月明り、桔梗の君と

 振動が頭に響く。乗り心地は最悪だ。

 ガタゴトと揺れる牛車ぎっしゃに乗り、西園寺さいおんじ乙姫おとひめ可多子かたこは大きくため息をついた。


 裳着もぎを終えて成人した途端、重くて動きにくい衣を身に付け、化粧を施し、宮中の行事に参加するようになった。また、結婚ができるようになったので、可多子のお世話係りの伊予いよは生き生きしている。


「これ、姫様。もっとすだれの近くに!」


 伊予は可多子の衣の裾を、簾下から外に出した。

 今日の唐衣裳からぎぬもは秋の配色で、紅葉した葉を表すような深い紅から黄、緑色を重ねている。可多子のお気に入りの色合いだ。


「簾から出た衣で誰かを射止めるなど」

「何を仰います! この瞬間にも素敵なお方が、姫様に恋心を燃やしておりましょう」

 可多子は胸を張る伊予を一瞥し、酔わないように視線を遠くに投げだ。



 青空は天高く、吹き抜ける風は冷たさを増してきた。

 可多子かたこは自室から庭に目を向けた。秋の訪れを告げる花が庭を埋める。

「姫様! 大変にございます!」

「騒々しいですよ、伊予いよ。歌を詠もうとしていたところですのに」


 小走りで近づいてきた伊予は、数歩下がって頭を下げた。


「それで?」

「こちらをご覧くださいませ」と、伊予は三通の文を差し出した。


「今まで何人もの文を受けましたが、この方は格段に風流! ですが……名はなく、姫様に忍び会いたい、と」


 情熱と知性、遊び心が感じられる和歌に、可多子は心惹かれた。三通目の文には「あなたの衣の色に合わせた直衣のうしで参りましょう」と書かれている。


「この手紙に返事は?」

「まだにございます」


「では『楓紅葉に合う色かどうか、見てあげましょう』と返事を」

「か、かしこまりました!」

 伊予はまた慌ただしく走って、屋敷の奥に消えていった。



 満月の明かりが部屋に差し込む。

 可多子かたこはじっと座りながらも、内心は落ち着かなかった。

 人目を忍んで会いに来る方を、伊予いよが裏門からこっそり連れてくる手筈だった。その方は和歌だけでなく、見た目も素敵なのだろうか。

 あれこれ考えているうちに、柔らかな火の明るさが近づいてきた。

 伊予に連れられた方の直衣のうしが、月の光を受けて艶めく。青みがかった桔梗ききょうのような紫色が美しい。可多子はその立ち姿に目を奪われた。


「我の衣は、いかがか」


 小声でも芯を感じる中低音が耳に心地よい。


「悪くない、です」


 可多子の返答を聞いた伊予は、何も言わずにその場を去った。


「桔梗様、とお呼びしても?」


 桔梗様は不敵な笑みを浮かべて頷いた。薄暗い中でも涼やかな目元が印象的だ。

 可多子は桔梗様に身を任せ、ゆっくり紐解かれていった。



 明くる日の朝に和歌をもらって以降、桔梗様ききょうさまからの文はなかった。

 桔梗様の立ち振る舞い、心の奥まで覗かれそうな知性的な瞳。可多子かたこは何度もあの晩を思い出しては胸を焦がした。

 ぼんやりと宮中を歩いている可多子に、伊予いよが小声で指示を出した。


「姫様、中宮様ちゅうぐうさまです。ご挨拶を」


 足元から視線を上げた可多子は、中宮を見てハッと息を呑んだ。

 あの涼やかな目元。唐衣からぎぬの美しい色彩感覚。


「……桔梗様」


「これは西園寺さいおんじ乙姫様おとひめさま。不思議な名で、私を呼ぶのですね」

「も、申し訳ございません」


 可多子は中宮に頭を下げた。すると、中宮が近寄り、可多子の耳元で囁く。


「あの晩は何度もそう、呼んでくれたわね」


 可多子の胸はどきりと跳ねた。淫らな記憶が蘇り、身体が熱くなっていく。

 あの晩、中宮は男装をしていた。それに風情のあるお方。こんな場で、あからさまに好意を表現しては嫌われてしまう。でも、どうにかして一緒に過ごす時間が欲しい。

 そんな可多子の内心を見透かしたように、中宮はニヤリと笑った。


「よろしければ、私の牛車ぎっしゃで送りましょう」


 ほころびそうになる顔に力をこめて可多子は答えた。


「……乗り心地は、いかがですか?」

「それはもう。降りたくないと言わせて差し上げます」


「そんなに、ですか」

「すぐ、夢中になりましょう」


 中宮の瞳は熱を帯びて怪しく光った。

 可多子は下腹部から沸き上がる熱にぞくりと身を震わせて、すまし顔で中宮の後を追った。

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