6.囲い込む者

 菫の恋煩いは、一時的に収まった。全くの快調とはいかないが、それでも、辛うじて勉強に集中することはできるようになった。何があっても、この恋は終わったこととする――捨てることができないのなら、耐えるしかない。そう思い定めて、どうにか精神の均衡を菫は保っていた。

 ただ、絵筆は、どうしても握れなかった。

 描きかけのカンバスはクロッキー帳と共に、机の引き出しの中に押し込まれた。思いごと封印するようにそうしてしまい込んだ。だが、絵筆を握れば、手は勝手に藤子のことを描いてしまうだろう。その予感に恐怖し、菫は絵をかけなくなっていた。秋にある市民美術展も、見送りした。


 そこまでして、菫は藤子への思いを封じたのだ。


 だからこそ、藤子と顔を合わせるのも恐ろしかった。会ってしまえば自分がどうなるのか、菫には想像も付かなかったのだ。

 会いたくない、できることなら――初めて思った。

 なのに、再会は容赦無く訪れた。



 お盆の終わりに藤子は帰ってきた。そして『忍冬』に顔を出してきた。まだ朝早い、開店したての時刻に現れた藤子は、その目を赤く充血させていた。モーニングタイムとはいえまだほとんど人の居ない店に来た彼女を見て、店長はぎょっとして声を上げた。

「ちょっと藤子ちゃん、その目どうしたの!?」

 カウンターの内から出てきたかと思うと、店長は藤子の肩を抱いてカウンター席に座らせた。菫はしばらく呆然と藤子の顔を見ていたが、店長に「菫ちゃん、アイスミルクひとつお願い」と言われ、慌てて冷蔵庫を開けた。

 グラスに氷を入れ、冷えた牛乳を注いで藤子の前に置く。藤子はその間ずっと無言だった。だが、店長が優しく声をかけると、おもむろに口を開いた。

「ちょっと……実家で色々、あって」

「何があったの?」

「それが――」

 そこから先は、詰まりながら、たどたどしく語られた。あまり思い出したくないことなのだろう。声どころか、語る藤子の体すらも小さく震えていた。


 ――藤子が実家に帰ったのは、つい昨日のことだった。


 祖父母と父の墓参りも兼ねての帰省だった。しかし、帰って早々、彼女の実家に予想だにしない人物がいたのだという。

 それは、春に街コンで出会ったという、羽鳥晶はとりあきだった。

 当然、藤子は驚いた。彼女とは別れることで話が付いていたはずだったからだ。その彼女が何故家に居るのかと母に問うたところ、

『あら? だって付き合ってるんでしょう?』

 と事も無げに言われてしまったのだという。そんな事実は無い、そう伝えたものの、晶は『遠距離恋愛中なだけ』と言い張り、母の方も何故か藤子ではなく晶の言うことを信じる始末だった。

 晶がまだ付き合いを続けていると主張するのは、まだ辛うじて意味が分かる。けれど何故母が、自分ではなく晶の言うことを信じるのか。母とどうにか二人きりになった藤子は、必死になって説明した。

 それで分かったのは、藤子の母は、決して二人の関係の実態を理解していないわけではなかった、ということだった。

 ただ、藤子の母は、二人が付き合わないというのを、認めなかったのだ。曰く、

『だってねぇ、あなた。上京してわざわざ先生にならなくったって、羽鳥さんと結婚してこっちに帰ってくればいいじゃないの。あなたと結婚したいなんて人、今後もういないかもしれないでしょ? 羽鳥さんいい人じゃない。仕事だってちゃんとやってるんだし、こっちで先生の仕事が見つからなくたって、養ってもらえるじゃない』

 その後も色々と言われたそうだが、ともかく藤子の母が藤子に求めているのは、実家に戻ってくることだった。そのために、地元の企業に就職している晶と結婚させようとしているのだ。

 そして、そんな藤子の母に、晶は付け込んだ。まずは外堀を埋め、藤子を逃げられなくしてから自分のものにしようと画策したのだ。

 しかも、晶のやり口は、母にあれこれと吹き込むだけに留まらなかった。実家の周囲にも関係を吹聴して周り、勝手に実家の藤子の部屋の写真を撮ってSNSに上げたりもした。藤子が抗議の声を上げても真正面からは取り合わず、藤子の母を使って黙らせにかかる。

 それだけでも耐えきれないほどの苦痛だったというのに、挙げ句の果てには、寝ている間に勝手に藤子の写真を撮ったのだという。これには流石の藤子も怒り、常に無い怒声で彼女を罵り、驚いて起きてきた母に絶縁を浴びせかけてきてしまったのだという。菫には想像も付かない藤子の姿だが、それほど藤子にとって、母と晶の行いは苦痛だったのだろう。

 流石に不味いと思ったのか、藤子の母と晶は、藤子をなだめようとした。だが、藤子は制止を振り切って家から出ると、飛行の魔法を使ってこちらに戻ってきたのだ。ずっと驚きながら話を聞いていた菫は、この話に一番驚いた。

「五月雨先生、そんなに飛行魔法が得意だったんですか?」

「ええ……競箒ケイソウの選手になるか、それとも先生になるか……高校の頃に散々迷ったわ。高校入試も、競箒推薦で入ったから……でも結局、子供の頃からの夢だった先生になったの」

「そうだったんですか……凄いですね。私、飛行魔法はあまり得意じゃなくて」

 競箒は文字通り、箒を使った飛行魔法で行われる競争競技なのだが、トップレベルの競技者はあまりいない。というのも、飛行魔法を競争レベルに引き上げられる人間が滅多に居ないためだ。勉強である程度補える魔法薬の調合とは違って、競箒は他のスポーツ同様、本人の才能にその実力が大きく左右される。高校に競箒で推薦入学できるということは、藤子は相当な実力者だったということになるだろう。

「でも、あんなに全力で飛んだのは久しぶりだったなあ。それに箒じゃなくて、トランクに魔法をかけて飛ぶなんて! 振り返ると、自分でもちょっとびっくり」

「トランクゥ!? 嘘でしょ、あなたあんな重い物に乗って帰ってきたの!?」

「箒じゃないもので、よく安定して飛べますね。棒状のものじゃないと、左右に曲がりにくいと思ってました」

「平たいものでも意外と飛べるのよ。魔法の絨毯ってあるでしょう? あれに憧れて、子供の頃に敷き布団で飛んだこともあるの」

 そう話す藤子の顔には、笑顔が戻っていた。どうやら自分の好きな飛行魔法の話をする内に、気分が軽くなってきたらしい。それを察してか、店長は話を切り返した。

「ま、そんなことがあったんなら、泣きたくなってもしょうがないわね。けどまあ、良かったんじゃない? これで完璧に振り倒したってことになるでしょうし、これ以上羽鳥晶が何かをやったら、もう警察沙汰よ。最近、警察さんもそういうの厳しいからねえ」

「そうだといいんですけど……」

「大丈夫だって! 気に病みすぎよ、なるようになるって。……そうだ! 気分転換に何かやったら? そうね、飛行魔法を……生徒に教えるとか。何かに没頭してたら気が晴れるでしょ? 横にちょうどいいのもいるじゃない」

「え……私ですか?」

 まさか自分に話が振られると思っておらず、菫はびっくりしてしまった。藤子の方も目を丸くしているが、二三度瞬きすると、ゆっくりと頷いた。

「如月さんがよければ……」

 顔を向けて言われ、菫は二つ返事で「おねがいします」と言っていた。本当は、そんなつもりはなかった。ただ話を聞いているだけで、感情が右往左往しているのだ。顔も見たことがない羽鳥に対する怒りや、苦悩する藤子への同情、そして、自分ももしかしたら羽鳥と同じ気持ちを抱くかもしれない――いや、もうすでに持っているのかもしれないという葛藤。そんな感情を抱いて、これ以上藤子とまともに会話できるとは思えなかったのだ。

 だが、了承してしまったからには、言を翻すこともできない。いや、いつもならやんわりと断り直すこともできたのかもしれない。ただ、飛行魔法を教える段取りをあれこれと口に出して考えている藤子を見ていると、菫はどうしても、断ることはできなかった。

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