春。それは、始まりのキセツ

 重ねられた手の温もり。耳をくすぐる鈴の音のような声。

 漢服ハンフーたもとを躍らせて、悠然ヨウランはくるくると楽し気に回る。

 その彼女に向かって手を伸ばす。どうしても伝えたいことがあるのだ、と。

 しかし、彼女は気付かない。どんどん私から離れゆく。

 待って。聞いて欲しいんだ。

 声を張り上げて言うが、彼女は「ふふふ」と笑って暗闇へ舞っていく。

 どうして……悠然。


 と両手で顔を覆ったところで、朱心悦シュウ シンユエは目を覚ました。

 昨晩見つけた貴州グイジョウ省の安宿の床は固い。こわばった首肩を回しながら、心悦シンユエは体を起こす。


「懲りもせずに毎年同じ夢とは、ね」


 呆れ交じりのため息をついた。


 身支度を整え、七弦琴しちげんきんを背負って宿を後にした。日の出直後の尖った冷気が身を突き刺す。心悦は早足で農道を進み、身体が温まるのを待った。


 悠然ヨウランの村まで約二十 公里キロメートル。そこを一日で往復する。本当は村でゆっくりしたいけれど、演奏会の都合がつかなくて、ここ一、二年は日帰りだった。

 村に行くのは今年で五回目。来年で三十歳になるし、年々きつくなりそうで心配だ。

 心悦は小さく息を吐き、気合を入れて山道に入っていった。



 悠然ヨウランとの出会いは六年前。きんの師匠から「旅で感性を磨け」と言われ、地図を開かずに気の向くままに歩いて、大陸各地を巡っている時だった。

 険しい山道を抜けると、お椀をひっくり返して作ったような山々に囲まれた集落にたどり着いた。村の穏やかな雰囲気が気に入った心悦シンユエは、屋外で山を眺めながら七弦琴しちげんきんを弾いていると、


「いい音色ね」と澄み切った声が届いた。


「いいや、あなたの声の方が――」


 と言いながら心悦が顔を上げると。

 満開の桜の木と、陶器のような肌の女性が目に入った。


――まるで、桜の精


 彼女の美しさに言葉を失った心悦は、ただただ女性を見つめた。


「あたしは李悠然リ ヨウラン。あなたは?」

「……朱心悦シュウ シンユエ、だ」

「素敵な名前。よろしくね」


 それから数週間、心悦は悠然と共に過ごした。定められていたかのように、どちらからともなく近づき、重なり合うようにして床に入った。

 そうして心悦の七弦琴の音色に感情が乗るようになった。きっと悠然のお陰だろう。心悦は愛おしい視線を悠然に向けた。


「ねえ、あたしのこと、どう思ってる?」

「それは……難しい質問だね」


「そんなことないでしょ? 私は――」

「い、今は! それ以上、言わないで……。離れ難くなる」


「じゃあ来年! またこの季節に、この木の下に来て」

「分かった。その時に、また」


 悠然は満足そうに微笑んだ。そして、桜舞い散る中、嬉しそうに回って見せた。その舞に合わせて、心悦はきんを奏でる。

 来年までに身辺を整えて戻って来よう。そう心悦は誓って村を後にしたのだった。



 あれこれと過去に想いを馳せながら山道を進み、昼前に集落に到着した。

 村で一番古い桜の木の下に向かう。そこには椅子と机が置かれていた。机の上には、ほんのり湯気が立つ茶と、数個の饅頭まんじゅう。今年も村の人が準備してくれたようだ。この近くに誰もいないのは心悦シンユエへの配慮だろう。


 優しい村民へ感謝をし、茶を飲んで一息つく。と、いつの間にか、隣に悠然ヨウランが腰かけていた。


「約束通り、今年も来たよ」


 悠然は嬉しそうに微笑んだ。


 饅頭を一口かじり、心悦は七弦琴を取り出した。得意な曲も練習中の曲も、悠然の心に届くようにと願って弦を弾く。悠然は音色に身を任せるようにして舞う。二人の視線が重なり、自然と笑みがこぼれた。


 日が頂点を過ぎ、別れの時が来た。心悦は出立の準備をし、優しい瞳で悠然を見つめる。


「あの時、素直になれていれば……」


 ずっと言えずにくすぶり続ける想いが、胸を焦がす。もしかしたらこれは、悠然からの置き土産なのかもしれない。


「会えて嬉しかったよ、悠然。また来年」


 行ってきます、と心悦は手を伸ばし、黒光りする墓石に触れた。ざらついていて冷たい。悠然と真逆だな、と毎回思う。


 永遠に伝えられない想いを胸に抱え、心悦は軽やかに歩き出す。

 それは風に乗り、どこまでも舞って飛んで行く、桜の花びらのようだった。

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