第17話

 八月三十日。朝九時。

 問診が終わり、今日は久しぶりに食堂で朝食をとった。朝食の時間がずれていたからか人は少なかった。

 モーニングのAセットを注文し、隅の席について食べる。クロワッサンとサラダにゆで卵。ブラックコーヒーを口にして、寝起きの頭がスッキリする。

 今日の訓練は、設備の調整のために午後に指定されていた。朝食後、少しレイたちの部屋に顔を出してから訓練に向かうという予定だった。

 彼らに対しては、「他人」という言葉がいい意味でしっくりくるようになっていた。拒絶ではなく、別人なのだ。当たり前だ。ユウキはユウキなのだから、レイはレイだしリクはリクだ。彼らはユウキと他人である。そう考えたら付き合うのは楽になった。

 食べ終わり、席を立ってトレーを返却した。返却場所にいたスタッフが笑顔で受け取る。そのままレイたちのいるだろう部屋へ向かった。

 レイやリクに抱く気持ちは、そう、近所の子どもに向けるものだ。例えば同じマンションの子というか、そういう年下の子を見守っているという気持ちだった。

 レイは飽きずにユウキと遊びたがった。最初にあんなに邪険にしていたのにと思う。それでも、まとわりついてくるから、ユウキも結局ほだされた。

 通いなれた部屋につく。いつも通りのレイの部屋の前だ。しかし外から中を見て驚愕した。部屋を間違えたかと思い番号を見るが 、ここはどう見てもレイの部屋だ。急いでドアの前に行けば、音もなくスライドして開く。問題なく開いたことに一旦は安堵するが、部屋へはいると外から見たものと同様の光景が広がっていた。

 レイの部屋はたくさんのおもちゃが転がっていた。しかしその雑然としていた部屋には、きれいさっぱり何もなくなっていたのである。

 ショックで呆然とする。片づけられた部屋には人の気配はない。静寂が耳に痛いほどだ。レイはどこに、リクはと思えば、後ろから静かな声がかかった。

「どうかしましたか」

 勢いよく振り返る。そこにはいつもと変わらない表情のリクが立っていた。それに気づいた途端に気が緩み、ほっと息を吐く。

 散らかった部屋を片付けただけかと思いなおした。何らかの成長で、もうおもちゃなんかをレイがいらないと言ったのだろう。きっとリクと別の場所に行ったのだ。思えばいつもレイの部屋で会っていたから、リクの自室には行ったことがなかった。

「よかった。いや、なんでもないんだ。誰もいなかったから驚いたよ。おはよう、リク。レイはどうしたんだ?」

 するとリクはいつもと同じように答える。こんな時でも、リクの表情は動かない。まるで昨日食べた夕飯を教えるかのように、平然と告げる。

「レイは昨日が処分期限でした」

「……なに」

「期限内に目標を達成できなかったので、廃棄処分となったのです。……ああ、安心してください。処分措置が取られるのはあくまで複製のみです。素体であるあなたが破棄されることはありませんから」

 ユウキの顔色が変わったのを察してか、リクが付け加える。しかし、そんなことはどうでもいい。瑣末なことだ。そんなことよりも、今リクはなんと言った。

 ショブンもハイキも理解できない。

 静かに見つめ返してくる自分と同じ顔を見ていて、ようやく単語の意味を理解する。廃棄処分とは、すなわち、ゴミのように捨てられたということだ。

 ――廃棄処分、だって? レイが?

 あの子は一人の人間だ。ユウキともリクとも違う。例え始まりは作られたものだとしても、一個の人間で、一つの命なのだ。

 いつの間にかここまで近い存在になっていたことに気付かなかった。だが今はそんな自分の心情の変化に対する気づきには、なんの感情も抱かない。

 またしわがれた声がかかる。

「どうかしたのかい」

 リクはちらりと新田を見て、会釈をしてさがった。くるりと踵を返して立ち去っていく彼をユウキは追えない。新田はそんなリクには目も向けなかった。あくまでユウキに話しかけに来たようだ。

 言葉もなく立ち尽くすユウキに、新田はつらつらとしゃべりだす。楽しそうな声音だった。正直何一つ頭に入っていない。

 新田がしゃべり終わる前に自室へと足を向けた。新田の、ユウキの背を追うような最後の言葉だけは、やけに鮮明に聞き取れた。

 あれは、君のコピーでしかない。

 本来生まれることのなかったものだよ。

 それが生まれようが、消えようが、君の気にすることではないしどうでもいいじゃないか。

 あれは、他人なのだから。

 何時間たっただろうか。呆然と自室で座っていた。訓練の開始時間を知らせるコールが鳴っていたが応えることはできなかった。何度か鳴ったそれは、今は完全に沈黙している。

 先日の、クローンたちのことを知った時ほどの衝撃がない自分に戸惑う。

 あの時はただ苦しくて、何も考えられず、立ち上がることもできなかった。だが今はどうだ。鏡に映る顔は蒼白だし、足元もふらついて調子がいいとは言い難い。しかし思考はいつになくクリアだった。

 嫌悪感が湧き出てこない代わりに、焦燥感がこみ上げる。自分の感情が、まるで自分とリンクしていない。チグハグの感情に、ユウキ自身の心が引きちぎられそうだった。

 未だリクの言葉が受け入れられないのがわかる。やっぱり今あの部屋に戻れば、レイは駆け寄ってくるしリクもいつも通りにぼんやりしているのではないか。今日は、何をするんだったっけ。シリーズものの本を一緒に読むんだったか。それともユウキの能力を利用して、その場でランダムにものを隠して遊ぶ宝探しだったか。

 しかし、あのリクがユウキに嘘を吐くはずがないと確信していた。リクがそういったのだから、本当にレイは処分されたのだろう。

 唐突に、ようやく吐き気が押し寄せた。

 両手で顔を覆う。

 新田の言葉がユウキに追いついた。

 あれは贋作、偽物。生まれようが消えようが、どうでもいいことじゃないか。

 作り物なのだから、欠陥品は捨てられたってかまわない。そしてそれは、他人のユウキには全く関係ないことだ。

 それでも胸を打つ鼓動は、ユウキを責めるように鳴り止まない。身体中が一つのポンプになったみたいだった。涙は出ない代わりに、熱い息を苦し紛れに吐き出した。

 ――どうして、許せないのだろう。

 なにが許せないのだろうか。

 あれはまがい物なのだから別にどうなったっていいと、叫んでしまえたら、すべてが楽になるのに。

 何だ。何なんだと、ユウキ自身の思考から離れて勝手に疑問が湧き出てくる。きっと、その問いから弾き出される答えはユウキにとって怖いものだ。考えないようにする自分と、これまでにないくらいの速さで問いを証左し続ける自分がいる。

 頼むから教えてほしい。

 ――本物の生とは、いったいなんだ。

 顔を手で覆って、視界が暗いまま動けなかった。そのまま時が止まって仕舞えばいいのにと思うが、分裂していた自分たちが段々と合わさり、無情にも気持ちが落ち着いてきた。

 ふと指の隙間から視線を横へ滑らせれば、ずいぶん前に図書室から借りてきたままになっていた本が目に入った。

 そして思い出す。高校三年生の夏に、鏡花と二人で海に行ったことを。いつもの駅を二駅くらい通り過ぎて、近くの海を見に行ったのだ。授業が昼までの土曜日。あれは学校帰りだった。二人とも特にはしゃぎもせずに砂浜に座って、自販機で買ったジュースを飲みながら適当に話した。隣に座る彼女がマスカットのジュースを飲んでいたことが、やけに鮮明に思い出された。

 今年で最後だねと、記憶の中で鏡花は呟く。そうだねと返したら、彼女は飲み終わった缶を傍にあった屑籠に放り込んで歩き出した。ユウキもそれに続いた。会話もなく、広い砂浜を歩く。鏡花が突然海にいきたいと言い出したからいったのだ。遊泳禁止の海だったし、昼過ぎの変な時間帯に行ったからか、ユウキたち以外の客はほとんどいなかった。

 ローファーで砂浜は歩きにくい。ぼうっと歩きながら、前を歩く彼女の靴の跡が、ぽつぽつと白い砂浜に刻まれていくのを見ていた。

 なにを思ったのか、鏡花は唐突にそのまま波打ち際に近づいていった。革靴なのになと思っていると、波がかかってしまう前にくるりと向きを変えてユウキの方に戻って来た。自分の方に向かってくる彼女が、あまり見たことのないいたずらっぽい顔をしていたことに、今更ながら気づいた。

 去年のことだ。全て、記憶に新しい。

 帰ろっかと言われて頷く。砂浜から上がる階段を登っている途中で海を振り向けば、風が強くなったのか先ほど鏡花のつけた足跡は既に波にさらわれて消えていた。よく見れば、自分のものももうなかった。

 急に手を差し出された。なんのための手か一瞬意味が分からず、数段上にいる鏡花を見返すと、むすっとした顔で強制的に手をつかまれた。そのまま、手をつないで駅の方まで二人で歩いた。

 いままでそんなことをしたことなかったから、手をつなぐという選択肢がユウキの中になかったのだ。

 斜め前、意地でも離さないというようにユウキの手を力強く握って歩く彼女は消えない。

 それでも足跡は消えた。痕跡はきっとなくなってしまう。

 しかし、手をつないだこの存在だけはきっと消えることはない。

 手が、いつもよりも熱い気がした。そこまで思い出すと、ユウキは勢いよく立ち上がって部屋を出た。走って別館まで行く。もう慣れた道順だ。その最中には誰にも会わなかった。勢いよく走ってきたが、どこに行けばいいのかはわからなかった。しかし走り出した以上止まることはできない。どうか近くにいてくれと念じながら向かった。

 レイの部屋の近くに来る。この棟自体が、ユウキが過ごしている能力開発セクションとは別の、複製を研究する施設なのだとすでに見当はついていた。おそらく、リクの部屋もこの辺りにあるはずだ。しかし正確にはどこかわからない。しらみつぶしに覗いていこうと思い、手始めにレイの部屋の隣を覗いてみた。

 誰もいない。

 荒い息を沈めながら、それじゃあ次の部屋をと足を進めれば、五つほど先の部屋からリクが出て来た。息が乱れているせいか、咄嗟に声をかけることはできなかった。しかし気配を感じたのか、リクがユウキの方に顔を向ける。

 汗だくで、呼吸の荒いユウキを見て少し驚いた顔をした。

「どうしたんですか。本日の訓練は終了したはずです。なにか」

「君なんだよ」

 荒い息のまま、大股でリクに近づき肩をつかむ。流石にユウキのこの行動は予想外だったのだろう。リクは吃驚しているが、無抵抗だ。状況が理解できていないせいもある。

「はい? あの、なにが」

「居たことは消せない。そうだよ。俺は俺なんだよ。それで、君は君なんだ」

 目を白黒させているリクにかまわず続ける。

 これがユウキの答えだ。

 どれだけの犠牲を払ってしまったのだろうか。例えユウキがここに来なければ生み出されることがなかったとはいえ、それならば死の苦痛だってなかったのに。

 己への無関心が、今頃になってあまりにおおきな代償を引き連れて押し寄せて来た。気づいたところでもう遅い。失われたものは戻ってはこないのだから。

 しかしそれならば、一人でも多くの人の手をつかまなくてはならない。それが今まで無意識で傷つけていたものたちへのせめてもの償いだ。

 この手だけは、離してはいけない。

 リクの肩をつかむ手に力を籠める。自分の肩よりも細い気がした。

「リク」

「は、はい」

「ここから逃げよう」

 本当に自分の声かと疑いたくなるほど、思いのほかしっかりとした声が出た。

 ここから逃げる。これしかきっと、リクがこれからも生きていく道はない。

「例え作られたものだったとしても、なかったことになんてならないんだよ。誰だって。だから」

 砂の上の跡は消える。しかし歩いた人は消えないのだ。その足取りは、否定されるべきではない。

 そう言って説得を試みるユウキの手に、そっとリクの右手が置かれた。やさしく諭すような動作に、言葉を切って彼を見る。

「……いいえ。なかったことに、僕たちはできるんですよ。もともとなかったものなんですから。あなたさえ、忘れてくれれば」

「そんなことができるわけないじゃないか!」

 思わず叫ぶユウキにリクは微笑んで首を振った。ユウキの必死さと、リクの冷静さが噛み合わない。焦りが込み上げてくる。

 早く、リクを説得して逃げなければ間に合わないのだ。

 しかしユウキのそんな考えなどとは正反対の行動をリクはとる。ゆっくりと、ユウキの手を彼の肩から外した。

 淡々とした動作だ。いつも通り、何を考えているのかわからない波の立たない静かな目。しかしユウキを見つめる彼の目は、いつになく真っ直ぐだと気づく。

「……いいですか。今日は普通に過ごして。明日、朝五時にゲートが開きます。僕がそうなるようにきちんと指示しておきます」

 ユウキは気づいた。リクが穏やかに笑っていることに。

 笑っていることが、すでに普段とは違うということに、ようやく気がついた。

「逃げてください。あなた一人で。振り向かず、足を止めず。いいですね。正直、僕たちにとっては神にも等しいオリジナルにこんなことを言うのは厚かましいんですが。最初で最後だと思ってください。お願いします」

 初めて見る、意思のある顔だった。リクはいつだって何を見るともなくぼんやりとしていたのだ。こんな顔は見たことがなかった。

 覚悟を決めた人間の顔だと思い至る。さすがにこの表情で話す人間の決意を覆すことは出しないと悟った。

 愕然とした。

 何をしようとしているかはわからないが、もう、彼にはユウキとともに来る気は毛頭ないのだ。

「逃げようと言ってくれて嬉しかったです。…………。ああ。はい、そうですね。僕は、嬉しかったのです」

 ぽんと、軽く体を押される。大した力ではなかったが、ユウキは無抵抗に半歩よろけて下がった。

「早く自室に帰ってください。もうそろそろ警備が巡回に来ます。 いいですね。誰にも知られないで下さいね。僕は多分、あなたには生きていてほしいんです」

 にこりと笑ってユウキから離れていった。呆然とするユウキなんて、リクは一度も振り返らなかった。

 しばらく動けず、その場に立ち尽くしていた。頭の中でリクの言葉が反芻される。

 生きていてほしいと言った。あの、いつも無表情で何を考えているのか分からなかったリクが、初めて自分の願望を口にしたのだ。

 その願望が、まさかユウキの生だとは、なんという宿命だったのだろうか。

 ふらりと自室に足を向ける。

 助けたかったのに。これからはともにいきたかったのに。

 初めてリクが笑うとこを見た気がする。きっともう会うことなんてないのに。最後の最後で口にされたあの頼み事を、聞かないわけにはいかない。

 自室に戻る途中で、開発部の職員に会った。夕食はどうするかと聞かれる。精一杯の笑顔といつも通りの表情を張り付けて、部屋でとると答えた。

 部屋についても、結局は何も手につかなかった。

 夕方になると頼んだ通りスタッフが軽く夕食を運んできた。礼を言って受け取る。しかし食べる気にはならない。食欲をそそるように湯気を立てているパスタを見つめて夜を過ごした。

 患者衣を脱ぎ、施設に来たときの服を来てベッドで体育座りの体勢で一晩明かす。眠ることなどできるはずもなかった。

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