第32話 繋いだ手と想い

 地場霊から魍魎に堕ちようとしている南耕平に向かって、私は駆け足で迫る。一歩身体を前に進める度に、私の背筋には氷の様な冷たい汗が滴り流れる。


 黒く底の無いようなその瘴気は、人間が内に抱える恐怖心を余す所無く掻き立てる。竦みそうな両足を私は必死に動かす。


 そしてついに南耕平の目の前に到達した私は、小夜子さんの父親に向かって願いを込めて叫ぶ。


「南耕平さん!思い出して!自分の名を!この界隈町を!そして愛娘である小夜子さんの事を!!」


「······いい加減にしてくれないか?僕は何も思い出したく無いんだ。記憶には苦しみと悲しみがまとわりついてくる。僕は嫌なんだ。もう嫌なんだよ!」


 南耕平の背後から巨大な瘴気が噴き出す。その悪意に満ちた黒い霧は唸りを上げて私を取り囲もうとした。


 全身が虚脱する様な恐怖を感じた時、私は右手に誰かの体温を感じた。顔を傾けると、そこには、私の手を握る不方さんの姿が在った。


「······ふ、不方さん。どうして?」


「······金梨さん。今がどんな状況か俺には正直分からない。でも。金梨さんが自分の危険を顧みず何かをしようとしている事は分かるよ」


 ······どうして?どうしてそんなあやふやな理由で不方さんは危険な場所に来たの?


「言ったろ。俺は長い間金梨さんを見てきた。金梨さんがする事ぐらいは分かるよ。きっと、今も誰かの為に行動しているだろう? その、俺には何も出来ないけど」


 不方さんは自信無さげに俯く。私は不方さんの言葉に泣きそうになる。


 私と不方さんが会話を交わしている間にも瘴気は周囲を包囲し、私達を一気に飲み込もうとしていた。


「······不方さん。お願いがあります。手を。この手をずっと握ってて貰えますか?」


 私は不方さんを見つめながら震える声で願いを口にする。


「······うん。握ってるよ。何時までも」


 不方さんはそう言うと、力を込めて私の手を握る。私は勇気を奮い立たせ、南耕平に向き合う。


 ······どうしたら。どう言えば南耕平の心に言葉が響くのか。その時、私の頭の中に呪いにかけられた不可さんの姿が浮かんだ。


 あの呪いは南耕平の願望。思い。そして希望が投影されていた。なら。それなら!私はお腹に力を入れて叫ぶ。


「パパ! 聞いてパパ!!」


 私のその叫び声に、南耕平は顔を上げて反応した。


「パパ! 赤ちゃんだった私を世話してくれてありがとう! ミルクを飲ませてくれて。おしめを替えてくれて。お風呂にいれてくれて!!」


 私の突然のその声に、南耕平が眼鏡の中の両目を見開く。


「小学校の時、もう一緒にお風呂に入らないと言ってごめんね。中学の時、ずっと口も聞かない時期が長くてあってごめんね」


 ······私は当初、呪いにかけられた不方さんとの日々を南耕平に話すつもりだった。実際に南耕平と小夜子さんの間にも子育ての期間があった筈だ。


 それを思い出して貰えばと一縷の望みを託したが、私はいつの間にか自身の過去の記憶を口にしていた。


「高校生の時、家が貧乏な事で大喧嘩して酷い事言ってごめんね。何時もお母さんと仲良くして、お父さんをのけ者みたいにしてごめんね」


 ······私の頭の中は、家族との思い出で一杯になっていた。その思い出は、一語一語言葉に出す度に鮮やかに色彩を帯びて行った。


「大学の入学金。親戚に頭を下げて借りてくれてありがとう。貯めた自分の小遣いで修学旅行に行かせてくれてありがとう。高熱にうなされた時、背負って病院まで走ってくれてありがとう。何時も下手な冗談を言って笑わせようとしてくれてありがとう」


 ······何故だろう。私は両目から涙を流していた。お父さんの事を、こんな風に考えた事があっただろうか?


 幼い頃は自分が独占して当たり前だと思っていた父。年頃になると、理由も無くその存在自体に煩わしさを感じた父。


 家を出る時、見送りの最後まで私より不安そうな顔をしていた父。産声を上げた時から始まった私の人生を、その時から見守ってくれた父。


 ······南耕平は交通事故に遭い、一歳の小夜子さんを残してこの世を去った。どれ程の無念だっただろうか。どれ程の心残りだっただろうか。


 父と娘の繋がりは一旦絶たれた。なら、それなら。もう一度その繋がりを戻せばいい。もう一度父と娘の絆を取り戻せばいい。


「パパ! 私幸せだったよ! パパの娘としてこの世に生まれて! この界隈町に住んで。この「またたび商店」で働いて。私はとっても幸せに暮らせたの。好きな人も出来たの。何時も無愛想で素っ気ないけど。本当はとっても笑顔が素敵な人よ。パパと同じで眼鏡が似合う人よ」


「······娘。子供。界隈町······」


 南耕平に変化が生じたのはその時だった。私のその言葉に、初めて感情の揺れが見られた。


 私と不方さんを取り囲む瘴気が頭上から襲いかかろうとした時、私は不方さんの手を握りながら叫ぶ。


「パパ! 今度こそ家に帰って来て!!」


「うわあああっ!!」


 南耕平が頭を抱えながら絶叫する。私は目の前に迫る瘴気に両目を閉じてしまった。


 

 ······それは、夕凪の様な静けさだった。世界から全ての音が消えさったかの様に、静寂が全てを包み込んでいた。


 私と不方さんを闇に引きずり込む筈の瘴気は、いつの間にか霧散していた。


 ······微かに何かが聞こえた。それは、この無音の世界に自分の存在を主張するかのように。そしてそれは、弱々しくも生命力に溢れた声だった。


「······あんぎゃ。あんぎゃ」


 おくるみに包まれ、母親に抱かれる赤子が泣いていた。その泣き声を。その赤子を。南耕平は涙を流して見つめていた。




 

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