3.先生と生徒
菫は母の勧めに従って、新都第一高校に通うことになった。自分が望む分野への進学への未練はまだあったが、それも新しい高校生活が始まってからは、徐々に薄まっていった。
菫は、勉学に関して、目覚ましい才能を発揮した。
基礎五教科に加え、近現代以降では、高校で魔法を教えることが多い。高等教育の基礎というわけでは無いので、魔法を教えていない高校もあったが、例の魔法災害以降は、加速度的に魔法の需要が高まっていた。それを身に着ければ、災害にも対応ができるかもしれない。そんな恐怖が魔法の習得を後押ししていた。
必然的に、絵を描く時間より、勉強する時間の方が多くなった。そして勉強は、時間をかければかけるほど、相応の価値を与えてくれた。それは校内における古くさい、普遍的かもしれない
菫が思う以上に、勉強が彼女に与えた満足感は大きかった。
一方で、絵の分野において、彼女が何も得なかったわけではない。絵画鑑賞は、この時代において、大衆の娯楽の一つになっていた。ドラマや演劇、ゲームといった娯楽が、魔法災害以前に比べて廃れてしまったせいだ。
初めは、喫茶『忍冬』に絵を飾らせてもらうだけだった。
すると、それを見た一人の人間が、是非美術展に絵を出してほしいと打診してきた。彼女は市役所に勤めており、市の文化ホールで開催される、市民美術展の絵を募集していたのだった。
菫が描いたのは、海の絵だった。海といっても美しい海岸線ではなく、港が描かれた海だ。港の左右には巨大なクレーンやコンテナ、倉庫といったものがある。海の水は灰色がかった青色をしていて、沖に巨大なタンカー船が浮かんでいた。
精緻ではあるが、綺麗だとは言い難い、貿易港の光景。
初めのうちはあまり話題にならなかった。特に、高校生部門は、はつらつとした自然を描いたようなものか、そうでなければアニメ調の美麗なイラストが大半を占めていた。しかもそういった絵の中でいくつかは、魔法をかけられ、まるで映像のように絵が動いていたのだ。当然、そちらの方が目を引く。
ただ、この絵に目を付けた者がいた。資産家だという彼女は、近代芸術の発展に資産を投じていた。そんな人物が、魔法もかけられず、灰色を多用した、地味というより陰鬱ささえ感じる絵の寸評を、ネット上に掲載したのだ。
寸評の評価は高かった。
高校生の少女が描いたとはとても思えない――そんな一文から始まり、良い点を手短に述べていく。ただ一点、見えていないところを、想像で無理に補完しているところが悪い箇所だとは書かれていたが、初めて自分の絵に下された評価は、菫に大きな興奮と、絵に対するさらなる意欲を与えた。
勉学と趣味、両方が充実した学生生活だった。
――それに陰りが出始めたのが、菫が三年に進級してからだった。
菫は再び『将来』について考えることが多くなった。担任の先生からは、大学への進学を勧められたが、働き手不足の世の中では、高校卒業でも充分に働き口があった。しかも菫には夢があった。そして、夢に近づくための名声も、ほんの少しだがあった。都や市が開催する、市民美術展に何度も作品を展示させてもらえた。反響は、徐々に大きくなっていった。美術展のたび、何人かが、菫の絵を話題に出した。いますぐ絵を糧に生きることはできないだろうが、専門学校や美大に通うことも菫は考えていた。
ただ、菫の母は、就職か、大学への進学を勧めてきた。
「でも、まだ時間があるから、しっかりと考えなさい」
母は落ち着いた声でそう諭した。菫が未だに絵の道に進みたいと思っていることも分かっているのだろう。二つだけしか道を示さなかったのが、その証のようだった。菫は、母に対して自分の意見を述べることを諦めていた。母は、自分のことで手一杯なのだ。もし美術系の方面に進学するなら、アルバイトをして自力でお金を貯めよう。幸い、『忍冬』でのバイトのおかげで、家を出て独り暮らしを始められる程度にはお金はあった。
考えることは多かった。多すぎて、まとめられなかった。
菫はまた、三年前のあの時のような、思考の迷路に迷い込んでいた。誰かに話を聞いてほしいと思う一方で、誰に聞いても仕方がないという諦めが常にあり、結局のところ、自らが描いた地図を頼りに、その迷路を進むしか無いのだ。そしてその迷路の先には、羅針盤も灯台もない、航海が待ち受けている。
頼る者は誰もいなかった。菫は優秀すぎた。どの道を選んでもどうとでもなると、誰もが思っていた。助言ができる者は、生徒にも先生にもいなかった。
――そんな風に、誰もがそう思っていた。
しかし、実際には違った。
自分では相談に乗れないだろう。そんな風に、一番自信が無さそうに見えて、その実で一番、菫の心を動かした人がいた。
五月雨藤子だった。
藤子は菫の担任で、進路相談も受け持った。そこで初めて、菫は、先生に対して己の心を見せたのだ。いままで、進路のことを詳しく伝えたのは『忍冬』の店長だけだった。だからなのかもしれない。彼女の下で働き続けた藤子には、不思議と取り繕わない、内申点など気にしないような言葉が出た。
「つまり……えっと、如月さんは、本当は絵を描きたいんですね」
長々とした話をどうにか整理して、藤子から最初に出た言葉がそれだった。先生としてはどんくさい部類に入る彼女は、理解力が無いなどとも言われている。だが、本当は違うのだと菫はいままで見ていて気づいていた。
「如月さんって、絵を描きたいだけじゃなくて……絵をちゃんと、お金に替えたいって、そう思ってるのかな?」
菫は驚き、目を丸くした。画家やイラストレーターになりたい。そういうことを友人に言っても「趣味を仕事にって言うほど楽じゃないらしいよ」などと、的外れなお節介を焼かれることがしばしばだった。話を割愛している自分にも非はあるだろうが、そんな風には思っていないのに――そう思い続けていた菫の、本当の思いを藤子はいきなり言い当てたのだ。
「絵で生計を立てたい……そう、本気で思ってるんです。だから、高校卒業後にいきなりじゃなくてもいいし、大学や専門を出たり……普通に就職した後に、お金を貯めてからでもいいと、頭では分かってるんです。でも、経験が物を言うとも言いますから……すぐにでも、そういう仕事をした方がいいのかな、とも思っていて……」
「そうだったんだ。菫さん、しっかりした子だから、きっとそこまで考えてるんだろうなって……花田さんの話を聞いてても、考え無しに進学や就職はしないだろうと思ってたの」
花田さんとは『忍冬』の店長のことだ。藤子もまた『忍冬』を気に入っており、バイトを辞めた後も、たまに顔を出して紅茶を飲んでいくのだった。
「そうなると……やっぱり、確実に就職先が見つかるのが、一番良いのかな? そうなると一番は美大に行くことだけど……美大でも一般企業への就職先はあるみたいだから、それも参考にしながら考えて行くのがいいんじゃないかな」
「はい。考えてみます」
それから、少しだけ今後の勉強の方針について話し、進路相談は終わった。ありがとうございました、と礼をして菫は席を立つ。
「如月さん」
進路相談に使っていた教室から出ようとしたときだった。藤子に声をかけられ、菫は足を止めて振り返った。
「どんな夢でも、叶えるのは何年もかかるから、ゆっくりやっていっても大丈夫よ。私、先生になりたいと思ってから先生になるまで、十年もかかったからね」
「……はい!」
言葉そのものはありきたりというか、当然のことを言っているだけだった。しかし、その当たり前の言葉が菫の心にはすとんと落ちる。他の誰かに言われても、どこか斜に構えてしまうのに、藤子の言葉だけは素直に受け入れられた。それはきっと、愚直でひたむきな感情が、言葉の端々に滲んでいるからだろう。
別に菫は、根拠があって、藤子が誠実な人だと思うのではない。菫は単に、藤子が好きなのだ。
その『好き』が、恋愛感情だと菫が明確に自覚したのは、夏休みが始まってすぐだった。
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