花咲く丘のアトリエで

 傾斜がきつくなり息が上がる。春の日差しを受け、うっすら汗をかいてきた。

 ミリアムは背負う荷物の位置を整え、一歩ずつ踏み出してゆく。

 左右の木々がまばらになり、視界が開けた。

 

 丘の上にぽつんと建つ、三角屋根のログハウス。

 

 十年振りに戻ってきた。

 小屋に変わりはないけれど、庭は花に溢れていた。誰かが住み着き、育てているのかもしれない。

 警戒しながら玄関を開けると、部屋の中はホコリにまみれていて、誰かが生活している形跡はなかった。ミリアムは胸をなでおろし、窓を開けて、光と空気を部屋に招いた。

 部屋の中を見回すと、あの時の記憶が鮮明に蘇る。

 

 柔らかな視線、そよ風のような澄んだ声、少し温かい手。モデルとして一糸まとわぬ姿でソファに横たわり、なまめかしくも挑戦的に向けられた瞳。


 一目惚れだった。

 ミリアムは次第に熱を上げたが、公爵家こうしゃくけ令嬢れいじょうには、ひと夏の遊びだったのだろう。別れの言葉もなしに、この地を去ったのだから。

 数ヶ月待っても彼女から音沙汰おとさたはなかった。二人の甘い思い出に溢れた家にいることが辛くなり、ミリアムは放浪ほうろうの旅に出た。その道中、風の噂で、彼女は有名な貴族に嫁いだと聞いた。

 時が経っても、彼女が嫁いでも、今もまだ彼女に囚われている自分に対して苦笑した。



 部屋の奥に立てかけてあるキャンバスの中から、女性が描かれた絵を手に取る。そこに盛られた絵具は荒々しく情熱的で、ミリアムの心情を表現しているかのようだった。

 これだけは売らないと決めていたが、そんなことを言っている余裕はない。もう貯金が底をついた。彼女が去ってから筆を折り、何もせずにいるのだから当然のことだった。


 突然、玄関のドアがガタガタ揺れ、開けた窓からは強い風が流れ込んで来た。ミリアムは咄嗟とっさに絵を抱きかかえる。


 コン、コン、コン。


 玄関のドアがノックされ、ドアを開けた。

 ドアの向こうにはヘルメットとゴーグルを手に、モスグリーンの飛行スーツに身を包んだ女性が立っていた。


「あたしはドロミティ郵便のクレアと申します。あっちは相棒のアリーチェです」


 クレアの指す方を見ると、ドロミティオオワシが座っていた。人間と郵便物を乗せるだけあって、とても大きい。さっきの風はこの鳥が巻き起こしたのだろう。

 背中には卵を縦に半分にしたような形の透明な物体が付いていた。その中には席があり、コックピットのようだ。


「ミリアムさんにお届け物です」


 飾り気のない白い封筒を差し出した。差出人の名前はない。


「今日、お誕生日なんですよね? おめでとうございます!」

「あ、ありがとう」


 そういえば今日はミリアムの三十回目の誕生日だった。久しく祝っていないので忘れていた。

 ミリアムは手紙を開ける。



 親愛なるミリアムへ

 心をこめて、これをあなたに送ります。

 追伸 今年で十回目。あなたのお庭、キレイになったかしら?

 あなたのソフィアより



 封筒の中に、炒ったゴマのような種がたくさん入った袋があった。ローズマリーと書いてある。


 ――ソフィアは私のこと、忘れてなかった


 ミリアムは絵と共に、手紙を胸に抱いた。


「ちゃんと渡せてよかった! もし不在だったら、手紙を破って庭に捨てろと言われていたんですよ」


 クレアの言葉を聞いて、ミリアムはハッとした。

 小屋周りに花が咲いているのは、毎年ソフィアが手紙をくれていたからだ。ミリアムが不在で手紙が庭に破り捨てられ、種がまかれ、花に囲まれた小屋になったのだ。


「それでは、またいつか。愛の丘に住む、ミリアムさん」

「愛の丘?」

「そうですよ。この丘に咲く花、どれも花言葉は愛。ちなみにローズマリーは『変わらぬ愛』。愛に囲まれた家、素敵ですね」


 そうクレアは笑顔で言い、アリーチェに乗って飛び立っていった。


 ミリアムは花畑に目を向ける。


 ――ソフィア


 胸が熱くなり、込み上げてくる涙で視界がにじむ。

 ソフィアが創り出した愛の丘が、ミリアムの胸に、そっと愛の火を灯した。

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