4.平穏の終わり
夏休みが始まって一日目。菫は喫茶『忍冬』に来ていた。客としてではなく、従業員として。人は平日よりも多い。お盆休みに合わせて都心から人が離れる、その前だからだろう。客層は高校生や大学生が大半だった。
菫は、藤子のように厨房に入るのではなく、ホールを任されていた。働き始めてから一年以上。注文を取って配膳するのも慣れたものだった。
十三時。ランチタイムのピークが終わると、菫は上がらせてもらう。もう少し長く働いても菫としては平気なのだが、母も、店長も、学業を疎かにしてはいけないと言って、それ以上労働時間を増やすことは許してくれなかった。
仕事から上がると、そのままカウンター席で菫は昼食を取る。店のまかないが出るのだ。今日はサラダと、切り落としたパンの耳で作ったフレンチトーストだった。パンの耳のフレンチトーストは特に絶品で、卵が染み込んだ耳がこんがりと焼き上がって香ばしく、カリカリとした食感が心地良いのだ。
十三時を過ぎて少しすると、人の入りも落ち着いてくる。人の話し声も少なくなり、静かな店内には、カップを置く小さな音がときおり落ちるばかりだ。そんな、静寂には少し満たない静けさの中だと、来店を告げるドアベルの音はよく聞こえた。
「いらっしゃいませー。……あら、藤子ちゃん」
店に来たのは藤子だった。菫が振り返ると、軽く頭を下げてはにかむ、藤子の姿があった。藤子は、自然な動きで菫の隣に座った。そして座ってから、あ、と口を丸く開けて「隣、いい?」と菫に聞いてくる。菫は微笑んで「大丈夫ですよ」と頷いた。
「藤子ちゃん、いつものセットで良い?」
「はい、お願いします」
「今年もお盆には帰っちゃうんだったっけ?」
「二日だけですけどね」
世間話に耳を傾けながら、菫はフレンチトーストに口を付けた。砂糖の甘みは、バイトで溜まった軽い疲労を簡単に洗い流してくれる。ただ、香ばしさと砂糖のせいで、喉が渇くのが難点だった。一気にいくつも食べられないので、菫は合間に紅茶を飲んでいた。菫は紅茶派だったが藤子はコーヒー派で、見るからに苦そうな真っ黒い色をした、アイスコーヒーのグラスが彼女の目の前に置かれていた。
「……ああ、そうだ。そういえば藤子ちゃん、お見合い話って結局どうなったの?」
「えっ……お見合い? 先生が?」
お見合いと言うと随分古くさく聞こえるが、都心から離れた地方ではよくある話だった。昔ながらの一対一のお見合いはほとんどなく、いわゆる合コンや街コンといったものを、地方自治体がセッティングするのだ。男性がいなくなった
「あはは……春に、ちょっと参加してみたんだ。けど……ちょっと、ね」
「あら。声、かけられたって言ってたのに?」
「何度か会ってみたんだけれど……」
藤子の言い分は、どうにも歯切れは悪かった。そんな藤子から店長は、遠慮なく話を聞きだしていく。藤子より多少下になる息子がいたという店長にとって、数年とはいえバイトをしてくれた藤子は、娘のようなものなのだろう。その顔は明らかに、心配しきった母親のものだった。
「初めは話が合うかな、って思ってたんだけど……その、ちょっとアプローチが露骨で。いきなり結婚の話とか、子供の話とかされたから、恐くなって」
「はーん、向こうさんも必死ってわけ。まあ、分かるわよ。世の中がこうなっちゃったし、マッチングした相手は貴重だもの。どうしても逃したくないのね」
「はい……でも、一日に何度もメッセージを送ってきたり、電話してきたり……家までいきなり来たりして、お付き合いは止めましょうって伝えてもそんな感じだったの。仕事で地元を離れるからって言って、それでどうにか別れたんだけど。もし帰省先でまた会ったらと思うと……」
憂うつそうに藤子は息を吐く。店長も一緒になって溜め息を吐いた。
「また会っても、きっぱり断ればいいんじゃない?」
「そうなんですけど、そこまで好きになってもらった相手なら……もしかしたら、お付き合いするのもいいんじゃないかなとも思って……」
「……止めた方が良いと思います」
それまで、黙って話を聞いていた菫は唐突に口を開いていた。菫自身も、自分で口を挟んだことに驚いた。大人の結婚事情に対して、自分は口出しできるような立場ではないのに――そう思いながらも、よく回る自分の口を菫は止められなかった。
「相手のことも考えずに、迷惑になるようなことをやる人なんて……そんな人とお付き合いしても、上手く行くと私は思いません。ずっと、相手の『好き』に合わせて先生が我慢し続けることになるじゃないですか」
「そう、かもしれませんね。けど……街コンでほとんどアピールできなくて、ずっとひとりでいた私のことを、選んでくれた人だから……」
「その人は本当に、先生のことが好き、なんですか? もしかしたら、色んな人に声をかけているだけかもしれないじゃないですか」
「菫ちゃん。会ったことも無い人のこと、あんまり悪く言っちゃ駄目よ」
飲みかけの紅茶を見ながら話していた菫は、思わず顔を上げた。店長は、厳しい顔をして菫を見ていた。横を見れば、藤子はうつむき、菫から顔を背けていた。――傷つけてしまった。そのことに、菫はショックを受けながら、それでもどうにか「すみませんでした」と謝罪を口にする。
「言い過ぎました。先生のことが心配で……」
「ううん、いいの」
藤子はすぐに笑顔になった。笑顔になっても眉は下がったままで、どこか困り顔だ。ただ、そんな笑顔は藤子の地顔のようなもので、笑うといつも、藤子はそういう顔になるのだった。
「彼女に会っても、やっぱり断ります。こういうことで無理をしても……お互い、いいことも無いと思うし」
「それが無難かしらね。出会いなんて人生一回こっきりってわけじゃあないし」
「……そういえば先生は、結婚、したいんですね」
菫が問うと、藤子はきょとんとして頷いた。
「やっぱり、憧れみたいなものもあるし……一人でずっと生きていくのも、きっと辛いもの。でも、女性のままだとやっぱりマッチングの確率は下がっちゃうみたい。薬で男の子になると、一気に倍率が上がるんだけど……」
「ま、簡単に元の性別なんて捨てたくないわよねぇ。あたしもそれがあるから、再婚なんて考えられないし」
婚活が盛んになる一方、元より性自認が女性であったり、異性愛者であったりする女性は、そもそもその婚活の場に参入してこない。早い段階で結婚を決めたのは、元々己の性同一性に疑問を持つ女性たちだった。
「男の子になるって、どんな気持ちなんだろうねえ」
「さあ……どうなんでしょう。私も、自分がなりたいとは思ったことありませんし……」
「なりたい自分になれるからやってるんだろうけど、社会から全然違う見られ方するのって、大変でしょうね。ただ男になって結婚したってだけなのに、めちゃくちゃ報道されたりしてさ」
法整備や社会活動を経てもまだ、奇異や蔑視の目で見られていた彼女たちは、魔法災害を経ていままでと真反対の扱いを受けるようになった。重婚を認める特措法が世界各国で生まれ、彼女たちは英雄のようにもてはやされるようになったのだ。
彼女ら、いや彼らは、人類最初の男の名にあやかり『アダムス』と呼ばれつつある。公称ではなく、あくまでもネット上や社会での噂話程度として。差別だ偶像化だと言われるので、公では『アダムス』たちには特別な名称は無い。
そんな『アダムス』たちに、女性という性別を捨てきれない女たちは尊敬のような視線を送っているのだ。菫はそう考えている。決して尊敬そのもの、ではない。女性たちが性転換者に向ける視線は、どちらかといえば、昔エッセンシャルワーカーと言われていた人たちに対して向けられたものに似ている気がした。
かつて、世の中にいる大多数の、普通の労働者を指してエッセンシャルワーカーなどという言葉が作られた。わざわざ言葉が作られたということは、そうしなければならない理由があったのだ。ただの労働者が区別される理由。尊敬される者たちだから、言葉ができたのではない。尊敬する必要があると、喧伝されるためにその言葉はできたのではないか――六十年以上も前の言葉なので、菫には詳しくは分からないが。ともかく『アダムス』という言葉とそれに向ける尊敬は、そういうものに近いように見えるのだ。
「私は……嫌だな」
「如月さん?」
「あ……いえ、その」
思わず口に出てしまい、慌てて菫は言葉を取り繕った。
「好きな自分になって、好きな人と一緒にいるだけなのに、誰かから、何かを言われるなんて……って、そう思って」
「こんな世の中なんだからしょうがないとはいえ、当人たちからすればねえ」
「そういうのを考えると、ちょっと尻込みしちゃいますよね、婚活とか」
ふー、と藤子は深い息を吐く。
「結婚、やっぱり無理に考えない方がいいのかな。教師って、意外と出会いが無いから……焦ってたんだけど」
「ゆっくり考えなさいよ。このご時世じゃ行き遅れなんて珍しくも何とも無いんだし。いつかあんたに合う、あんたのことを好きになってくれる人が現れるって」
「そうだと……いいんだけど」
いつか現れる、好きな人。菫は、藤子の隣に『誰か』が立っている姿を想像しようとしてみた。――上手く行かない。見たくない、と頭のどこかが、想像にブレーキを踏んでいるような感覚がある。
「……ごちそうさまでした」
菫はそう言って席を立った。心がざわついて、落ち着かない気分だった。一刻も早くここから去り、無性に絵筆を握りたかった。
「あら、おそまつさま。今日もお疲れさま」
「お疲れさま、如月さん」
二人に頭を下げると、菫は店から出て行った。
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