第3話
「泉悠己さんですね」
そう声を掛けられたのは、梅雨に入ってから少しというくらいの時期だった。スーツ姿の中年男性。優しそうな薄い顔だ。
大学構内でのことだったから、知らない人に話しかけられても警戒心はあまりなかった。献血のバスや構内工事、レストランや図書館の一般利用客。大学は高校に比べて、結構外部の人間が入るんだなあと慣れてきていた時期というのもあるだろう。
「はい、そうですけど。何か」
「少しお時間をいただけますか」
眼鏡の奥が緩く弧を描くその顔を見て、学生課の事務職員にたような人がいたなと思った。履修科目の登録で不手際でもあったか。それとも何だろう。一年生なんだから、サークルの一つにも入れという生活指導だろうか。確かに同じ学科のやつらは新歓がどうこうと言っていた。余計なお世話だと思いつつ着いていくと、校舎の裏の方へとたどり着いた。
先ほどまでたくさんいた移動中の学生が一人もいないことに気づく。木々のざわめきだけが異様に大きく聞こえる気がする。湿度の高い嫌な空気が緩慢にユウキの周りを取り囲んでいた。
あれこれもしかして学生課の指導なんかじゃないんじゃと、ようやく思い至る。男のことを不審に思い急いで引き返そうとすると、唐突に彼はユウキに封筒を差し出した。白い封筒だ。A4サイズの、ごく一般的なものに見える。ユウキに差し出されている面には何も書かれていない。
「これを」
「何ですか、これ……」
この男は怪しいということに気付き態度が硬化する。そうやって構えて男を見ると、目の前の男はユウキを頭の天辺から足元までじっくりと観察するような視線だと理解する。
身構えて半歩下がる。彼の目じりがさらに下がり、口元も弧を画く。
「あとで連絡させていただきます。今日はとりあえず資料を渡したくて」
穏和な顔であるが、口ぶりははっきりしていた。有無を言わせない態度とは、こういうことをいうのだろう。男の方では、すでに何かがもう決まっているようだった。
混乱と焦りで思考が鈍る。気が付けば、封筒を受け取っていた。
害のなさそうな笑みがユウキに向けられる。
「大丈夫、そんなに身構えないでください。僕たちは悪いことをしようとしているわけではないんです。今日は事前に資料を渡したかっただけですので。無闇に怖がらせてすみません」
では後ほどと言い残し、男は去っていった。
呆然と立ち尽くしていると、額に雨が当たり、重く雲が覆っていた空から雨が降り始めたことを知らせる。朝には持っていた傘がない。前の授業の教室に忘れたことに今さらながら気付いた。
ぽつぽつと次第に強くなっていく雨脚に急かされるように、封筒を胸に抱えて合同教室へ走って戻った。
それから連絡があったのは、その週の土曜日。午前のことだった。
見知らぬ男から手渡された封筒。気持ちが悪くてその辺に捨ててしまいたかったが、もし個人情報が入っていたらと思うと捨てられず、かといって中身を見るような勇気も出ずで、そのまま部屋の隅に放置して忘れていた。
そのとき、ユウキはいつも通り来週の授業の予習をしようとしていた。ローテーブルにノートと電子辞書、配布された資料を出す。
勉強するときはコーヒーと決めている。こちらに来るとき、鏡花と買いに行ったマグカップに、インスタントのものをブラックで淹れて、テーブルの端に置いた。
さあ始めようとした瞬間、なぜかちらりと白い封筒を視界にとらえる。ああ、あれを忘れていたなと思ったのとほぼ同時に、スマホの着信音が鳴り響く。メッセージでもメールでもない、電話の音だ。誰だと名前を確認すると、そこに表示されていたのは非通知という冷たい文字。
表示を確認した途端に背筋が凍り付いた。直感で、あの白い封筒のことだと理解する。気味が悪い。あの、人のよさそうな中年の男が脳裏をかすめた。あとで連絡させていただきますという声がくぐもった音で反響する。
なんて、気味の悪い。
しかし鳴り響く電話はまだ切れない。
気味が、悪いのに。
自分が何をしているのか、そのときユウキは理解できなかった。緑色のボタンに指をのせて、震える指でそのままスピーカーをオンにする。
まだ声は出せず、向こう側の音に聞き耳を立てた。ザラザラとした回線の音よりも、自分の心臓の音の方がうるさかった。
長い時間硬直していたように感じたが、すぐに向こうはユウキが出たことに気付いたようだ。確認の声がする。
「泉悠己さんですね」
この台詞を聞くのは二度目だと、他人事のように思う。今度は男性ではなく、女性の声だった。比較的若い声だ。
「……はい」
絞りだしたような声で返事をする。彼女はユウキが返事をするのを待っていたようだった。肯定してすぐ、要件をしゃべり始めた。
「先日お渡しした資料は確認していただけましたでしょうか。よろしければ、参加の是非を今日、伺いたいのですが」
女がそういうのを聞いて、中身を見ていないのを今さらながらに思い出す。渡されて、それを確認しなくてはいけないという行為が結びついていなかった。男が言った「後ほど」とは、あとで資料を見ておいてくれ、それをまた確認するからなという意味に他ならない。
言い訳は、テンパっていた。これだけだ。
「え、あ。すみません。見てないです」
「そうですか。であれば今ご確認ください。手始めに、一枚目の資料をご覧になってもらえますか」
突然知らない人から電話がかかって来たから、気が動転していたのだ。気味が悪い、気持ち悪い。そうとしか思えなかった封筒なのに、なぜか電話の相手に謝罪して中身を出す。
紙の束が封筒から出て、ユウキの目には薄緑の紙に黒字のプリントが飛び込んできた。
一番上に堂々と印字してある文字は、「適性者超能力開発プロジェクト」とはっきりと示していた。
これを確認して、すうと自分の気持ちが冷めていくのを感じた。
ありきたりな詐欺電話だと結論付ける。直接資料を渡しに来たのは手が込んでいるが、あまりにも凡庸で無意味な行為だ。
ーーどうして、俺の名前を。
当然この疑問が浮かぶ。しかし、恐怖と同時に納得もした。一人思い出したくもない顔が記憶の海からよみがえる。あの男。連絡なんて長らく取っていない、ユウキの実父。死んだとは聞かないからまだ生きているのだと思っている。
どうせあの男が何かやらかしたのだろうという結論に行きついた。どこかロクでもないことにユウキの名前を使ったに違いない。超能力なんて、どう考えても怪しい宗教じみたところの世話になっているなんて。
かっと頬が熱くなった。無意味にスマホを睨みつける。悠己に直接会いに来るような行動力のある危ない組織なのだ。まさか、神谷の方にまで連絡をしていないかと、怒りと恥ずかしさでどうにかなりそうだった。
「泉正樹が何をしたのか知りませんが、俺には関係ないことなので」
早口でそう告げる。大学、そして電話番号を相手に知られているという恐怖はあるが、今はそれを憤りが凌ぐ。
もうずいぶんと会っていないのに、まだ、そしてどこまでもあいつはユウキを不快にさせるのだ。一生付き纏ってくる呪いなのだろう。そう思うと、怒りは突き抜けてやるせない気持ちになる。
しかし、興奮したユウキとは対照的に、電話の向こうの声は至極冷淡に続けた。事務的な声だった。
「泉悠己さん。今回の件にお父様は関係ありません。資料を確認していただけますか」
勢いのまま通話を切ろうとしていた手をおろす。その冷静な声に虚を突かれ、再び素直に従ってしまった。悠己の人生最大の汚点である父親は関係ないと断言されたせいもある。
もう一度、封筒に入っていた紙を見る。
超能力と書いてあることに見間違いはない。
バカバカしいにも程がある。
息を吸う音すら聞こえない淡々とした声で、女はまた話し始めた。
「よろしいでしょうか、泉さん。それでは案内を始めますね」
電話で女にされた説明は、詐欺よりもひどい内容だったと回想する悠己は断言する。
曰く、極秘でこの国の全国民に実施された適性検査で、ユウキには超能力が眠っている可能性があると示されたらしい。超能力発現に関わる遺伝子の配列、開発適性、身体能力。もろもろ説明されたが、いまいちピンとこなかった。
まとめると、特殊な能力開発を行うことで超能力が発現する可能性があるので、今度の長期休暇を使って実験に協力してほしいということだった。
実を言えばユウキは頭の良さをほどほどに自覚している。だから神谷陽一は、遠縁とはいえ兄弟でもないユウキの大学資金を提供してくれたのだ。
将来必ず彼らの恩に報いたいと、常々思っている。
その弱みを突くかのように、研究所側は実験参加における利点を提示した。実験に協力するならばそれなりの金を出すこと。そして、将来的に研究職に就く場合の口添えもだ。
にわかには信じがたい話だし、信じる信じない以前にあからさまに怪しい。
超能力なんて架空の話。ユウキも正直な話、電話から聞こえてくる女のいうことなど信じてはいなかった。
しかし、ついさっき不本意ながら思い出した実父の影が、目の前を黒く塗りつぶしていく。
――別に、騙されててようがどうでもよくない?
迫る大きな拳。鼓膜を震わせる罵倒。
今自分の身に起きている正体不明の誘いに対する恐怖と、自身の命に対する諦めがせめぎ合う。
気が付けば、その馬鹿げた話を了承していた。
そうして八月にどうしても外せない“用事”ができたのだ。八月一日に迎えに行くといわれた。その日に間に合わせるために、ユウキは必死に七月中に課題を終わらせたのだった。
天ぷらそばをすすりながら、あの白い封筒が渡された日と、電話がかかって来た日をぼんやりと思い出す。
明日、研究施設へと行くことになっている。
腹立たしいことにユウキの部屋のすぐそばにとまったらしい蝉が、やけにけたたましく鳴き始めた。
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