第20話
蝉の声が喚いている。
顔を上げれば、立派な門があった。呆けていたが自分の状況を思い出し、勢いよく振り向くが後ろには誰もいなかった。
この門は知っている。いつだってくぐる時、ここにふさわしい人物にならなくてはと、自分を戒めていたのだから。彼らの役に立たなくてはと。
状況がわからず混乱する。しかしだんだん落ち着いてきて、恐怖は過ぎ去ったのだと理解した。戻って来たのだ。今までに一度も成功したことはなかったが、どうやら自分を転送させたらしい。
ユウキのアパートではなく、神谷の家の方に。
しかし、これから一先ずどうすればいいのか分からない。急に帰って来たのだ。どうしようもなくて座り込んでいると、唐突に門が開いた。
だるそうに朝飛が出てくる。
研究室を逃げたときからそこまで時間が経っていないだろうから、まだ朝五時すぎだ。こんな時間に誰か出てくると思わず、話し出す準備をしていなかった。
薄く口を開けたまま朝飛の方を見る。
眠そうな朝飛は、日差しと暑さに顔をしかめながら悠己のいる方に顔を向けた。朝飛も誰かいるとは思っていなかったのだろう。悠己を見つけてぎょっと目を剥いた。
「え、なん……悠己! どうしたんだよそんなとこで」
その言葉には返事ができなかった。目の前にいるのは、いつも通りの朝飛だった。疑いようがない。帰ってきたのだ。
「帰って来るんならそう言えよなあ。準備とかすんのに。俺今日徹夜でゲームしたから眠いんだよ。知ってる? 新しくでたやつ。あ、そうだ。用事終わったの? こっちいつまでいられる? 鏡花呼んであそぼーぜ」
悠己の前に来て、しゃがみ込んで朝飛がしゃべりだす。本当に、自分の都合しか話さない。
しかしこの幼馴染の優しさは、もう痛いくらい理解している。
何も言わない悠己を不審に思ったのだろう。覗き込むようにされた。
「な、こんなとこに座らずに家、入ろうぜ。帰って来たんだろ」
「かえっていい」
「え、なんて?」
朝飛の言葉にようやく返事をする。掠れてしまってうまく声が出せない。
「俺も帰っていい?」
そう声を上げる悠己を見て、朝飛は気付かれないように笑った。怪我だらけで引き取った幼馴染は、その時にはもう泣かなかったのに。
「変なの、当たり前じゃん」
しがみついてみる。朝飛の腕に縋り付く。今度こそ朝飛は本気で驚いたようだ。当たり前だ。今まで、だれにもこんなことをしたことなかった。
「……家、入ろーよ。な。今日は兄ちゃん用事で出掛けてるけどさ。帰って来たって言ったら喜ぶよ。昼ごはんは食べる?」
ぽんぽんと、朝飛が悠己の背を叩きながら言う。小さな子にするような対応で少し腹が立つ。しかし、それよりも聞かれた内容に目を瞬いた。朝ごはんすらまだな時間ではないのか。
「……今何時」
「いま? えっと、十一時前だけど」
思わず目を見張った。あの施設では、どうやら時間をずらされていたらしい。道理で朝にしては蝉がうるさいと思った。
新たな事実と偽装に悠己が混乱していると、背後から声がかかった。
「……悠己?」
振り向くと、鏡花がいる。余所行きの格好だとわかった。
「帰ってたの? なんだ、今日買い物行かなくても良くなったね神谷くん」
「そうなんだよ。急にさあ」
訳が分からないが、二人が待ち合わせをしていたようだと予測する。どういうことかと鏡花を見れば、申し訳なさそうに笑われた。
「あのね、やっぱり何もしないの嫌だから。誕生日も何もできなかったでしょう? 神谷くんがまた夏休み中にあなたに仕送りするから、一緒に何か入れるかって声かけてくれたの。どうせろくなもの食べてないんでしょう」
でも帰ったならそのまま渡せるねと眉を下げられる。
食べ物はもういいかなと、二人はもう別のことを話し始めていた。
まぶしくて目を細める。これはきっと夏の日差しのせいじゃない。
いつだって向けられていた静かな愛を、理解できていなかった。自分の手を引いてくれていた人間は、ずっとこんなにもたくさんいたのに。自分のことを否定しているつもりで、彼らの気持ちまで否定していたのは他ならない悠己だったと気づく。
あの日見た跡はすぐに消えてしまっていたけれど、一つだけ変えられないことが確かにあった。
跡は消える。しかし跡をつけている自分は消えない。これだけは揺るがせないことだ。
立ち上がって真っ直ぐに向き合えば、予定が狂ったねと午後の話をしている二人が不思議そうに悠己を見返した。
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