や頭からは血の気が引いていた。自分の手に触れている、藤子の手が焼けに熱く感じられた。そんな藤子の手が、ゆっくりと離れていく。それを惜しいと思いながらも、菫はどこかでほっとしていた。このままずっと藤子に触れられていたら、また落ち着かなくなってしまいそうだった。
「うん、だいぶ安定したね」
「……すみません、先生」
「いいの。むしろ私が、不用意なことを言ってしまったから……いつもと違う感じで飛ぼうとして、こんなことになっちゃったんだよね。ごめんなさい、如月さん」
「先生……」
申し訳ないという感情を顔にありありと出す藤子。だが、申し訳ないのはむしろ菫の方だった。自分がバランスを崩したのは、藤子の指導のせいなどではない。たとえアドバイスを聞いたのが原因だったとしても、普段ならばもっと、その指示を冷静に受け止められたはずだ。
離陸台から踏み出した、あの一瞬。異常なまでに加速してしまったのは、きっと背後にいた藤子を意識してしまったせいだ。良いところを見せたかったのか、それとも一緒にいる緊張のせいだったのか。どちらにしろ、自分の心が招いたことだった。
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