第8話

 廊下に出るが、やはり誰もいなかった。第一研究室がどこか探すために館内の案内図がないかと見渡すが、これも見当たらない。先ほど乗ったエレベーター付近にもしかしたらあるかもと思いつきそっちに向かって歩き出した。

 もうすぐでエレベーターというところで、曲がり角から勢いよく人が現れた。女性だった。三木と同じくらいの年齢に見える。ラフな格好の上に白衣を羽織っていた。

 彼女はユウキの姿をとらえた瞬間にあっと声をあげて目を見開いた。

 その様子を見て、勝手に出歩いてまずかったかと一瞬後悔する。研究施設だ。まだ何か知らないルールがあったのかもしれない。

 しかし彼女は注意したり声を荒げたりすることなく、即座にユウキに向かってまたも勢いよく頭を下げた。

「ごめんなさい……! 連絡の行き違いがあって、まだ施設を案内してもいないのに館内システムで指示を出してしまったの。どうしたらいいか分からなかっただろうし、驚いたでしょう」

「い、いいえ。大丈夫です。勝手に歩き回ってすみません」

 そう謝れば、彼女は顔を上げほっとしたように眉を下げて笑った。

「よかった。迎えに行くはずだったんです。戸惑ったでしょう。第一研究室はこちらです。私が案内しますね」

「はい。よろしくお願いします」

 先を歩いていく彼女についていった。彼女はかなり速足なようで、耳くらいの高さでひとつに結んでいる髪が足の動きと連動して左右に大きく揺れている。思った以上にサンダルが歩きづらく、ユウキは遅れまいとして懸命に彼女の後に続いた。

 しばらく歩くと第一研究室と銀の表示が掲げられた部屋の前に来た。彼女は笑顔で振り向いて、つきましたよと声をかける。

 息の上がっているユウキに気付いていないようだ。かなりの速度だった。まるで競歩だと心の中で愚痴を漏らす。もしかしたら、ユウキがのんびりベッドに座っていたせいで実験に大遅刻だったのだろうか。

 彼女がドアの前に立てば、例に漏れず横にスライドした。入室していく彼女に続く。

「泉さん、到着しました」

 その部屋は、一見病院の診察室のような部屋だった。部屋の奥は仕切りで見えないが、部屋の手前にはデスクの上にモニターがあり、乱雑な書類、端末も散見できた。デスクの前には丸椅子。簡易ベッドやいくつかのユウキには用途のわからない機器や機器が並んでいた。

 先ほどの女性含め、スタッフは4人。

 デスクの前の椅子に、白衣を着た男性が座っている。五十代だろうか。やさしい笑みが、なんとなく地元のかかりつけ医を彷彿とさせた。

「泉さん、こちらにどうぞ」

 本当の診察のように、先生の前の丸椅子に座らされる。緊張した面持ちのユウキを察したのだろう。彼は優しく話しかけた。

「緊張しなくても大丈夫ですよ。まず、現在の健康診断を行ってから、基礎データを取ります。診察みたいなものです。ぼくは主任の石崎といいます。よろしくお願いしますね」

 では、と言って口を開けるように指示される。のどの奥を見たのち、心音を聞かれた。一通り、春に大学で受けた健康診断と身体測定と同じようなものを受ける。

 石崎は笑顔を崩さず、頷きながら結果を見ていた。

 最後にたくさんの管がついたヘルメットのようなものを渡され、つけるように指示される。受け取ってから石崎を見返す。

「これで体内のデータを取ります。計測だけですから、気軽に受けてください」

 よくわからないものを頭につけるのは少し不安だったが、ここまで来たらしたくありませんとは言えない。管を払いつつ頭につければ、重さで少しふらついた。

 こちらですと言われて部屋の奥の方に歩いていくと、そこには人一人が寝転べるくらいのカプセルが鎮座していた。以前何かで見た、酸素カプセルのようだと感想を抱く。触ってみると、中の寝台のような部分は想像よりは柔らかかった。

 指示通りカプセルに寝転ぶ。目の下まであるヘルメットで視界が悪い。閉めますねという忠告の後、カプセルの蓋をゆっくりと閉められた。

 とんとん、きゅるきゅる。

 しーしー。

 うるるるるる。

 蓋が閉まってしばらくして、機械が動き出したらしい。小さくいろいろな音が聞こえ始める。

 どんどんと強めの音が聞こえ始め、少し体が強張る。しかし派手な音とは関係なく、特に電気が流れてきたり温度が変化したりということはなかった。

 何事もなく時間が過ぎる。

 カプセル内に響く、様々に変化する音に慣れ始め眠くなってきたころ、ぷしゅ、と軽い音を立てて機械が止まった。

 すぐにカプセルの蓋が開かれ明るくなる。

 体を起こせば、石崎の声がかかった。

「泉さん、お疲れさまでした。計測は終わりです。頭の、外してもらっていいですよ」

 そう言われて、ヘルメットを外す。急に視界が明るくなりまぶしく、目を細めながら見渡した。

 石崎がうんうんと頷いて端末を見ている。あれにもう、いま測った様々なデータが送られてきているのだろうかと、眠くなってきた頭でぼんやりと思う。

「よし、大丈夫そうです」

 もう一度椅子に座るように指示された。石崎も座り、向かい合う。

 あくまでも笑顔は保ったままで、研究員はユウキに話しかける。

 一つ結びの彼女が、銀色のトレーに一本の注射器をのせて近づいてきた。彼女はそれを石崎に渡す。

 ユウキの心臓が跳ね上がった。

 ーーあれだ。

 あれがきっと何か、ユウキに眠っているらしい能力を呼び起こすものなのだ。

 注射なんて毎年の予防接種くらいか縁がない。そもそも恐ろしいものに、得体が知れないという追加効果で余計に身がすくむ。

「これがうまく作用すれば、君に眠る超能力が発現するでしょう。大丈夫。予防接種と変わりません。いいですか?」

「……はい」

 少し上ずった声で返事をする。ユウキの緊張を感じ取ってか、石崎はさらに笑顔を深めた。

 左の袖を捲る。さっきのカプセル内の音よりも心臓の音の方がどんどんと大きく聞こえた。

 予防接種と同じように、アルコールで拭かれる。そういえば毎年この瞬間が一番嫌いだったなと思い出した。

 いつもは腕から目線を背けている。しかし今回はそれができなかった。

 細い針が自分の腕に近づいていく。

 当たる。

 刺さる。

 埋まる。

 ーー痛いなこれ。……結構いたいぞ。

 透明な液体がすべてユウキのへと押し出されていった。

 自分に注射をされるのを始終見つめていたのは初めてだった。ぎゅっと刺した場所に保護テープを貼られる。正面を向けば、相変わらずの表情で石崎がいた。彼は小さく会釈をした後で、ユウキを労った。

「お疲れさまでした。今日はこれで終了です。簡単なものですが、体調チェックは毎日行います。何か変化があれば必ず報告してくださいね。それと、これを必ず身に着けていてください。万一体調が変化した場合、すぐにこちらが把握できますので」

 そう言って彼は、文字盤のない腕時計のようなものをユウキに渡した。素直に左腕に緩くつける。

「それは水に濡れても大丈夫なように作られていますので、シャワー時も外さないでくださいね。投薬したからと言って、特に食事や運動等に制限はありません。明日また伺うまでゆっくりしてください。それでは」

「はい、わかりました。ありがとうございました」

 どうやら今日はもうすべて終わったらしいと、ほっとして席を立つ。傍にいた男性スタッフが寄って来た。帰りは彼が案内してくれるようだ。

 スタッフについて部屋へと戻る。歩きながら経路を確認したが、きちんと覚えていた。第一研究室へは今度からひとりで行けるだろう。

 ユウキの部屋につく。彼はぺこりと頭を下げて、来た方へと戻っていった。

 先ほど三木に教えてもらった通りにドアに近づく。ピピと音がして、何事もなくドアは開いた。

 部屋に入る。まっ直ぐにベッドに向かえば、そこには新しい衣服が用意してあった。少し驚き、他に変わったところはないかと見渡す。そうすると、カウンターに食事が乗っていることに気付いた。

 近寄ってみると、盆にのったそれは給食のようなメニューの食事だとわかる。底の深い器に、白米、魚のフライと付け合わせ。小鉢にサラダ。小学生時代を思い出してとても感慨深い。

 鍵でも開くんだから清掃員みたいな人が用意してくれたのかもと、特に疑問や不信感は抱かずに席に着いた。

 ふとデスクを見れば、先ほどは気付かなかったが電波時計が置いてあった。

 時刻は六時四十五分。予想以上に時間が過ぎていて思わず時計を凝視した。時間の経過を意識すれば、途端に空腹を感じる。都合よくぐうと鳴る始末だ。とりあえず初めに見つけたペットボトルのお茶を冷蔵庫から取り出してきた。食事をレンジで温めている間に、用意してあったグラスに注ぐ。温まった料理とお茶の注がれたグラスを盆にのせてデスクに戻る 。

 いただきますと呟いてからサラダを口に運んだ。一人暮らしになってから、ユウキは大学の学食にほとんど行ったこともなかった。何度か同じ学部の新入生に誘われて付き合いで行ったからどこにあるかくらいは知っているが、一人では行かなかった。だいたい昼食は適当に買った近所のスーパーのおにぎりかパン一つ。たまに贅沢に両方。家にいるときもカップ麺か冷凍食品。こんなにきちんとした食事をとるのは久しぶりだった。

 すぐに食べ終わり、ベッドに置いてあった衣服を持ってシャワールームへと向かった。

 ささっと浴びて汗を流す。上がって髪をドライヤーで乾かして、歯を磨いてベッドに横になる。枕に髪が広がった時、シャンプーの優しい香りが鼻腔をくすぐった。甘すぎない、心地よい匂いだった。

  ――なんか家にいるときよりも丁寧な生活じゃないか……?

 実験目的の研究施設と聞いて、監獄のような生活を覚悟してきたのに。健康診断を受け、おいしいご飯を与えられ、いい匂いのする石けんで体をきれいにしている。もしかして普段の生活はおかしいのか。

 自分の生活に対して一抹の不安を抱くが、石けんの香りと入浴直後で温かい体がユウキを夢の世界へと強く誘う。

 完全に眠りに落ちる前に、何とか布団へともぐりこみ、ユウキは部屋の電気を消した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る