第7話
再び白いだけの廊下に出る。
若い男はあからさまに研究員といった風貌だった。額縁眼鏡にワイシャツ、黒ジーンズ。シャツはしわだらけだったし、足元はなぜかサンダルなことに気付いた。しかし髪は短く切られていて、ひげもきちんと剃られていたので不潔な感じはしなかった。今度は大した会話もなく進む。来た方とは別方向だ。かなり広い建物だとわかる。残念ながらやはり窓はなく、外の様子は見えない。よく考えれば今が何時なのかも知らなかった。
しばらく廊下を進めば、エレベーターにたどり着いた。小さめで三人乗れば狭く感じるような広さだった。ユウキに乗るように指示した後、彼も乗り込む。ボタンを操作している背中を黙って見つめた。
動き出してすぐに目的の階についたようだ。何の音もなく止まりドアが開く。研究員が歩き出したのでそのままユウキも続いた。
このフロアは先程のフロアよりも狭い間隔でドアがたくさん並んでいた。あちらを学校や病院に例えるなら、こちらはホテルの通路のようだ。ドアを横目で流しながら歩いていくと、急に男が立ち止まる。
少しのけぞってユウキが止まれば、彼は手にした端末をチラリと確認してからユウキを振り返った。
「……ここです、泉さん。部屋へ入るコードは顔認証ですので登録しないといけません」
管理者以外の入室は全員登録で制限されていると言われて頷く。
部屋の中央より上あたり、頭部の上くらいに設置されている小さなレンズがカメラで、これから登録すると説明された。少し緊張しながらドアの正面に立つ。男がドアの横のパネルを操作した数秒後に、小さく機械音が鳴った。
それを確認して、彼はようやく緊張を解いてユウキの方を見て笑ってみせた。
「登録完了です。パネルに電子キーでも開きますが、使用者の設定したので、泉さんは何も持たずともこの部屋の出入りはいつでもできます」
一歩踏み出し近づくと、ドアは横へスライドして開いた。研究員はユウキ部屋の中へ入るように促し、自分自身も入室した。
「すみません、設備の説明を」
入ってすぐ横にホテルのようにロッカーがあった。開ければハンガーが二個とスリッパが入っていた。
「部屋へは土足でもいいですができればスリッパをご利用ください。施設内の移動も靴の着脱が面倒な場面がありますので、こちらの履物をどうぞ」
「わかりました」
返事をしてスリッパに履き替える。そのまま部屋の奥まで進んだ。短い廊下の先にベッドが見える。
――思った以上に広いな。
ユウキのワンルームと同じか、それ以上の広さがある。白いベッドを確認して右を向けば、大きめのデスクがあった。サイドデスクなどではなく、これは何かものを考えるときに使うための大きさだ。
「そこのカウンターの向こう、小さいんですが個人のキッチンがついています」
研究員がドアの前から声をかける。確認すれば、水道と電子レンジ、ポットがあった。なにかお茶の類のようなものも見えた。
「食事は基本的にこちらで用意するので、個室では火は使えません。ですが飲み物やスープなど軽食は作れますので、ご自由にどうぞ。あと、こちらのドアですが」
そう言われて研究員の立っている玄関まで戻る。綺麗なベッドに気を取られて通路のドアに気付かなかった。
「こちらに個人用のシャワールームがあります。備品もそろっていますから、遠慮なく使ってくださいね」
「はい」
本当にホテルのようだと感動すら覚える。ホテルにしては遊びや装飾がない簡素なものだが、たいして普段から飾りを気にしないユウキにとっては十分過ごしやすいだろうと思った。
「もう少ししたら最初の実験準備が整います。ここは実験期間中はきみの自室ということになるので、好きに使って下さい。申し訳ありませんが外界との接触は一切禁止となっています。スマホは圏外になっているはずです。それ以外で何か欲しいものがあれば遠慮なくどうぞ。あとでまた施設の設備等の説明は随時行いますね」
それではと言って彼はユウキの部屋のドアを閉めようとした。うつむき加減だった彼は、ドアが閉まりきろうとした瞬間に勢いよくもう一度開けて入って来る。驚いて見つめると、少し恥ずかしそうに笑って小さく頭を下げた。
「......すみません、自己紹介を忘れていました。僕は三木と言います。きみのプロジェクトに関わらせてもらっているので、また会うでしょう。よろしくお願いいたします」
「あ、えっと泉悠己です。お願いします」
何度もすみませんと言いつつ、彼は今度こそドアを閉めて出ていった。
きっちり閉まったのを確認してから、ユウキはそろそろとカウンターの方へ近づいてみた。
電気ケトルはよくあるものだ。これも白。盆に、白いカップと透明なグラスが二つずつ伏せてある。丸い缶、これも白だが、これにはドリップコーヒーや紅茶が入っていた。隣の小さな缶にはシロップとミルクもあった。下にある小さな冷蔵庫を開けると、ペットボトルのお茶と水が冷やしてある。
ーー本当にホテルみたいだな。
卒業旅行で朝飛と泊まったホテルを思い出した。お互いに大学入学準備があるというのに朝飛がわがままをいい、無理矢理スケジュールを組んで行ったところだ。行き先は山口県。ユウキがなぜと問えば、入試の小論文で吉田松陰が出たからというわけのわからない理由が帰ってきた。
地元の大学に進学する朝飛と違って、ユウキは引越し準備があったために帰ってきてから大変だったのだ。勝手に行ったらしく、段ボールに荷物を詰めながら陽一の朝飛に対する説教を聞き流していた。
どうでもいいことを思い出し、非日常の只中にいるにも関わらず少しだけ笑みを作る。
缶の中に入っていたコーヒーを手に取ってみるがまだ何かを飲む気にはなれず、ベッドの方まで戻った。恐る恐るベッドに座る。
座り心地はなかなかだった。
柔らかすぎないし、固すぎない。これならきっと寝やすいだろう。
自分の下宿先よりもグレードアップしてしまった仮住まいを見渡す。白ばかりのシンプルな部屋だ。
そして、壁。これがもっとも特徴的と言える。
この部屋に窓はひとつもない。
所長に会った部屋にも、長い廊下にも一切の窓がなかったためにある程度予想はしていた。しかし、実際に窓のない部屋に案内されると、途端に閉塞感が迫って来る。
なれない状況と場所、その上この隔離。
考えないようにしていたが、少し不安が湧いてくる。ポケットに入れていたスマホを確認すれば、言われた通り圏外だった。
その不安をふり払うように目をつむった瞬間、唐突に機械的な声が響いた。
『泉さん。実験準備が整いました。第一研究室までお越しください』
機械的な声などではなく、まさしく機械の声だと聴き終えてから気付いた。その合成音声はあまりにも流暢で、ユウキにはその音のモデルが男性なのか女性なのかわからなかった。
そして、たった今告げられた内容を考える。明らかにユウキが呼ばれたのだ。先ほど三木が言った通りに準備が整ったから。しかしどこからアナウンスが流れたのかがわからない。
よく見ると壁の一部がモニターになっているようだからあそこからだろうか。いやそれよりも、第一研究室とはどこにあるのだろうか。新田所長とあった部屋は何も書いていなかったし違うだろう。
しばらくベッドに座ったまま待ってみるが、誰かが来るような気配はない。とにかく第一研究室とやらに行かなくてはならないと思い立ち上がる。
――人が呼びに来てくれるんだと思ったんだけど......。
さっきここに着いたばかりなのにと、そのまま放っておかれて少々むすんとしながら玄関へと向かう。しかし、来てくれないのだから仕方ない。他人の行動に期待しても無駄なのだ。
ドア前のロッカーを開け、三木に言われた通りサンダルを出す。素直にそれを履き、開閉ボタンを押してドアを開いた。
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