*5

「一緒に住もうよ」


 退院当日、手伝いに来ていた拓巳が唐突に言った。


 その言葉は提案するような雰囲気を持っていたが、その中に強い意志があることを菜月は感じ取った。さっきまで菜月が着ていた寝間着代わりのTシャツを旅行鞄に詰め込みながら、拓巳は言葉を続ける。


「荷物は俺が運ぶし、手続きも任せてくれればいいから」


「急にそんなこと言われても」


「そんな急でもないよ、もともと半同棲状態だったし。顔合わせも済んでる」


「でも」


「お願いだからさ、いなくならないでほしいんだ」


 真剣な声に菜月は口をつぐんだ。「いなくならないでほしい」そう言った瞬間、拓巳の顔が泣きそうにゆがんで見えた。


 きっと今言った意味は別れではなく死だ。


 元気でね、とも言えず唐突にその場から消え去る、そういうことを指していた。何度も見舞いに来ていた拓巳がこんな表情を菜月に見せるのは初めてだった。


 喉まで上がっていた遠慮の言葉を必死に飲み下す。


「わかった、そうする」


 菜月は今までひとりで住んでいた家には戻らず、拓巳の家に居場所を移すことに決めた。タイミングよく退院祝いに来ていた両親に話をすると「それはいい」と言ってあっさり快諾し、その日のうちに運べる荷物は協力して運び込もうと物事が転がるように進む。


 拓巳の家は殺風景だった。


 せっかく広い家に住んでいるのにこじんまりと暮らし、スペースを持て余していた。その有り余った空間に菜月の洋服タンスやラグなどが運び込まれる。物が少ないといっても男物で揃えられていた部屋に菜月の物をおくと、どうしてもそれだけが浮いて見えた。同棲というより転がり込んできたようで、これには拓巳も苦笑いを浮かべた。


「今度、家具を見に行こうか」


「そうだね」


 大きな窓から差し込む夕日を見ながら菜月は答えた。


 ここからふたりの生活が始まる。


 安心と同時に、菜月の中に窮屈な違和感が生まれた。




 薄暗い部屋で菜月は目を覚ました。その数秒後、玄関の鍵が開く音が聞こえる。


「ただいま」


「おかえり」


 ふかふかと体を包むソファーに座りながら菜月は声をかける。同棲初日は玄関まで出て迎えたが、退院したばかりだからなるべく動かないで休んでいるようにと怒られた。


 買い物も家事も、なにひとつしなくていいと言う拓巳。体にまだ負担をかけられない菜月にとって凄くありがたかったが、反対にとても退屈でもあった。だらだらと昼まで眠ったり、ゆっくりテレビを見るなんて優雅な生活は一週間で飽きた。なにもかも負担させている罪悪感が日に日に募る。


「ご飯にしようか」


「手伝ってもいい?」


 ワイシャツ姿でキッチンに立つ拓巳はその問いかけに一瞬だけ眉を寄せた。


「……少しだけだよ」


「本当に?」


 返ってくると思っていなかったその言葉に菜月の顔は明るくなる。


 ほんの少しの進歩だったが、菜月にはそれがとても嬉しかった。


 前まではソファーから立ちあがるだけでも眼光と座ってて、という言葉が飛んできた。心配性というよりも、もはや過保護だ。医者からは多少制限はあるが、もう普段通りと変わらない生活をしてもいいと言われていた。ここまでされると正直うんざりしてしまう。不満そうな顔をする菜月気持ちは拓巳もわかってはいた。


「これ見ておいてね」


 湯気が立つオムライスとスープが並んだ食卓にぽんとおかれた封筒。白い厚手の紙で丈夫に作られたその封筒の右下に、菜月が通っていた病院名前が載っていた。


「なに?」


「ドナーの資料」


「……え」


「移植受けたあとに影響があるかもしれないから。アレルギーは聞いていたけど、他になにかあったら大変だと思ってお願いしていたんだ」


 スプーンを握っていた手の力が抜けた。カタンと音を立てて机の上を転がる。


 菜月の胸には大きな痕が残っていた。洗面所で服を脱ぐたび目に入ってくる。もうなにも痛みは感じないのに、どうしても向き合うことができなかった。考えたくなかったんだ。もしも、と一瞬不安が襲うがそれはまだ可能性でしかないと振り払った。


 でも今、目の前に突き付けられた事実。


 移植したのは、心臓だ。


 必要なところだけでもいいから目を通すようにと拓巳は言った。確かに重要なものだ。今後の生活に関わってくる。それは菜月自身もわかっていた。けれど、はいそうですかと、知らない人の個人情報を見る気にはならない。


 重い。


 封筒には紙しか入っていないはずなのに、目に見えないものが菜月の手の上にずっしりと乗っかっていた。


 一息ついて書類を取り出し、アレルギーと病歴だけさっと見て封筒にしまい込む。ちらりと見えた十九歳という文字が、菜月の喉を締め付けた。


 菜月よりも六も下、まだ成人もしてもない子が亡くなっている。その事実が菜月にのしかかる。過ぎたことを考えても仕方ないとわかっているが、どうしてもこの子が過ごすはずだった日常を考えずに生きることはできない。


 菜月はこの子に生かされている。

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