第6話
――すごい、ドラマの研究所みたいだ。
このピカピカした床の質感と相まって少し感動する。最新式で最大規模の研究施設にいるような気分だ。どうぞ中へと言われて、おずおずと入る。中は白い壁に白い床、廊下と変わりない印象の部屋だった。ユウキが入ってきて右側の壁には、大きなモニターが設置されている。透明なテーブルに白い壁と床という空間の中、黒い椅子という存在だけが少し浮いていた。
向かいの席に、この計画の関係者で今まで会った中では一番年を食っている男が座っていた。七十代くらいだろうか。彼も柔らかな笑みを浮かべている。ユウキが部屋に入ったのを確認して、彼は立ち上がって近づいてきた。
「ようこそ、泉君。待っていましたよ。さあ、そこに掛けてください」
年の割にかなりしっかりとした足取りと口調だった。促されて椅子に座る。所長が向かいに座り、ユウキに紙片を渡してきた。彼の名刺だ。新田義弘と書かれている。国立能力開発研究所所長という役職も一緒だ。アドレスや、何かのQRコードも載っている。
受け取ってまじまじと名刺を眺めているユウキに、新田はさらに資料を差し出す。それはユウキにとって見覚えのあるものだった。電話の後に一応確認した封筒の中に入っていた資料の一部だ。それを指さしながら所長は話し始めた。
「それでは最終確認を始めます」
所長が話したことは、確かにほとんど電話で聞いたことと同じだった。
国の方針で行われた調査でユウキに超能力が眠っているかもしれないということ。実験参加へのメリット。実験内容。それの効果。とりあえずふむふむと聞いておく。
しかし、さすがにこの段階まで来たこともあってか、今回は新情報とデメリットも説明された。実験と称されている以上当然のことではあるが、驚いて顔を上げる。
「これについては、電話ではしていませんでしたね。もう一度言います。実験を行ったからと言って、必ず超能力が発現するとは限りません」
「……はい」
「適性があるとはいえ、不確定な実験なので。それと超能力が君に眠っていたとして、発現するまではそれがどのようなものかはわかりません。そしてもう一点ですが、実験では投薬をおこないます」
「とうやく」
投薬。その言葉で、ようやく実験という事実が目の前に現れた気がした。そうだ、なんにしろ実験なのだから、ユウキの体を変化させるのだ。
彼はゆっくりと続けた。声は相変わらず穏やかなものだ。
「能力開花に働きかけるものです。超能力発現のためにするものなので、もし、君に作用しなければ特に体に何かあるというものではありません」
そこはご安心をと言われるが、少し体が強張る。ユウキの沈黙を、老人は当然と考えているようで何も言わずに待っていた。
それに甘えてもう少し実験に対して自分の意見を見つめ直すことにした。今更と言われても仕方がないが、なにぶん新情報が多かった。
――痛いのは、嫌いだな。
怖いのももう御免だと思う。
思考に深く潜ったとき、ふいにすすり泣く声が聞こえた気がした。地面に座り込んで、小さな子どもが膝を抱えて泣いている。あれはきっと公園だ。さっきまでたくさんの子どもがいたのに、あの子が来た途端みんなどこかへ行ってしまったのだ。
泣いている理由はわかっている。叩かれた頬が痛かったから。倒れた時に机の角で打った頭が痛かったから。擦れた膝が痛くて、かばった腕が痛かったからだ。
何よりも、胸の奥あたりが、ああなってからずっと痛かったからだった。
泣き続けている子供を、ユウキはじっと傍観する。声をかけることもなく、軽蔑することもなく。
この続きを知っていた。
誰もいなくなったはずの公園に、もう一人子どもが来る。親戚なことは知っているが、母親が亡くなってからはあまり接点がなくなった子だった。泣いている彼を見つけ、ひどく悲しい顔をしたその子は、無言で彼の手を引いて自分の家まで連れて帰ったのだ。
ユウキは唇を強くかんだ。
全ての傷を手当されて、温かい食事を与えられた。訳も分からずに清潔な布団で休ませられたのち、気付いたら神谷の家で預かられることになっていた。
視線をテーブルの上に向ける。様々な資料が乗っていた。ユウキがこれから受けるかもしれない実験内容についてだ。大体のことは、初めに渡された封筒に入っていたことと同じだ。超能力の獲得、実験参与に対する報酬と、その実験から推測される体への影響。
あのまま朝飛が見つけてくれず、父親とともに居たらどうなっていたのだろうと、たまに考えることがある。神谷家はユウキの地元では有名な大家だ。母方の遠縁というだけのあの家がユウキを父から離せたのは、きっと当主の意向や多くの金銭が絡んでいるんだろう。
まだ小学生で、金を稼ぐ術などなかったユウキの生活費や学費はすべて陽一が出してくれている。朝飛の年の離れた兄で、神谷家の権限を実際に握っているのは陽一だった。明るくて、鷹揚な朝飛とは対照的に物静かな陽一は、それでも実弟の朝飛と分け隔てなくユウキに優しく接してくれた。
ユウキの成績を見て、大学進学を勧めてくれたのも陽一だった。
高校卒業後は就職するつもりだった。今まで全てのものを出してもらっている。進学の話を掛けあわれた時、そこまで面倒はかけられないと断った。しかしそれではもったいないと推されたのだ。受けるだけ受けてみると受験したが、ユウキの予想に反して都市部の有名大学に受かってしまった。朝飛が地元の大学なのにと固辞しようとすれば、その朝飛がユウキの合格を自分のことのように喜んだ。
自分がまっとうに生きてこられたのは、彼らのおかげだと常々思っている。公園で泣いていたユウキを面白半分に叩いてきた同級生を恨めないのは、彼の母親がユウキの父親と同じだったからだ。憐れむことはおかしいと思いながらも、中学すら通えなくなった彼の行く末に同情し、自分の本来の未来だったと痛感していた。
ーーだから、だめなんだ。
ユウキは役に立たなくてはいけないのだ。
たとえ差し出された手が朝飛の気まぐれであったとしても、血縁者の不始末に対して大家として外聞を気にしただけの行為であったとしても。彼らがいなくては、きっと生きてすらいなかった。
何よりも彼らの役に立たなくては。
ようやく所長に視線を向ければ、彼は相変わらず穏やかに待っていた。まるでユウキはそう選択するとわかっていたように。
泣いてうずくまるだけだった自分は、今でも変わっていない。何者でもない自分なのだ。
――俺なんて、別にきっとどうでもいい。
それなら、万一にでも、あの人たちの利益を産むものになる可能性がある方に進むべきだ。
小さく頷けば、目の前に白い紙を差し出された。同意書を読む。これはユウキの意思だ。黒いペンを渡された。それを受け取り、泉悠己と自分の名前を書き込んだ。
ペンを握る手に力を込めすぎて、少しだけ字が震えた。
ユウキの名前が署名された同意書を満足そうに受け取った所長は、やはり笑顔でユウキに話しかける。
「ありがとう。それでは参加者の同意が得られましたので、これから超能力開発実験を行います。一先ずは君が滞在する部屋へ案内しますね。また声をかけるまでゆっくりしていてください」
示し合わせたかのように、部屋のドアが開いた。若い男が入って来る。ユウキが振り向けば、彼も穏やかに笑った。他の人に比べれば少しぎこちない笑みだった。もしかしたら、彼はあまり人と話すのが得意ではないのかなと思う。
「泉さん。滞在場所へ案内します。こちらへどうぞ」
「はい」
若い男に従って席を立つ。その際、所長にぺこりと頭を下げた。所長もにこにこと笑ったままユウキに会釈を返した。
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