第50話 蜜月の始まり①
朝の優しい光が寝台に降りそそぐ。ふたりで寝転がっても十分な広さのベッドで、銀糸の髪の乙女は穏やかな眠りについていた。
何故かその足元に大きな体を丸めて眠っている男は、このエルフの国の次期女王シェリルの夫であるレオだ。
身の危険を感じるほどの殺気に、男がパチリと目を開く。
「レオ……リーナ……これはどういうことなの……?」
「えっ、あれ? ああぁぁああ——!!」
「ふわぁ……もう、朝っぱらから何よぉ……」
全裸でひとつのベッドに横たわっている男女と、ベッドサイドに立つ絶対零度の怒りを放つ男の妻。
しかもベッドの中の女は妻の妹だ。
結婚直後の蜜月の始まりに起きていい出来事ではなかった。いや、いつ起きたとしても男の未来はないのだが。
男の妻——シェリルの瞳が紅く妖しく光る。
妹のリーナは一瞬で
「無詠唱っ!? シェリル! 落ち着いて!! 誤解だから!! うおっ! ちょ、本当……くっ!」
慌てて止めようとしたレオにも
「お……姉様……、ご……誤解……っ!」
「レオは黙ってて。貴方は
(ヤバいっ!! シェリルが本気だ!! クソッ、仕方ない、背に腹は変えられない……!!)
レオはかろうじて動く左手で、ベッドサイドにあった青い小瓶をつかみとった。そのまま勢いよく瓶に入っていた液体を飲み干して行く。
(——折角元に戻ったのに)
液体の効果があらわれはじめ、レオは身体の変化を感じ取っていた。視界が低くなり、手足は黒く短くなってゆく。
全身は黒い毛並みにおおわれて、手のひらは柔らかい肉球がもりあがった。最後に長くしなやかな尾が揺れる。
全ての変化が終わってレオが声を上げれば、シェリルの瞳はいつもの翡翠色に戻っていた。
「ニャ、ニャニャニャー」
(なぁ、誤解だってわかってくれた?)
「ええっ! この猫……レオだったの!?」
「ニャウ、ニャォウ……」
(そうだよ。はあ、今夜もお預け……)
レオは義妹リーナの作った変身薬によって黒猫の姿になっていた。
シェリルの瞳が元に戻ったことにより、リーナを拘束していた
「かはっ!! だから、誤解だって言ったのに! 気持ちはわかるけど落ち着いてよ!! レオ義兄様がシェリル姉様以外に目を向けるわけないでしょう!?」
「だって……目にしちゃったらもうダメだったのよ……ごめんなさい」
「もう、本当に勘弁してよ。間違ってもシェリル姉様の旦那にだけは手を出さないわ」
「それじゃぁ、どうしてこうなったか、説明してくれる?」
穏やかに微笑むシェリルはとても美しかった。それと同時にとてもとても恐ろしかった。
黒猫になったレオはいともたやすく抱き上げられる。背中をなでる手はブルブルと震える黒猫の身体を落ち着かせているようだ。
黒猫は諦めたように、そのままシェリルの柔らかい胸に身体を預ける。
「あっ! レオ義兄様ズルい! 私に丸投げする気でしょ!?」
「ニャー、ニャウニャー」
(だって俺もう言葉通じないし)
「レオは猫だから話せないでしょう? リーナ、貴方がお話しなさい」
さすが未来の女王だけある、覇気がハンパない。
「……わ、わかったわよ……怒らないでね?」
「約束はできないわね。いいから続けて」
シェリルがベッドに腰掛けると、リーナはおずおずと話し始めた。
***
俺はシェリルとの初夜を過ごして、浮かれまくっていた。脳裏には昨夜の愛らしい天使のような妻の姿がエンドレスで蘇る。
わかってる。控えめに言ってもだらしなく緩んでいたのは、わかってる。いつもなら怠らない警戒も緩んでしまっていたんだ。
シェリルを朝から貪りうっかり意識が飛ぶまで抱いてしまったので、妻が起きた時のために新鮮な果物を用意しようと思った。そこで城で管理している果樹園に向かうつもりところだった。
いつもなら精霊王に頼むか、侍女たちに頼むのに自分で用意しようと思ったのが間違いだった。
「レオ義兄様!」
「リーナか、どうした?」
リーナはシェリルの妹で、エルフの秘薬製造の要になる人物だ。いままでエルフの秘薬が円滑に各国に流通していたのは、リーナの力によるところが大きい。
そのリーナは研究熱心で、いつもさまざまな新薬を開発している。いま取り組んでいるのは、変身薬のはずだった。
果樹園の手前にある薬草園から声をかけられ、俺は足を止めた。
「ちょうどよかったわ! ちょっと試してほしい薬があるの! お願いできない?」
「どんな効果があるんだ?」
「実は獣人族のもふもふの耳と尻尾が羨ましくて、そういう姿になる変身薬なの。自分で試したら上手く行ったんだけど、まだデータが足りないの。だから協力してもらえない?」
俺は想像してしまった。
狼のような耳と尻尾がついた俺に、シェリルがキラキラした瞳で抱きついてくるのを。それからうっとりした顔で、耳や尻尾を堪能してそのままベッドになだれ込むのを。
新婚で蜜月の俺たちにピッタリじゃないか? いや、シェリルが薬を飲んでもそれはそれで美味しいな。
「いいよ、協力する。その代わり、上手くできたらいくつか融通してくれるか?」
「もちろん! じゃぁ、これ飲んでみて!」
これがことの発端だった。
***
「……んん……レオ?」
いつの間にか朝になっていた。
ようやく愛しいレオと結ばれて、たくさん愛されて夢のような一夜を過ごした。今朝も目が覚めたと思ったら、またレオに甘く蕩けるような視線を向けられて——
途中で記憶が途切れてるわ……まさか、気絶してしむったの!? どうしましょう、レオに、レオに嫌われてないかしら!?
はしたなく乱れてしまって、淫乱だと思われてないかしら!?
「レオが……いないわ」
ぽっかりと空いた隣のシーツはひんやりと冷たい。ずいぶん前にベッドから出て行ったようだ。
やっぱりレオは私に愛想を尽かして、どこかに行ってしまったのかもしれない。
「どうしましょう……まさか、初夜で嫌われるなんて思わなかったわ……」
泣きそうになりながら、軽く身支度を整える。
朝方まで愛を囁いてくれた、何もよりも大切な人。
どうやったら繋ぎ止められるのかしら?
少なくとも昨夜はあれだけ愛しあったのだから、もしかしたら子ができているかもしれないわ。子ができていれば、私の元にとどまってくれるかしら?
絶対に逃がさないわ。どんな手を使っても、レオを手放さない。
「まずは……レオの居場所を突き止めないと……」
軽く身支度を整えて、そっと扉を開いた。
すると足元を何かがスルリとなでていく。チラリと視界に入ってきたのは、四本足でしなやかに歩く黒猫だった。
「……初めて見るわね。どこから来たの?」
「ニャー! ニャー! ニャウニャー!!」
「なぁに? ご主人様を探して欲しいの?」
「ニャウ! ニャウニャウ!」
何だかこの黒猫……レオに似てるわね。ツヤツヤの黒い毛並みに、アメジストみたいな綺麗な紫の瞳だわ。
そっと抱き上げてみると、大人しく腕の中に収まっている。どうやら懐いてくれてるみたいで、抱き上げたまま黒猫の飼い主を探し歩いた。
けれど、どれだけ探しても飼い主は見つからず、結局私室に戻ってきてしまった。ソファーに腰掛けて、膝の上で黒猫は丸まっている。
「おかしいわね……本当にどこから来たのかしら? それに、レオもいないわ……やっぱり、私が淫らすぎたから嫌われてしまったのかしら……」
すると黒猫がペロリと頬を舐めてくる。ペロリペロリと頬や首元をザラザラした舌がくすぐって、笑いが込み上げてくる。
「ふふっ、あはっ、大丈夫よ。もう落ち込んでないわ。何があっても私がレオを手放せないの。万が一逃げられても、必ず連れ戻すわ」
ビクリと身体を震わせた黒猫は、そっと膝から降りて外へと出て行った。
「ちゃんとご主人様のところに戻れるといいけれど。……それじゃぁ、私はレオを探すとしようかしら?」
そうしてあの時みたいに、床に這いつくばり魔力を流していく。
「絶対に逃がさないわ」
私の決意と同時に、淡いグリーンの光が室内にあふれた。
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12月1日の12時過ぎに続きを投稿します。
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