第9話
八月二日。朝七時。
電話の音が鳴り響く。ユウキが目覚ましに使っているアラームの音ではない。聞きなれないそれにわずらわしさを感じ、音を止めるために手を伸ばして闇雲にスマホを探った。
しかし枕元には何もない。おかしいと思い目を開いて周囲を見渡せば、白色しかない知らない部屋だった。
一瞬、訳が分からずに呆然とした。しかし咄嗟に声を上げる前に昨日の記憶が戻る。
ここは国立能力開発研究所でユウキに割り振られた一室だ。とりあえず一旦落ち着きを取り戻すが、肝心のけたたましい音は止まらない。どこで鳴っているのか分からず、とにかく探すために体を起こした。
するとその途端に音は止まり、どこからか声がする。
『おはようございます。泉さん。本日の実験内容は朝食前の身体検査のみです。第一研究室までお越しください。経路はわかりますか』
「は、はい! 分かります」
『了解しました。それでは、服はそのままでいいのでいらっしゃってください。お待ちしています』
どこから声が聞こえているのか分からず、寝起きなのに大声で全方位へと返事をする。起き抜けには少々しんどかった。
即座に来いということなのだろう。ベッドから降りて、身支度を整えるために洗面台へと向かう。
鏡に映った自分を見た。
特に昨日と変わったところはない。いつも通りの寝起きのユウキだ。施設から用意された白色の患者衣を着ていることが、普段との唯一の違いだ。強制的に視線を自分から外し洗面所から出る。特に持っていくものなどは指示されなかったので、そのまま部屋を出て第一研究室に向かった。
昨日とは違い誰も部屋まで迎えには来なかったが、経路はわかっているから問題はない。
通路を歩きながら、それにしても本当に人の気配のない建物だとしみじみと思う。静まり返っていて、外も見えず、まるでここ以外この世のすべてが凍結されたようだ。
第一研究室につきドアの前に立つと、音もなく開く。昨日登録されていたらしい。中にいたスタッフが笑顔でユウキに話しかける。
「おはようございます。よく眠れましたか。今日は問診だけです。担当の池内と言います」
「おはようございます。はい、大丈夫です」
どうぞと促されて椅子に座る。彼は昨日の身体検査の時にいたスタッフの一人だと覚えていた。石崎の後ろでずっとデータを記録していた、比較的若い男だ。30付近ではないかと予測した。
問診は簡単な質問で終わった。昨日と変わったと感じるところはないと、池内には素直にそう伝える。
「わかりました。もし変化や違和感といったものがあれば、どんなものでも遠慮なく言ってくださいね」
ユウキの返答を随時記録しながら池内が言う。ユウキを気遣う優しい口調だった。記録し終わった後に、ユウキの方を振り返って、彼は朗らかに誘った。
「食事は施設内にも食堂があるので、朝はそこでとりましょうか。案内しますよ」
行きましょうと言われて席を立つ。昨日の夜は勝手に用意されていたので、この後の食事はどうすればいいのか分からず困っていたから助かった。
池内についていくと、赤いランプの掲げてある大きな扉の部屋まで来た。彼はここですと言って笑顔で振り向く。
「結構おいしいと評判なんですよ。滞在中は無料なので安心してください」
そう言って彼はカウンターへユウキを案内した。美味しそうなメニューが並んでいて気分が上がる。しかしそれよりも、ユウキはこの食堂にかなりの数の職員がいることに驚いた。厨房で料理を作っているスタッフが少なくとも三人は見える。さらにテーブル席について食事をとっている職員が十人近くいる。先ほど通った通路の静寂が嘘のようだ。
全員が似たようなラフな服装だった。白衣を着ている人とそうでないかくらいの違いだ。白い患者衣の自分は浮いているんじゃないかと不安になったが、特に視線を集めるということはなかった。
池内がカウンターの向こうの職員にメニューを告げた。それを真似してユウキも注文する。目についたのは焼鮭定食だ。
すぐに料理ののった盆が渡された。池内のセットも早かった。どこに座ろうかと考えていると、池内も盆を持ってユウキに話しかけてきた。
「今後の話も軽くしたいので、食べながら話をしませんか」
「あ、はい。わかりました」
「こっちの席に座りましょう」
そう言って池内に二人掛けのテーブル席に連れていかれた。少し緊張するが、今までのスタッフの中でも群を抜いて柔らかい態度の池内に、ユウキもすぐに慣れた。
「はじめに、今回の計画では石崎さんが主任ですが、顔を合わせるのは私が一番多くなると思います」
「そうなんですか」
「はい。私は一般スタッフですが、医療スタッフとしても参加しています。ですので、泉さんの能力開発と体調管理、そしてこの施設での生活をサポートします」
池内がトーストをかじるので、相槌を打ちつつユウキも鮭を口に運ぶ 。
――本当だ、おいしい。
久しぶりにおにぎりの具以外で鮭を食べた。申し訳ないがそんな鮭のかけらとは比べ物にならない。それが顔に出ていたのだろう。池内は笑って、美味しいでしょうと言った。
そしてコーヒーに口をつけて続ける。
「何か要望があればすぐに言ってくださいね。この計画は泉さんが一人目なんです。マニュアルもないからこちらも手探りで。ご不便をおかけすると思いますが、解消できることならばすぐに対処します」
「……ありがとうございます」
そして二人は他愛ない会話を続けた。来るときの車での会話と似たようなものだ。一人暮らしで乱れた食生活に関しては、池内は恥ずかしそうに同意した。彼も学生時代、かなり適当だったと告白した。
そういってくだらないことを話していると、すぐに皿は空になった。どちらともなく席を立つと、池内は図書室に案内すると言った。
「本は読みますか」
「はい。そこそこ」
「図書室の本を部屋に持ち帰ってもらっても大丈夫ですよ。外からの持ち込み制限が厳しいので退屈でしょう」
願ってもない申し出だった。ネット依存症というわけではないが、スマホもテレビも本も課題もない部屋では、正直何をすればいいのかと困っていた。
大きく頷けば、池内はすまなそうな顔をした。
「それでは案内しますね。資料室は泉さんの部屋から比較的近いところにありますよ」
図書室は確かにユウキの部屋から近いところにあった。とくに持ち出しの記録なんかはせずとも持ち出していいらしい。
研究所の資料室だ。蔵書数に圧倒される。夢遊病のようにふらふらと棚の間を縫うように歩き回る。学術書や論文はもちろん、隅の方には小説などもあった。
そのうちのタイトルに一つ見覚えのあるものがあった。あれはそう、高校2年生の時に鏡花に誘われた映画の原作だ。行くはずだったが、当日鏡花が熱をだし、そのまま見ることなく公開期間が終わってしまったのだ。
なんとなく手に取る。その日の朝に来た、予定空けてくれたのに迷惑かけてごめんねというメッセージを思い出した。
――おかしいな、風邪なんて謝ることじゃないのに。
本の裏に記載されているあらすじを目で追った。ありきたりなラブストーリーだ。鏡花も本が好きだったというわけではなく、主演俳優のファンだと言っていた気がする。棚に返す気にはならず、持ち帰る本に加えた。別に読まないなら読まなくともいい。
入口に戻れば、池内が待っていた。本を抱えているユウキを見て頷く。
「これ全部借りていいんですか」
「はい。大丈夫ですよ」
図書室のドアをくぐり、廊下を歩く。向かう方向に気付いてユウキは声を上げた。
「あの、部屋に戻るなら一人で大丈夫です。もうわかります」
「そうですか? …………わかりました。それでは、お疲れ様でした。食事は食堂でも、モニターの呼び出しで部屋に運ぶこともできますので、自由に活用してくださいね」
「はい。ありがとうございました」
軽く頭を下げて別れる。昨日と今日。案内されて歩いたことから、構造はだいたい把握した。
部屋の前につくと、ドアは勝手に開いた。本で両手が塞がっていたのでありがたかった。ケトルで湯を沸かし、備え付けられていたコーヒーを淹れてみる。それを飲みながら本を読んだり、それをもとに課題を作成してみたりと、自由に過ごした。
食事は先ほど池内に言われた通りモニターで頼んでみた。あまり動かないせいで、お腹は空かなかったから夕方に一回だ。
すると指定した時間通りに三段のワゴンをおしてスタッフが部屋に持ってきてくれた。上の段には頼んだオムライスセットが。下には衣類がそろっていた。
昨日と同じようにシャワーを浴びて、身支度を整えて新しい患者衣に着替える。
体には、とくに変化はなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます