2.努力の運命

 菫が藤子と初めて出会ったのは、十五歳の冬だった。冬休み。例年より暖かな冬は、着ている服の少なさの分だけ、人の気持ちを軽くさせているようだった。

 男ばかりが死亡し、夫や恋人、我が子や友人を亡くした女たちは、同じ境遇の者たちと慰め合う。雪の降らないクリスマス・イブ。いまはかつてのように町が賑わうこともなく、イエス・キリストの降誕を密やかに祝う。

 欧米ほどキリスト教がさほど広まっていない日本で、クリスマスのミサは以前よりも大々的に行われるようになり、テレビ中継までされるようになった。キリストのように再び、失われた人類の片割れが復活することを祈る――そんな気持ちが、信仰に満たない微かな祈りを生んでいた。


 菫は、人の温かさが伝播したようなほのかな真昼の陽気の中、商店街を歩いていた。県内の大半の商店街が完全にシャッター街となり、取り壊されて再整備された中で、ここは唯一商店街としての形を保っている。菫の通う学校が――この時通っていた中学も、後に通う高校も――近いからだ。県内有数の進学校の学生が訪れるというだけではない。学校に卸す様々な用品が、彼らをこの町で生き残らせていた。

 ざらついた石を敷き詰められた、石畳の道を菫はあてどもなく歩いていた。歩く内に気分は軽くなっていくようだったが、商店街の中程まで来ると、重石を飲まされたように、胃の辺りが重い感じがした。

 菫は、人生初めての家出をした。

 十五歳。脳の成長に伴って認知機能が増し、アイデンティティが芽生えていく。その過程で、子供は反抗期や思春期を向かえ、自分の意思を持つようになる。それまで典型的な『良い子』であった菫も例外ではなかった。

 菫はそれまで長い間、自分の中にある気持ちを押し隠していた。良い子でいようとしたのは、褒められたいというのもあるが、そもそも母のためにできることをやりたかったからだ。

 母は、自分を女で一つで育ててくれた。魔法災害以前から、夫と、つまり菫の父と離婚していた。暴力を振るわれていたらしい。涙ながらに幾度もそのことを語り、時に耐えきれない過去のフラッシュバックに癇癪かんしゃくを起こす母を、これ以上辛い目に合わせたくなかった。

 そんな母と、恐らく、生まれて初めて菫は喧嘩をした。

 ……いや、喧嘩未満だっただろう。母の意見にほんの少しだけの反論を挟んだ。それが母の怒りに火を点けたのだ。泣き喚いて自分がいかに正しいかを主張する母の姿に、菫は慣れているつもりだった。けれど今日この時、初めて菫は、母を明確に嫌悪した。一緒の空間に居たくない。そう思い、コートを羽織ると部屋の窓から外に出た。母は、菫がいなくなったことすら気づいていないかもしれない。

 母の主張が間違っていると、菫は思わない。ただ、自分がその正しさに耐えられないのだ。それだけの話だった。

 思い返すだけで気分が悪くなってくる。自分の正しさを保証する者が、誰もいない現実。父親がいれば、まだ肩を持ってくれたかもしれない。けれど、母と意見を違えたいま、菫は一人だった。菫には友人が少なかった。そして、数少ない友人にはすでに考えを打ち明けていた。賛同者はいなかった。好きにすればいいと建前では言っていても、彼女たちの目は『そんな考え方は馬鹿げている』と言っていた。

 誰でもいい、話を聞いてほしい。そんなことを考えるが、話を聞いてくれる人間が都合良く現れるはずもない。ならばせめて、少しでも沈んだ気分を変えよう。コートのポケットに突っ込んである財布の中身を確かめて、近くにあった喫茶店に入った。


 喫茶店は、ビルの半地下にあった。昔からある古い喫茶店だが、古くさいとは感じない。白く塗られた壁にはいくつも壁掛けの絵が飾られており、ステンドグラスのシェードが被せられた照明が、店内を照らしている。席は、重厚な木の丸テーブルがいくつかと、カウンター席があり、カウンターの内側には、カフェのオーナーらしい若い女性が立っていた。ピンクブラウンに染めた髪が目を引くオーナーで、引き寄せられるように菫は、カウンター席に座っていた。間近で見ると、しっかりと化粧がされた顔は目鼻立ちがはっきりしていて、落ち着いた店内の印象には合わないような気がした。

「いらっしゃいませ」

 微笑んで、彼女は言う。その声を聞いて菫は、どうして派手に見える彼女が、こんな落ち着いた喫茶店で働いているのか理解した。落ち着いた声色は、聞くだけで、心が安まるようだった。

 初めての店に知らずのうちに緊張していた菫は、ほっと息を吐いてメニューを眺めた。品数は、あまり多くない。個人経営というのもあるだろうが、そもそも働き手が一気に半減したせいで、食料品の確保が追いつかないのだ。魔法で一種類の作物を大量に生産する補助はできる。まずは生存のため、大量の穀物を作るのに使われた。だが、災害以前より農家の数が激減したせいで、作物の多様性が失われてしまったのだった。作りやすいトマトやキュウリといった作物はある程度出回っていたが、手間のかかる果物は高級品だった。

 菫はランチのセットを頼んだ。注文を受けると、店長は背後に向けてそれを伝えた。菫は店長の後ろの方を見た。店の奥はキッチンになっていて、そこに一人の従業員が立っていた。はい、と返事をした彼女は、店長とは逆に、地味で目立たない容姿をしていた。真っ黒な髪を撫でつけて首の後ろで束ねている。厨房を担当しているらしい。店長が紅茶を淹れる傍らで、ランチセットのトーストをオーブンに入れ、冷蔵庫からレタスを出してその葉を剥いでいく。

「あの子、教育実習生なのよ。いまはバイト中でね」

 出し抜けに店長が言った。どうやら菫の視線に気づいたらしい。菫は、何とも言えずに小さく頷いた。

「このまま行けば、新都高の先生になるんだって。もしかしたら、未来の先生かも」

 菫は一言、そうなんですか、とだけ返した。素っ気ない返事になってしまったが、何故か菫は、未来の先生に目を引かれていた。簡単な料理を真剣に作る、その後ろ姿が、心の中に何かをストンと落としてくれた気がした。

「……高校、本当は行きたくないんです」

 気づけば菫は、そんなことを言っていた。誰かに聞いてほしい思いが、勝手に口からこぼれて出ていた。「あら。じゃあ、どこに行きたかったの?」と聞き返す、店長の声が心地よい。

「専修に……行こうと思って」

「専修? 専修高校ね。この辺だと北農とか、あとは新芸あたりかしら」

「美術系に行きたかったんです。それで……母と喧嘩になって」

 ああ、と店長は得心したように言って、カップに淹れた紅茶を菫の前に置いた。

「お待たせしました。……でも、いまは高校に行ってもいいと思ってるのね」

「自分でも……本当はどうしたいのか分かりません。けど……」

 菫はまた、キッチンの方に目を向けた。ランチセットはほとんど出来上がっていた。トーストが焼き上がり、後はスクランブルエッグができるのを待つだけだ。

「母に言われたんです。潰しが効かないって。卒業した後どうするんだって……美術系の仕事なんて無いって、怒られて……」

「全くないってわけじゃないでしょ?」

「私もそう言って、お仕事が無いならバイトでも何でもするって言って……でも、もしかしたら順番が逆なんじゃないかなって」

「順番?」

 菫はティーカップに口を付けて、唇を湿らせた。暖かなミルクティーは、口当たりが滑らかで、柔らかな香りを漂わせていた。

「中学を卒業したらすぐ、美術の道に行こうと思っていました。でも……いますぐやりたいことが、いまできるわけじゃないって、本当は分かってたんです。やりたいことをするために、本当はたくさんの準備がいるって……分かってたのに」

 話しているうちに、ランチセットができあがった。フライパンを握っていた未来の先生が振り返ると、菫と目があった。彼女は何故か照れたように目を泳がせると、軽く頭を下げて視線をそっと外した。

 彼女は別に、嫌々この仕事をやっているわけではないのだろう。雰囲気で、それが伝わってくる。そのことが、菫の気持ちをほんの少し軽くした。好きなことがすぐできないからと言って、その過程にあることが、楽しくないわけではない。高校に行った後、大学に行くか、もしかしたら美術と全く関係のない仕事をするかもしれない。けど、仕事をしながら、絵は描けるはずだ。もっと後になって、美術系の大学や専門学校に行くことだってできるだろう。

「もうちょっと……後回しにしても良いのかなって、そう思ったんです」

「あなた、大人ねぇ」

「えっ?」

「私、高校卒業してからすぐカフェ始めたの。親の遺産で何とかなると思ってね。でも資金繰りが大変で……もっとお金貯めてから始めれば良かった! って何度も思ったの。自分の未来をたくさん考えられるのって、大人よ」

 そう言って店長は、菫に笑いかけた。頷いた菫は、少しドキドキしていた。大人っぽいとクラスメートに言われることはあっても、大人と言われたことはまだ無かった。紅茶にまた口を付けると、さっきよりも甘く感じた。カップを置いたところで、ランチセットができて、菫の前に置かれた。お待たせ、と店長はまた短く言って、

「だからって回り道が正解だったとも思わないけどね。回り道したら、好きな道より楽な道が見つかっちゃうかもしれないでしょ?」

 そんなことを言って、からりとした笑い声を上げた。


 菫はこの一件で、この喫茶店『忍冬すいかずら』がすっかりお気に入りになった。アルバイトの教育実習生――後に新都第一高校に務めることになる、五月雨藤子がバイトを辞めてしまった後も、少ないお小遣いを溜めては顔を出していた。

 高校の二年生に進級してからは、学校の無い土日限定だが、バイトをさせてもらえるようにもなった。母は、猛烈に心配したが、反対はしなかった。

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