5.自覚の始まり
握った絵筆をミニテーブルの上に置き、菫は小さく息を吐いた。
自分の部屋の真ん中に置かれた、イーゼルの上にはA4サイズよりやや小さいカンバスが置かれている。3号のカンバスに描かれているのは、部屋の窓から見る景色だった。敷き詰められたように並ぶ一戸建ての民家の前に、一本の道路が通っている。下書きから多少色を置いてはいるが、ほとんどが白紙の未完成だ。いつもならもう少し筆が進むはずなのだが、今日は駄目だった。
溜め息を吐いて、菫はカンバスを片付けた。手持ち無沙汰になり、クロッキー帳を引っ張り出す。椅子に腰かけ、無心で鉛筆を動かす。日頃なら、記憶の中にある風景ばかりを描いているのだが、今日描き出されていく鉛筆画は、人の形を取っていた。
しばらく、無心で菫は鉛筆を動かしていた。
しかしその絵の形がはっきりしてくると、思わず手を止めた。絵の中の女性は見覚えのある顔かたちをしていた。
「……五月雨先生」
鉛筆で描き出されたのは、五月雨藤子その人だった。
その日から、菫の夏休みは日に日に憂うつなものになった。初めのうちは、単に藤子のことが心配だからと自分に言い訳することができていた。
だが、三日経っても藤子のことが頭の中から消えない。その顔が思い浮かんだまま、焼き付いてしまったようだった。絵筆を握ってもまともに絵は描けず、クロッキー帳を意味も無く眺めて過ごす時間も増えた。
せめて勉強に集中しようと、クロッキー帳は余白を残したまま本棚の片隅に押し込めた。それでも、発作のように藤子のことを考えてしまう。何にも手が付かない。そんな状態が何日も続けば、自分がいまどういう状態なのか、否応なく思い知らされる。
菫は自分の想いにだけ鈍感になれるほど、賢くはなかった。発達した客観的な視点は、自分自身に嘘を吐くことすら許してくれない。菫は自分の気持ちを自覚せざるを得なかった。
(……自覚したところで、どうしようもないのに)
二週間ほどが経ち、お盆も間近になったところで、菫は陰鬱な気分をついに絵にぶつけることにした。クロッキー帳に描いた、あの藤子のような絵を、今度はカンバスに描いていく。いままでに無く筆は進んだ。しかし、頭の中に思い描いたものが、あるいは目の前にある光景が絵になっていく、あの静かな充足感は菫の胸中に生まれなかった。描けば描くほど、胸の中にはどろりと濁ったものが溜まっていくようだった。
「なんで……」
下書きを終え、深い溜め息を吐き、菫は呟く。その先は言葉にならなかった。絵の中の藤子は、胸元から上を描いたもので、正面ではなく向かって左へと視線を向けている。その口元には静かな微笑みが浮かんでいた。菫のよく知る顔だ。生徒たちを教壇から見守る時に浮かべる、自分の教え方に間違いが無いと分かってほっと安堵する、そんな微笑みだ。
自分は彼女の期待に応えている。生徒と教師という関係において、自分ほど彼女を安心させられる者はいないだろう。
――だがそれは、あくまでも数十、数百という人間の中に埋没した上でのことだ。バイト先での先輩後輩という関係もあってか、藤子は自分とはよく話してくれる方だが、どんなに親しくとも、生徒と教師の関係は崩れない。
一つ一つのことを積み上げて、形にしていく。藤子はそんな人間だ。教師になる前も、教師になった後も。少しずつ、自分にできることを積み上げる。それは信頼や実績となり、彼女自身の形を強固に造り上げていく。
積み重ねを重んじる性分。だからこそ、自分たちの関係は変えられないのだ。
――そんなこと、告白してみなければ、分からない。
そう思う己の声はすぐにかき消える。告白しても無駄だと菫には分かっていた。関係性を変えてしまうことが苦手だからこそ、教師間での婚活さえ諦め、公共の支援を藤子は頼ったのだ。本人に聞いたわけでも無いのに――そんな風に思う隙もない。菫の中で、藤子という人間はしっかりとした像を結んでいた。彼女の天性の聡さゆえか、それとも絵を描くために身に着けた観察眼がそうさせるのか。菫の中には五月雨藤子という人間の心の、精巧な写し絵があった。
そこまで自分と藤子の心を見通せるのなら、この恋は馬鹿げていると言い聞かせられるのではないか、と菫は何度もそう思った。しかし、そうはいかなかった。藤子の美点を思い浮かべ、そんなものは他の人間も持っていると、もっと素晴らしい人間がいると思おうとした。自分の容姿と能力を餌にすれば、藤子よりもっと優れた人すら引き寄せられるだろうと、傲慢なことすら考えた。
だが、駄目だった。好きになるのに理由など無い、という小説やドラマで見るような陳腐な言葉の意味を菫は知った。好きになると些細なことすら美点になり、恋した人が持つ美点は、他の誰が持つものよりも勝ると、感情が脳を騙すのだ。
菫は、初めての恋に
他人の目から見れば、そうとは分からなかっただろう。何かを考えていると思われても、時期的に進学のことだろうと片付けられる。菫はそれをありがたがらなかった。それは外部から、恋をするのを止められることがない、ということだからだ。
菫は止めてしまいたかった。叶わぬ恋など捨てられれば良かった。記憶を失う霊薬でも作れないかと物騒なことすら考えたが、調べたところ、記憶消滅の魔法薬は禁止薬物だった。恋を成就させる魔法は調べれば出てくるのに、恋を失わせる魔法はことごとく禁止されていた。
菫は世の中に憤った。恋の発現も消滅も、どちらも人心を左右する魔法なのに、片方だけが禁止されている。本当なら両方、人の心を強制するとして、禁止されるべきなのに。それなのに、恋の成就の魔法が合法なのは、きっと『繁殖』を後押ししてくれるからなのだ。
そう思うと、今度は吐き気がこみ上げてきた。
どんな形で恋をしても、いまの世の中は、恋を『繁殖』にしてしまうのだ。
もしこの恋が、奇跡が起きて成就しても、自分か藤子のどちからは、男になるよう社会に強要される。恋人のまま一生を終えることもできない。内縁の夫婦関係は、不倫と同じほどに現代社会では蔑視される。恋人と別れることは、昔でいうバツが付くようなものだ。社会がただの恋愛に向ける目は、あまりに厳しかった。
女ばかりになった世の中。けれど、女同士での恋は許されない。社会は『男女』を求めているのだ。
(私や先生が『男』だったら……こんなに悩んだり、しなかったのかな)
それとも、と菫は思う。
(私や先生以外の恋人みんなが、男と女だったら、先生に、恋してもよかったのかな……)
きっと昔は、もっと恋は自由だったのだろう。魔法災害が起きるあの日までは。男も女も、性別の枠など考えず、子供を産むかどうかも自分たちだけで決められたに違いない。
こんな世の中に、生まれたせいで。
――それとも、間違っているのは自分の方なのだろうか。そんなに好きならば、姿形が変わるぐらい、受け入れればいいと思われるのだろうか? けれどもし、そんな風に思う人がいるのなら、その人に対して自分は唾を吐きかけるだろうとすら菫は思った。
自分の体。自分の心。
菫のアイデンティティは、自分を社会に沿わせ、その形を変えることを拒んでいた。菫は、自分のまま藤子を好きでいたかったし、そのまま変わることのない藤子に、自分を愛してほしかった。
しかし、どんなに想っても、意味は無いのだ。
教師と生徒という関係。女と女という形。社会からの糾弾を間違いなく受ける間柄。たとえ自分は耐えられても、藤子はきっと嫌な思いをする。藤子を傷つけるぐらいなら、自分が傷つく方がいい。
この先ずっと、この感情は表に出さないようにしよう。いつかきっと、時間が全てを解決してくれる。菫は、耐え忍ぶことを選んだのだった。
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