第12話

 ある朝目を覚ましたユウキは、起き上がることができずアラームの音を聞き続けていた。

 自分は引きこもり体質だと思っていた。しかしさすがにここまで長期間密室に一人で居続けたことはなく、軽いうつ状態になっているという自覚があった。

 外部とは連絡が取れないと、これだけは厳しく言われていた。友人の誰とも話せないのも気が滅入るが、それ以上に、窓という建造物における構造の機能を甘く見ていた。うつうつとした状態が続き、体がずっしりと重い。

 のろのろと体を起こせば、ようやくアラームが止まる。今日の予定も、いつも通り問診、朝食、訓練である。

 第一研究室へ行く。池内が挨拶をするが、ユウキの顔を見て少し顔を曇らせた。

「気分が晴れませんか」

 まっすぐにユウキを見ながら問う。正直、問いかけに返事をするのも億劫だった。

「……はい。結構。あの、少しでも外に出られませんか。誰かに会ったりしなくてもいいんです」

 そう言えば、池内は難しい顔で視線を落とした。その態度であまり期待はできないと悟る。数秒黙り込んだのち、池内はユウキに頷いて告げた。

「……一応許可が出せないか問い合わせてみます。これ以上は泉さんの精神衛生上よくありませんから。食事はどうされますか」

「ありがとうございます。あまり欲しくないんですが……」

「……軽食を部屋に運びます。今日のところは訓練も保留にしましょう。自室に戻ってかまいませんよ」

 そう言われて問診は終わる。気分の落ち込み以外に変わりはない。部屋に戻ってしばらくすると、軽食が運ばれてきた。何度か見たことのある女性スタッフだ。気づかわし気な表情で、ユウキに食事を渡して出ていく。

 テーブルにトレーを置いて椅子に座った。何もする気の起きないユウキを気遣ってか、部屋で淹れることのできるカフェオレもセットになっていた。

 せっかくわざわざ自室まで持ってきてもらったために、少しだけでもと思い食事に手を付ける。ハムサンドをかじって、スープで流し込む。しかしそれ以上は無理だった。まるでのどの奥に蓋でもあるかのように、食べ物を飲み込むことができない。一口かじったサンドイッチだって、口にしたものに対して咀嚼回数が異様に多かった。

 ほとんど食事に手を付けないままに、ベッドへと戻る。布団すらかけずに目を閉じた。眠いわけではない。ただひたすら体が重く、意識はすぐに深いところまで沈んでいった。

 呼び出しの音で目を覚ます。あの後しばらく眠っていたらしい。

 先ほど食事は受け取ったが、何の用だろうと思いつつゆっくりとドアへ向う。すると開けたドアの正面には、先ほど別れた池内が立っていた。

 彼と会うのはいつも朝の問診の時のみだ。どうかしたのかと不審に思っていると、彼は急くようにユウキに言った。

「泉さん、外出許可がでました!」

「え……」

「この後から二十分程度ですが、中庭へ出てもいいそうです。短い時間ですみませんが……」

 興奮した様子の池内に、ユウキの気分も次第に高揚してくる。ただの外出許可がこんなにもありがたいとは。たとえ数分だろうが、今の自分には十分に思えた。

「ありがとうございます」

 迷惑かけてすみませんと謝れば、池内はすまなそうに眉を下げた。

「……不自由にさせているのはこちらですので。急ですみません。今から出られますか?」

「だ、大丈夫だと思います」

 それでは行きましょうと言う池内についていく。

 初めて使う通路を通り、見知らぬロビーにやって来た。大きさや趣からここは裏口だろうと予測する。

 備え付けの外履きをユウキに渡しながら、池内は外出条件を付け足した。

「ここから出れば正面は施設の庭に出ます。そこでは自由にしてもらっていいです。けれど、くれぐれも敷地の外には出ないでくださいね。それだけはお願いします」

「はい。ありがとうございます」

 僕はここで待ってますからと、ドアの前で立ち止まった。ユウキのことを慮って、外では一人にしてくれるようだ。つくづくすまないなと思う。しかし池内のその配慮が、今はとてつもなくありがたかった。

 あらゆる場所が電子セキュリティによって管理されている建物の中で、このドアだけは鍵を鍵穴に差し込んで開けるという原始的なものだった。池内に鍵を開けてもらい、自分の手でドアを押す。

 ドアの隙間から光が漏れ出る。開かれた景色がまぶしく、思わず目を細めた。

 久しぶりの外は、呆れるほどに晴れやかだった。

 あらゆる場所に窓がないのだから当然ではあるが、ここに来てから初めて研究施設の外を見た。どうやらここはどこかの山の中らしい。敷地を示す白い高い壁の向こうには、それよりもさらに高い木が生い茂っているし、遠目に峰がいくつか見える。

 今しがた自分が出てきた四角く白い研究施設のことも気になったが、今はそれよりも空が見れたことの方が嬉しかった。

 夏らしい、どこまでも突き抜けた空。

 分厚く高いところまで登っている雲。

 喚く蝉の鳴き声。

 辛うじて舗装されている歩道をゆっくりと歩く。本当にここは庭らしく、円状に歩道があり、それに沿うように花壇があった。花壇の手入れはあまりされておらず、おそらくパンジーだったであろう枯れた草や、伸び切った蔦が放置されていた。色のついている花は、タンポポやよく道端で見かける名前のわからない薄紫色の花がちらほらと咲いている程度だ。触れれば指が切れそうなシュッとした葉の草は青々と生い茂っている。人の手などほとんど加えられていない庭をみて、ここに出てくる人間などいないのだろうと思った。

 草は貧相だが、その代わり木は大きく育っていた。元々この山に自生していたものか新しく植えたのかは分からないが、立派なものが何本も生えている。

 円を半分に割ったくらいの位置で、歩道が左右に分かれていた。別れ道で立ち止まる。

 ふらふらと、なんとなく右へと沿って歩く。真夏の午後だ。当然とてつもなく暑い。久しぶりに汗が首を伝った。

 道の脇にベンチがあった。塗装も剥げているし、背もたれは一部折れているボロボロのベンチだが座ってみる。

 ぼんやりと、普段ならばなんの面白みも感じないだろう荒れた花壇を見つめる。すとんと視線を下げれば、自分の体が目に入った。

 白い患者衣はこの施設に入ってからずっと着用している。ユウキが来るときに着ていたも衣服は持っているが、実験の時はこれを着るように指示されていた。結局は常時患者衣だ。

 こうやって患者衣を着て日のさすベンチに座っていると、まるで自分が病院に入院しているような気になった。

 風がゆっくりと駆け抜ける。蒸し暑いし心地の良い風とは言い難いが、ユウキの鬱々とした気分を晴らすには十分なものだった。短い時間だったが、大分胸の重しはなくなった。これでまた頑張れるだろう。

 そう思ってベンチから立ち上がる。

 ぬるい風が吹き抜ける。

 唐突に、虫の知らせという言葉が脳裏をよぎった。木々が揺らされてざわめきあっている。木の葉のこすれ合う音がユウキの気を引いた。

 視線を向ければ、誰かがそこにいた。

 誰かに思い切り殴られたのかと錯覚するような衝撃だった。自分が超能力者だと言われたときよりも、実際に超能力が発現したときよりも。ひどい冗談だと思う。

 向こうも目を見開いてこちらを見ている。あまりの衝撃で、ぽかんと口を開けてしまった。

 こちらを見ているのは、ユウキだった。

 ユウキの顔。同じ背丈。同じ髪型。

 唯一違うのは、そのユウキが着ているのは白ではなく薄水色の患者衣だということだ。

 ユウキに双子の兄弟などいない。親戚の全員を把握しているわけではないが、ただの血縁者であれほど似ている人なんていないだろう。

 それは、くるりと身をひるがえしてどこかへ走っていた。声を上げることも、追いかけることもできず立ち尽くす。

 そのあとはただ風に木が揺れるだけだった。

 そこからどうやって戻ったのか覚えていない。顔面蒼白のユウキに池内が困惑していたのを覚えている。

 どうしようもなくて、自分そっくりの人間について尋ねた時、池内の顔が凍り付いた。

 池内がそれについてはぐらかすのを聞いたときに、ああこれは最も知ってはいけなかったことだったんだなと理解した。

 ユウキの様子を見てごまかせないと観念したらしい池内は、先ほど見たもうひとりのユウキについて説明をした。

 曰くあれはユウキのクローンだと。

 ユウキが目論見通り超能力を発現したために、同じ遺伝子配列の個体を使ってさらに効率的に実験に役立てようということだった。

 後半はユウキの予想だが、実際その通りだろうと言う確信はあった。

 全く感情の抜け落ちた顔でこちらをみる自分を思い出す。いや自分ではないのだが。しかし、分かっていても本当に同じ顔だったのだ。

 朝とは違う苦しさが体中を支配する。

 この生理的な嫌悪が、どこに向けられているのか分からない。

 食事なんてもちろんのどを通るはずもなく、また自室に引きこもった。眠って、不快感で目が覚めて。出すものなんてないのに、トイレに胃液を吐き出す。

 何度か繰り返して、さすがにのどの渇きを覚えた。

 ベッドから降りて、壁を伝うようにして冷蔵庫までたどり着く。冷えた緑茶を出してグラスを手に取った瞬間、それは手の中から消えて、少し離れた空中に現れていた。

 床に叩きつけられたガラスの割れる大きな音が響く。

 しゃがみ込んだまま、ユウキは動くことができなかった。

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