第16話 人生の終わり支度
社長の権蔵さんから穏やかでは無いラインメッセージを受けた私は、全力疾走で図書館から「またたび商店」の二階にある社長自宅に駆け付けた。
「いやあ。ふさよちゃん。ごめんよ。携帯の電池が途中で切れてね」
社長宅に入ると、権蔵さんが申し訳無さそうに白髪の頭を掻いていた。リビングのコタツには、小夜子さんと何故か不方さんも仲良く入っていた。
社長夫妻は部屋の荷物の整理をしていた。その時、戸棚の荷物が崩れ小夜子さんは足首を捻った。
権蔵さんは湿布薬を店から持ってこようとしたが、店の鍵が見当たらない。普段、お店のスペアの鍵は私と不方さんが交代で保管していた。
そこで権蔵さんは不方さんと私にラインメッセージを送った。お店のスペアの鍵を持っていたら来てくれないかと。
ところが、私に送ったメッセージは権蔵さんのスマホの電池が切れ、肝心要の鍵の部分の前で文書が途切れてしまったと言う。
幸いスペアの鍵を持っていた不方さんが直ぐに湿布薬を店から持って来て事なきを得た
。私は何時ぶりか記憶に無い全力疾走に大汗に息切れをしてとにかく安堵した。
「ごめんなさいね。ふさよちゃん。折角のお店の定休日に。もしかしてデートだった?」
小夜子さんが氷で温度を下げたお茶を差出してくれた。私は乾き切った喉を有り難く潤す。
「い、いえ。図書館にいました。デートする相手なんて居ませんから」
言った瞬間に私は猛烈に後悔する。不方さんのが目の前にいるのになんて余計な事を口にしてしまったのかと。
不方さんから視線を移すと、リビングの部屋に幾つものダンボール箱が置かれている事に気付く。
「色々と荷物の整理をしていてね」
権蔵さんは棚から本を取り出しながら何処か寂しそうにそう言った。来月この「またた
び商店」が閉店した後、社長夫妻は権蔵さんの出身地である長野に引っ越すと言う。
長野には「自己責任」と言う名の風変わりな老人ホームがあり、施設は入所者に最低限の手助けをするだけで、生活で出来る事は全て自分でやると言うスパルタ式の施設らしい
。
権蔵さんと小夜子さんはそこの施設の雰囲気が気に入り、終の棲家とする事を決めたらしい。
そこの施設に入所するに当たって、社長夫妻は手持ちの荷物を減らす為に整理していた
。
「そろそろ人生の終わり支度をして行かなきゃならんからね」
権蔵さんは自然に、かつさらにとそう言った。
······人生の終わり支度。二十六歳の私にはまだ想像も出来ない諦観の先だった。
あと一ヶ月半で「またたび商店」は閉店するのだ。もう諦めた事でも。理解している事でも。その事実は何度も私の胸を苦しくする
。
「これ、小夜子さんの写真ですか?」
権蔵さんが床に置いた不用品の中から、一枚の写真が出てきた。不方さんがそれをコタツのテーブルに置く。
その白黒写真には、可愛らしい乳児が映っていた。
「あらあら。まだこんな写真が残っていたのね」
小夜子さんがその写真を手に取りながら笑う。それは、小夜子の赤ちゃんの頃の写真だった。
聞けば小夜子さんは祖父母に育てられたと言う。母親は小夜子を生んで程なく亡くなり、父も小夜子さんが一歳の頃に亡くなったと言う。
私は驚いた。何時も微笑みを絶やさず穏やかな小夜子さんがそんな苦労をしていたなんて。
小夜子さんがその写真を不用品ダンボールに迷わず入れた事に私は更に驚く。
「いいのよ。あの世には何も持っていけないもの。思い出はちゃんと記憶と一緒に持って行くわ」
小夜子さんは笑いながらそう言った。私には、小夜子さんがこれ迄の人生で何一つ後悔をしていない様に見えた。
それ程小夜子さんは真っ直ぐで迷いが無い。私はそんな小夜子みたいな女性になれる自信が少しも無かった。
「心残りがあるとすれば、四月が予定日の娘の出産ね」
小夜子さんは片付けをしながら呟く。社長夫妻には三人の子供がいて皆独立している。孫も四人いた。
末っ子の娘さんがいま懐妊中で四月が出産予定日だった。四月前に社長夫妻は長野に移るので、それが社長夫妻のたった一つの心残りだった。
······時間は止まらない。一日ごとに私の大好きな社長夫妻とのお別れとお店の閉店が近付く。
夕刻になり、私は日々のお勤めである乳児プレイの為に不方さんの部屋にお邪魔する。
何度体験してもこの時間は緊張する。
······でも。でもでも。最近、私と不方さんの仲って良好じゃないかしら?前に地場霊に相対した際、恐怖と緊張の余りその場に座りこんでしまった私を不方さんは部屋まで運んでくれた。
そしてその後に、ご飯まで持って来てくれたのだ。そしてそして。何と言っても今朝だ
!
月曜日は界隈商店街の多くの店が定休日になっており、またたび商店も例外では無い。不方さんが参加している月曜日の早朝に行われている界隈商店街の掃除に私も加えさせて貰ったのだ。
お休みの日の早起きはちょっと辛かったけど、朝早くから不方さんと一緒に出かけるのは私にとって大きな出来事だったのだ。
さあ。その幸せを噛み締めて今夜の乳児プレイを乗り切るのよ!私は気合を入れて不方さんの部屋のリビングで仰向けに寝る。
そして口を弱冠開く。さあ!来なさい!哺乳瓶!粉ミルク!私が準備万端でパパ(不方さん)を見ると、そのパパ(不方さん)は顔をしかめていた。
「ふさちゃん。もう赤ちゃんじゃないんだから、ご飯は自分で食べようね」
不方さんはそう言うと、ちゃぶ台にお茶碗を置き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます