第14話
ユウキは緩慢に目を開ける。 連日どんなにアラームを鳴らしてもベッドから起き上がらず、返事すらしないユウキのせいか、朝のアラームもその日の予定も告げられないように切り替わっていた。
それにもかかわらず、今日は呼び出し音がする。食事だろうか。毎日どんなに食べずとも必ず三食運ばれてきていた。
だるさに任せてドアへは向かわずにいると、カチャンとロックの外れる音がした。強制的に入って来たらしい。
顔を向けると、入って来たのは池内だった。手にはマグカップを持っている。
あいまいな笑顔でユウキに話しかけた。
「……泉さん、体調がすぐれないのは重々承知なんですが、少しいいですか」
「……はい」
さすがに悪いと思い鉛のように重い体を起こした。そんなユウキを、彼はよくわからない表情で見ている。
「今日はどうしてしても外せない課程がありまして……。別室へ来てもらえますか」
渡されたマグカップにはコーンスープが入っていた。口をつけるが、やはりあまり飲めない。即座に吐き出さないようになっただけまだ回復したと言えるだろうか。
頷いてカップをデスクに置く。まだ半分以上中身は残っていた。
ゆっくりと立ち上がって、ドアの方へ体を向けている池内についていく。
池内がユウキを連れて行ったのは、初めて入る建物だった。恐らく別館なのだろうと考える。廊下を渡ったところで、建物の趣がガラリと変わったという印象を受けた。ユウキがいる棟は、病院や学校のように建物が横に均等に割られている。それに対しこちらの建物は縦が基調だった。ロの字形というべきか。
ユウキのいる棟と同じように窓はないが、建物の真ん中が吹き抜けになっていて、最下層部分がよく見えた。なにか、沢山の大きな筒状のものが並んでいるのが見えた。その吹き抜けを中心に、各部屋や通路が構成されていた。
そして最大の違いは人だ。ここは多くの人が歩いていた。すれ違う度に笑顔で会釈される。ユウキのバイタルチェックを担当している池内や、すでに顔見知りの増えた食事を運んできてくれるスタッフ以外の人間と会うのは久しぶりだったために、反応がぎこちない自覚があった。
ゆっくり歩いてくれているであろう池内に、遅れないようについていく。数日間食事をまともにとっておらず、さらにここへ来てからほとんど部屋から出ていなかったために、この移動距離でも少し息が切れた。
一体どこに連れていかれているのか見当もつかない。
――まあ、ここにきてから予測が立ったことなんて一度もないんだけど。
そうしていると、大人の腰あたりの高さから壁がガラスになっている部屋が並ぶフロアに来た。のぞくと部屋の内部がよく見える。
幼稚園みたいだなと、漠然と思う。
ここはきっと、部屋の中で誰が何をしているか観察できる部屋だ。しかし、今のところどの部屋にも誰かいるような気配はなかった。どの部屋も電気すらついていない。
進んでいくと、池内がある部屋の前で止まる。まだ部屋の中はユウキには見えない。
彼は少しうつむきながら話した。
「この部屋は外から中は見えますが、中からは見えません。通路に誰が見ているかはわからないんです」
「はい」
池内が言いたいことがよくわからず、とりあえず肯定を返す。
「もうすぐ所長がいらっしゃいます。説明があると思いますので」
落ち着いてくださいねと言ってから池内は横によけた。彼が立っていた場所に立ち、中を除けということらしい。
この施設で、きっとユウキには選択肢はないのだ。もしここでユウキが部屋の中を見るのも、冷静でいることも拒否したらどうなるんだろうと思う。しかし、その意思を貫いて実行するような熱意はユウキにはない。
結局、池内が避けた場所に立つ。
部屋には二人の人物がいた。研究員と子供だ。ユウキには見覚えのない研究員だった。白衣が浮いてしまうほどの、かなり若い男性だとわかる。子供は十歳くらいだろうか。薄水色の患者衣を着ている。
水色の患者衣。背中を冷たい衝撃が走り抜けた。瞬間的に思い出すのは庭でユウキと視線を合わせた彼だ。あの、クローンが来ていたのも水色の患者衣ではなかったか。
子供がユウキたちのいるガラス窓から遠ざかる。そして、くるりとこちらを振り向いて顔が見えた途端に、すとんと納得した。
あれもそうだ。あれも、ユウキのクローンなのだと。
その光景からは目を離すことができなかった。
当たり前だが向こうはユウキに気付いていない。小さな子供は、むむむと難しい顔をしながら、両手を前に突き出している。
一緒にいるスタッフは、その子供を応援するように拳を握りながら熱い表情で声をかけていた。音は聞こえないが、大きな声を出しているとわかる口の動きだった。
ようやく部屋の中で行われていることを理解した。ユウキたちの立っているガラス窓の前には机があり、その上には青いゴムボールが載っていた。よく見ればそれは少しだけ浮いているように見える。影とボールが机から3センチほど離れていた。
あのボールはユウキもよく訓練で使用しているものだ。クローンの少年も恐らく能力開発訓練を受けている最中なのだろう。
懸命な顔だが、頼りなくよろよろと数センチ浮かんでいるだけだ。ほどなくして疲れたのか、彼は全身の力を抜いてその場に座り込んだ。
ぽんぽんと、力の掛からなくなったボールはデスクの上で弾み、そのまま床へ落ちる。
スタッフは子供に近づき体をさすっていた。励ましているのか、ほめているのかわからないが、どちらも笑顔だった。
そんな普通の子どもと指導員のような光景をユウキは見つめ続けた。池内は何も言ってこない。彼がユウキにこれを見せて、どのような反応を期待しているのか分からなかった。
倫理問題とか、人権問題とか、あらゆることを考えなくてはいけないと思う。しかしそういった思考には、意識外で拒否しているのかつるつると滑ってしまい深く潜れない。
だからだろう。どうでもいいことをひとつ疑問に思う。
ユウキは触れなければ物体を動かすことはできない。これは自分を起点にした能力だかららしい。今のところ起点は右手のみ。しかし訓練を始めて三日目に、一度だけ左手でも動かすことができた。
ユウキの能力は物体転送である。これは、ただ物体をある地点から別の地点へ転送するものだ。
しかしあの小さなクローンが見せたのは、ユウキとは全く別物の能力だ。
あの子は浮かせていた。いわゆる念力というような超能力だと予測する。
同じ遺伝子配列にもかかわらず、発現した能力に違いがあるのはどういうことなのだろうか。
そう考えていると、唐突に声がかかった。
聞き覚えのあるものだ。初日に一度だけだが。
「泉君。体調はどうですか。あまりよくないと聞きましたが」
なんとなく、白々しいなと思う。嫌悪感一歩手前の嫌な気持ちを感じる。
「はい、あまりよくないです」
新田はあの時と変わらない笑みでそうですかとつぶやいてユウキの隣に立った。
いつ近くに来たのだろうか。新田が近付いていたことに、全く気付かなかった。気配のなさにぞっとする。
ユウキの返答など意にも介さずににこにこと笑いながら、新田も部屋の中を見つめている。今度は彼らは、ボールではなく黄色い積み木に変えて訓練を開始したようだ。
「あの子はとてもいい能力を獲得したんですがね。見てのとおり子供で。あまり発育がよろしくない。それで提案なんですが、泉君。少し彼とお話ししてあげてくれませんか」
「……は?」
あまりに突飛な提案を受けて、思わず聞き返す。この老人はこの期に及んで何を言っているのだ。
勝手に人の複製を作り開発しているにもかかわらず、さらにそれと積極的に関わってくれなど。どの口がと、声にも出せずに絶句する。
「この研究所の環境では、知ってのとおり接触できる人が極めて限られています。あの子は情緒面の発達がどうも能力開発のネックになっていてね。……どうです。引き受けてくれますか」
冗談じゃないと喉元まで出かかった。しかし、新田の異様な雰囲気に圧倒されて何も言えなかった。狂気すらにじませる老人に、怖気づきながらも反論する。
「あの子は……。本当に俺の、クローン、なんですか」
「そうです。君が能力を発現させてから作りました。簡単な複製ですからいくらでも作れますよ。コストはそれほどかかりません。君しか条件を満たす人間はいなかったんですが、能力発現の条件や種類など、研究対象は君一人では全く足りない」
新田の態度に、悪びれないという言葉はおそらく不適切だ。これはもうただ対話にならないだけだ。前提や条件だけなら、二人の意見はどちらとも成立はするのだ。
ただ新田の認識する世界と、ユウキの知覚する世界は、あまりにかけ離れている。
何も言えないユウキに、新田は優しく声をかける。その柔らかい音があまりに不気味だった。
「心配しなくとも、この世に泉悠己は君一人です。あれはただの複製です。君ではない、他人だと思えばよろしい」
そうでしょうと促されても何も言えなかった。確かにユウキは一人だ。自分自身だけだと言える。……そのはずだ。
ぽんぽんと肩を叩かれる。励ますような動作だった。
沈黙を了承と受け取られたのだろう。新田は笑ったまま、つらつらと今後の予定を話し始めた。もうユウキの返答など聞いてはいない。
「今日のところは見てほしかっただけなんですが、どうします。もう会ってみますか。そろそろあの子の訓練も終了する時間です」
何に対するものかわからない嫌悪感が押し寄せる。新田に対するものか、クローンに対するものか。自分に対するものか。しかし同時に、罪悪感すら抱いてしまった。
歯を食いしばる。それを解き、浅く息を吐く。
新田に真っ直ぐに視線を向けた。多分、今までになく鋭い目つきだったろうとは思う。しかし枯れた研究者は何も反応しない。
「……わかりました」
後ろで池内が息をのむ音が聞こえた。ずっとユウキの後ろで話の行く末を見ていたのだろう。彼は、この状況をどう思っているのか。
新田はより顔のしわを深めた。その笑顔を醜いなと思ったのは、きっとユウキの心情の変化だ。
「……泉さん、それではどうぞ」
池内に促されて、今まで中を見ていた部屋のドアの前に立つ。池内が呼び出しのボタンを押すと、はーいと明るい声が聞こえた。あの子が返事をしたようだ。慌てて後ろで止めるような声がする。研究員が白衣を翻してドアに近づくのが見えた。
内側からドアを開けられる。もちろん開けたのはあの若いスタッフだ。彼はユウキを見て驚いた顔をした。そんな彼に池内が告げる。
「レイと話をしたいんです」
「了解です。僕は席を外しましょうか」
ちらりとユウキをみて、池内は小さく首を横に振った。
「いやいい。すぐ出ます」
池内がユウキが入るようにドアを押さえた。それを横目で見て、ユウキは部屋へ足を踏みいれる。どうでもいいが新田はいつの間にかいなくなっていた。
先ほどから通路で見ていた部屋だが、中へ入るとその奇妙さがひしひしと伝わって来た。レイと呼ばれたユウキのクローンは外見が十歳くらいの子どもだ。しかし、この部屋はどうだ。あまりに幼稚なのだ。クマのぬいぐるみ。タンバリンにカスタネット。おもちゃのピアノ。散らばっているのはカラフルな積木だ。訓練でも使っていた様々な大きさのボール。
ボールは分かるが他のものの用途はいまいちよくわからない。部屋へ入ると、レイはこちらをじっと見ていた。
その姿が幼い頃の自分の姿と重なり、ひどく居心地が悪い。
中庭であった彼は興味なさそうにユウキを見ていたが、レイは違った。にこにこと笑いながらユウキに近づいてきたのだ。
少し、たじろぐ。しかしレイの笑みは、研究員たちがユウキに向ける笑顔とはまた違うものだった。ただの子どもの笑顔なのだ。相手を懐柔しようとか、緊張をほぐそうとかそんなことは微塵も考えていない、興味があるから浮かべる笑顔だった。
「ねえねえ」
声を掛けられていよいよ逃げられなくなる。たとえ作り物だとしても、相手は子供だ。ここでつっけんどんな態度をとれば明らかにユウキが悪者なのだ。
しかし当然なことで、声をかけられてもその返事に窮してしまった。レイはユウキの返事など待たずに続ける。
「あなたがぼくのオリジナル?」
投げかけられた問いに、思わず目を見開いた。一瞬、言われた言葉が理解できない。意味を理解した後も、予想外の質問に用意していた返答はいずれも出なかった。
レイは、笑顔のままだ。ただの子どもの幼く朗らかな笑顔。
「ぼくね、これでもたくさん力を使えるようになったんだよ。いつかあなたみたいに大きな力になるかな」
「……っ、俺の能力だってそんなに大したものじゃないよ」
こんなことをまず話すべきではないんじゃないのか。この子とは、もっと別のことをきちんと話さなくてはいけないのではないのか。
しかし別の話題など見つけられない。ユウキのとっさの返答に、レイは不満を表すわけでもなく、無邪気に答える。
「そんなことないよ。オリジナルだからね」
それには答えることができなかった。また来ますと言う池内に従い部屋を出た。背後から、またねというレイの声が聞こえる。また行くのか。これには返事をしなかった。
自室に戻る途中で、池内に問う。これだけは聞いておかなくてはいけない。
通路の真ん中で立ち止まる。
窓のない、白いばかりの廊下にユウキの声が反響した。
「あの子は、自分が俺のクローンだと知っているんですか」
池内も立ち止まった。そのままゆっくりと振り向く。彼はきっと律儀な性格なのだろう。今までもずっとそうだった。
「……はい。知ったうえで、あの態度です」
答えて、また歩き始めた。
ユウキは立ち止まったままで目を閉じた。
今まで以上に、何もかもを拒絶してしまいたかった。
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