8.醜聞
それからしばらく、菫は藤子からの指導を受けた。藤子の指導は的確だった。中でも一番参考になったのは、飛んでいる最中の、精神状態の話だった。
『――人間の本能だからしょうがないことだと思うけど、やっぱり飛んでる途中で、どうしても恐怖で体が硬くなってる時があるみたい』
指摘されて、確かにそうだと菫は思った。藤子と対面する緊張を差し引いても、体がいきなり硬直することがあった。自分でもそれが何かは分かっていなかったのだが、どうやらそれは、墜落に対する本能的な恐怖のようだった。
高所への本能的な恐怖。それそのものは、慣れることでしか克服できないのだと藤子は言う。
そして、その恐怖に慣れるためには、ともかく繰り返しの練習しか無い。落ちるのを避けるのではなく、飛んでは落ちることを繰り返すのだ。体勢が崩れたら、無理に建て直すのではなくそのまま落ちる――もしかしたらそれが、飛行魔法の一番のコツかもしれない、と藤子は言った。
「高校まで競技飛行をやって、色んな大会に出たけど……怪我で選手生命が絶たれるっていうのはやっぱりよくある話だった。競技飛行は特に、落下が原因で止めちゃう人が多くて。
……でもそれは、骨折とかが原因じゃなくてね。空を飛ぶことそのものへの恐れで飛べなくなってしまう。私は怪我で競技を止めたりはしなかったけれど、それは箒から落ちなかったからじゃなくて、落ち方が上手だったからなんだって。高校の頃、飛行魔法の先生に言われたことがあるの」
つまり、体勢を崩しても落ち着いて、痛くない落ち方をするのが一番だということらしい。落ちても大丈夫――そう思えるようになると、自然と落下への恐怖も減り、結局墜落や箒からの滑落も減ることに繋がるのだ。
とはいえ、一日で菫がそうなれるわけではない。そもそもそのアドバイスは、競技飛行の選手だった藤子からのものだ。一線級の人間の境地に、早々追いつけるものではなかった。
ただ、それでも指導の甲斐あってか、菫は多少だが、飛行魔法への苦手意識を捨てることができた。藤子の方も、菫への指導で気が晴れたのか、二日前に見せた気落ちした様子は、影も形もなくなっていた。
――ただ、菫にとっての問題は、それで解決したわけではない。
そもそも菫の問題は、飛行魔法ができないことではない。五月雨藤子という人に向ける感情そのものなのだ。その感情は、むしろ、飛行魔法の訓練を皮切りに深刻になっていった。
菫はその日から、藤子と連絡を取り合い、よく顔を合わせるようになった。運動場はもちろんのこと、それ以外の場所へも、気分転換と称して行くようになった。そう頻繁なことではない。ただ、喫茶『忍冬』に藤子が顔を出すことも多かったので、二人が顔を合わせる回数は、夏休みだというのに非常に多かった。
「それにしても、よかったわよ。藤子ちゃんが元気になったみたいで」
『忍冬』の店長は、菫の気も知らずにからからと笑って言った。
「藤子ちゃん、他人と話すのが苦手だからねえ。こうやって普通に話せる人ができてよかった!」
そう、藤子は、自分と話す時は『普通』に話してくれる。しかしその普通は、学校では決して見られないものだ。自分にだけ見せる『普通の藤子』の姿。それを意識すればするほど、菫の意識は乱されていく。
勉強に対する集中力は、辛うじて維持できている。けれど絵に対しては駄目だった。絵筆が握れなくなったのではない。描かない、ということを抑えられなくなっていくのだ。夏の終わりに入り、夏休みの課題をあらかた片付けてしまった菫はついに、引き出しにしまっていたあのカンバスを引っ張り出していた。
鉛筆で下書きだけが描かれたカンバス。自分の絵だというのに、見ているだけで心臓が痛くなるほど鼓動が早くなる。抑えきれない、抗えない何かに手を引かれ、菫は再び絵筆を握った。
描き始めてからは寝食を忘れた。夕食ができたと母の呼ぶ声で我に返り、再び絵筆を握って、夜明けの光が部屋に薄く差し込むまで、眠っていないことにすら気づけない。流石に母親や忍冬の店長は異変に気づいたが、絵を描いていて眠れなかったと言えば、誰も菫が恋をしておかしくなったなどとは思わなかった。
夏休みが終わると同時に、絵は描き上がった。菫は完成した絵をじっくりと見ることができなかった。写実的に描かれた、五月雨藤子の絵。付け足しも描き損じも無い。だというのに、一目見ただけで、菫にはその絵が、藤子への執着で描かれていると分かってしまった。
だから、再び封印するように、引き出しの中にしまった。自分が見れば、己の感情を眼前に見てしまう。誰かに見られれば、自分が何を想っているのか、理解されてしまう。その絵が恐ろしかった。それでも、捨てることはできなかった。だからただ、引き出しの奥底に眠らせた。
その日の夜は、深く眠れた。寝覚めも良かった。だからこそ、学校の誰も、菫の異変には気づかない。
――そのはずだった。
けれど。
「――如月菫って、五月雨先生と付き合ってるらしいよ」
始業式が終わった後。移動中、廊下のどこかから、そんな声が聞こえてきた。菫は自分の心臓が止まったかと思った。声のした方を振り返る。だが、そんな話をしている生徒は、視線の先にはいないようだった。
(気のせい……気にしすぎてるだけ? ただの聞き間違い、きっと……)
高校で、誰と誰が付き合っているかという噂はよくある話だった。そんな噂話を聞き間違えたのだろう。菫は無理やりそう思い込み、自分の教室に入った。
すると、教室内の視線が、いっせいに自分を見た。
「……!」
菫は息を飲んで一瞬、足を止めた。しかしすぐに、何も気にしていないという風に表面上は振る舞いながら、教室の自分の席に着いた。別に自分だから見られたわけではない。教室に入ってきた人に、単に視線が向いているだけ。根も葉もない噂というのもよくある話で、そういった噂に茶化されて、嫌な思いをする生徒もよくいるものだった。
気にしていない、自分は関係ない。そんな態度を取るのが、一番なのだ。たとえ自分が視線を向けられ噂をされていたとしても、そういった態度を取るのが一番、変な目で見られずに済む。菫はこっそりと、深く息を吸い、吐き出すことを繰り返した。大人しくしていれば、自分の藤子への思いを悟られるはずが無い――。
だが、周囲の視線は、まるで質量を持っているかのように、重く粘ついて、菫にまとわりついた。
別に、誰かが何かを直接言ってくることはない。けれど、向けられる視線は確実に、興味と好奇心、そして期待に満ちていた。期待といってもそれは先生や母から向けられる、ある意味で潔癖さを感じさせるものではなかった。むしろ薄汚ささえ感じられる、濁った期待だ。
菫はクラスメートに、いや、学校の生徒全員に、いつも注目されていた。美少女、才媛、芸術家。彼女はある意味、芸能人と同じだった。その動きは、直接関係しない者に対しても感情の動きを与える。一喜一憂を生むのだ。
そんな菫が、誰かと付き合っている。しかも、現役教師と――それは刺激を求める高校生という年頃の少女たちにとって、恰好の餌になった。醜聞という名の餌だ。事実かどうかはどうでもいい。ただ、そういう風に見える火種さえあれば、噂は一気に燃え広がる。
学校一の秀才、如月菫は、担任教師の五月雨藤子と付き合っている。
一ヶ月もすれば、もはやそれは公然の事実だった。そこまで行けば、菫や藤子に直接その噂の真偽を尋ねる者も出た。菫はそれを否定した。しかし、いくら否定しようと噂は収まらなかった。当然のことだった。何故なら、皆が求めているのは真実ではなく、面白い話題だからだ。撒かれた噂の種は勝手に芽吹き、さらに種を振りまいては増殖していく。
――如月ってさー、先生と新川通りでデートしてたんだってよ。
――新川通りってラブホあるとこじゃん。ヤったってこと?
――どうせなら男になってからやればいいのにさ。
――男になったらデキるから、いまのうちにやっておくんじゃないの?
聞くに堪えない噂話が、よく聞こえてくる。あるいはそれは、菫に聞かせるために交わされる言葉だったのかもしれない。菫の反応を見て、からかいたいがための、下品な作り話。自分たちより常に上にいる、菫を妬む者も多かった。いままではからかうにしても、教師陣の信頼も厚い菫に手出しできないだけだった。だが、いまはそういうことで牽制できないほど、噂に勢いがあった。
そこまで勢いよく広まってしまえば、その噂は、教師の耳にも届くことになる。
――ある秋の日。菫は、放課後の職員室に呼び出された。
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