*2

 肌を撫でる暖かい風で目を覚ました。


 まばたきを繰り返し、視界をはっきりさせて見えたものをゆっくり観察する。


 質素な天井、仕切りのようなカーテン、棚、窓。寝ているベッド。点滴に芳野菜月様と書いてあった。ヨシノナツキ、それが自分の名前であること思い出した瞬間、ふわふわと浮かんでいた気持ちが地に足がついたみたいに落ち着く。


「ごめん、起こしちゃった?」


 窓際に立っていたスーツ姿の拓巳が振り返った。大丈夫、とゆっくり首を振る。


 まだうまく声が出せない。


 目が覚めてから二日目なら仕方のないことだ。


 「できる限り喋って声帯を動かして」と朝巡回してきた担当医から言われたが、ほんの少しでも声を出そうとすると首が痛かった。きっと凝り固まった筋肉が悲鳴を上げているのだろう。


「果物持ってきたけど、まだちょっと無理かな? お茶なら飲める?」


 茶葉が入った袋とマンゴーを差し出される。


 どっちか指して、という意味だろう。


 これもリハビリかと懸命に腕を上げる。


 震える菜月の指はかろうじてマンゴーを指した。


「こっち? わかった。菜月もよく頑張ったね」


 優しく頭を撫でてベッドの横の椅子に座る。


「さて、どうやろうか」


 まじまじとマンゴーを見つめる拓巳。切り方を知らないまま持ってきたのだろうか。これがりんごやミカンだったのなら安心して任せられたのに。


 菜月はマンゴーの切り方は知っていたが、それを伝えられる方法がなかった。おはようも返せないのなら口での説明は無理だ。文字を書こうにも指をさすので精いっぱいの今じゃ当然できない。


 どうしたものかと見つめていると拓巳はスマートフォンで調べ始めた。


 その手があった。


 意思を伝えるのに携帯を使えばいいじゃないか。書かずとも画面をタップするだけで文字が表示される。これからそうやってなにか伝えればいい。


「菜月は使っちゃだめだよ」


 天才かと思える発想は即時に却下された。そういうなら病院で携帯を使用するのもだめなんじゃないだろうか。個室だから許されるのか。


「よしわかった」


 自信満々に顔を上げた拓巳はかばんから新品のまな板と包丁を取り出した。なぜわざわざ新品を、とギョッとしながら思ったが、会社から来ているのであれば仕方がない。まな板はまだしも、職場に包丁を持っていくなんて誰かに見つかったら大問題だ。


 拓巳がアルコールティッシュで包丁とまな板を拭いてからマンゴーを切った。順調かと思われたが、ちょうど半分に達するところでピタリと動かなくなった。うまくいくよう願っていた菜月の思いはむなしく消える。拓巳は切り方を調べて完璧に覚えたはずなのに、種が入っている方向を全く確認していなかった。


 固まって赤い実を見つめるふたり。


「いや、まだだから、小さく切ろうと思ってたし。菜月もその方が食べやすいよね」


 その通りだとゆっくりうなずく。菜月の反応を見て拓巳はやる気を取り戻したかのようにマンゴーに向き直った。五分ほどして皿に盛られたマンゴーが菜月の前に差し出される。大きさがばらばらで苦労のあとが見えた。


「やわらかい方が食べやすいと思って買ってきたんだけど、慣れないことはするもんじゃないね」


 しょんぼりと肩を落とした。

 

 菜月は催促するように口を開ける。その口におずおずとマンゴーを差し出される。噛むごとに濃厚な甘みが溢れ、菜月は顔をほころばせた。形は多少悪いが味には問題ない。拓巳の努力と一緒に噛みしめる。


「ありがとう」


 食べ終わったあとお礼を言った。果汁のおかげか喉の調子がよくなっていた。


 毎日が筋肉痛のようだった。目を覚ましてから菜月の寝たきり生活は終わり、真逆のリハビリ生活に切り替わった。


 全く動くことがなかったせいで硬くなった筋肉に鞭を打ち、やせ細った体に栄養を流し込む。決められたことをきっちりこなすのは得意だったが、意志に体が全くついていかない。


 喋る、食べる、意思を伝える。日常生活で簡単にこなしてきたことすべてが菜月にとって苦痛だった。それでもやらなければならない。


 もう意地だった。


 リハビリ担当が作る運動メニューに加え、空いた時間を使って積極的に菜月は体を動かした。担当医は体に無理をさせないようにと注意をしたが、そんなことに従っていてはいつまでたっても治らず、辛くて苦しい日を過ごす時間が長くなる。


 菜月は自分がもともとどれくらい動けたのか覚えていた。それを参考にすれば問題ないだろうなんて高をくくっていた。

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