第10話

 研究施設に来てから数日が経過した。毎朝同じようにアラームの音に起こされる。この音はどうやらユウキが体を起こせば止まるようだった。特に体に変化はなく、超能力開花などという兆しは一切なかった。しかし毎日律儀に診察とその記録をされる。

 今日もまた例に漏れず、起きた後は問診に来るように指示された。ベッドから降りて顔を洗いに行こうとすれば、のどの渇きに気付く。少し熱っぽいかもしれない。顔を洗う前にお茶を飲もうと思いキッチンスペースへと向かった。

 冷蔵庫からお茶を取り出してカウンターへ置く。昨日洗って伏せておいたグラスを上に向ける。もう一度ペットボトルに手を伸ばす。

 いつも通りの距離感だ。

 ユウキの手がペットボトルのキャップに触れる。

 掴んで持ち上げようとしたとき。そのときには、なぜかボトルは床に落ちていた。

 ――手、滑ったかな。

 つかみ損ねたか。いや、まだ指が触れるか触れないかだったと思う。しかも、500mlのペットボトルをつかみ損ねてカウンターから落としたにしては音が小さかった。ぬぐい切れない違和感を抱きながらも、寝起きのせいでぼんやりしていたと思い直し床に落ちたボトルを拾う。

 仕切り直して、冷たいお茶をグラスに注ぎ一気に飲み干した。

 顔を洗うために、洗面台まで行く。

 大きな鏡に映った自分は、どこまでも変わっていない自分に見えるのに、今日は少しだけ顔が熱い気がした。

 いつも通りに第一研究室へ行けば、池内がにこやかに迎えた。同じような問診をする。変わりはないかと聞かれたので、起きてから少し熱っぽいことを伝える。

 池内は真剣な顔になり、ユウキの体調を気に掛けた。

「それはいけませんね。腕に着けてもらっているタグでは平熱と記録されているのですが。気分が悪かったりしますか」

「いえ、そこまででは」

 しかし池内の問いかけに対してそう返答している間にも、体の中がぐるぐるしている感覚に襲われる。もしかしたら、これは気分が悪いのか。普段自分に無頓着だったために、これが体調不良だと気づかなかった。

「……すみません、やっぱり、なんか気分が悪いみたいです」

「わかりました。部屋まで送ります。立てますか。今日はゆっくりしてください。食事は食べられそうなら胃にやさしいものを運びますので」

 頷くと、池内はユウキを支えるようにした。それに助けられながら席を立つ。

 その途端にユウキの足元がふらついた。とっさに診察用のデスクに手をつこうとする。目を向けるとそこには束になった書類がいくつもあった。勢いよく手をつけば書類はしわになったり破いたりしてしまうだろう。まずいなという思いが過るが、すでに傾いた体はどうしようもできない。

 デスクに手をついて体を支える。

 その瞬間、ユウキの手に当たった書類は、手の平で押されることなく床に落ちていた。

 ユウキと池内の真後ろ。どうやっても、手をついた勢いであそこまで飛ばすことはできない。

 池内が信じられないものを見る目でユウキを見る。ユウキ自身、何が起こったのかよく分からなかった。

 先ほどのペットボトルと同じ。あれは落としたのではなかったのだ。ぐにゃぐにゃした感覚はいつの間にか収まっていた。大きく息をついて、診察の椅子にもう一度座った。二人とも呆然と、落ちた書類を見続ける。

 どんなに見ていても、ユウキが物体を“手を触れただけで書類を別の場所へ動かした”という事実は変わらなかった。

 すぐにその場はあわただしくなった。ユウキの体調不良が治まったのもあって、そのまま何が起こったかの解析が始まったのだ。

 こんなにいたんだと感心してしまうほどの数の研究員がユウキの下に押し掛けた。もしかしたら施設内の研究員がほとんど全員集まっていたのかもしれない。

 初日と同じカプセルでの計測と、さらに精度をあげてみていく。

 その結果、当初の計画通りユウキに超能力が発現したことが確認された。

 獲得した超能力は“物体転送”。

 自分が触れたものを移動させることのできる、SF映画などでもよく見るメジャーな超能力だった。

 能力の上限を計測した結果、重量は一キロ未満、範囲は一・五七メートルと判明した。

 それ以上の重さのものは動かず、またそれよりも遠くへ飛ばすこともできなかった。そしてさらに、今の段階では、物体を転送した先の到達点のコントロールは不可能に近かった。

 未だ現実が受け入れられず、呆然としているユウキに、白衣の誰かが笑いかけながら讃える。

 すごいですね。

 今はまだ、能力の範囲や重量に制限があるけど、訓練すればきっともっと使えるようになるよ。

 頑張りましょうね。

 それらにあいまいに返事をしていたら、いつの間にか自室まで送り届けられていた。

 ベッドのふちに座って、ぼんやりとする。今朝、熱っぽいと思ったのは、能力発現の反動だったらしい。体に害はないとはいえ多少は負荷がかかり、それが怠さという症状で出たということだ。

 本当に超能力が自分に眠っていたなんて、思いもしなかった。実際この研究の話を受けたのも、与太話に付き合っているという感覚だった。たくさんの大人が、バカバカしいことを真面目に研究しているんだなと、呆れすら抱いていたというに。

 しかし、測定のためのゴムボールは、ユウキが触れた瞬間に三木の足元に移動した。

 とても嬉しそうな彼の顔を思い出す。ボールもブロックも紙も、プラスチックの棒もすべてユウキが触れれば移動した。そのたびに、研究室は湧きあがった。

 ――もし、このことを話せば、あの人たちも喜んでくれるのかな。

 スマホはここにきてからずっと圏外になっているから外部と連絡は取れない。実験期間が明けて、このことを伝えれば、あの人たちはユウキのことを誇りに思ってくれるだろうか。たくさんのことを試したせいか、どっと疲れが押し寄せる。それとも使い慣れないものを、初日に拘らずやたらと使ったせいか。

 力なく後ろからベッドに倒れこむ。今日はもう何もないと言われたので、このまま自由時間だろう。

 そう言えば朝食前に超能力が見つかりそのまま検査となったから、今まで何も食べていないことに気付いた。しかし、今朝の体調不良の名残かあまりお腹は空いていない。ベッドから起き上がる気にもならなかった。そのまま体の向きを変えて布団に潜る。

 自分の気持ちがわからなかった。

 自分の身に起きたことが、嬉しくないわけではない。誰もが喜んでいたから、これはきっといいことだ。ただ、あまりに現実味がなく、すごいことだと言われても素直に喜べなかった。

 目を閉じる。

 たいして何もしていないが、もう眠れそうだと思った。

 それ以上は何も考えず、自分を抱きこむような体勢で意識を沈めていった。

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