9 鈍色と群青②

 風が雪帆の体を冷やして雪帆を目覚めさせる。疲れが溜まっていたのか、いつの間にか眠っていたらしい。ゆっくり身体を起こすとそこにいたはずの綾斗がいなくなっていた。


 嫌な予感がした。


 緊張と後悔が雪帆を襲う。


 雪帆が眠る前。綾斗は首を吊ろうとしていた。なにしようが勝手だと、そう言って残される人のことも考えず、人生を終わらせようとしていたんだ。


 死のうとしていた綾斗が目の前にいながら見張りもせずに雪帆は眠ってしまった。


 どうしよう。


 リハビリもしていない足じゃどこにも行けないのに。


 病室でぐるぐる考えていてもなにも出ない。雪帆は病室を飛び出した。


 どこにいけばいい?


 綾斗はどこに向かったんだろう。


 病院のどこを探しても綾斗は見つからない。心配と疲労で息は上がり、心臓は張り裂けそうだった。もしかして、と思って戻ってみた病室も空のまま。


 よろける足で最後に残された屋上へと向かう。


 なんで屋上?


 知らない。


 なにも、綾斗がなにを考えているのかわからない。


  階段を上がりきってドアを開ければ、たくさんのシーツが干された屋上に出る。


 反射した光で視界がチカチカする。シーツの先にフェンスにもたれかかる綾斗を見つけて駆け寄りたかったが、雪帆の足は思ったように進まない。


 なにを言えばいい?


 綾斗と付き合ってなければ。

 

 そもそも出会ってなければこんなことにならなかったのに。


 それがわかっている雪帆はいい言葉が浮かばない。


「お前、いっつもそうだよな」


 答えが出ないまま綾斗から声がかかる。


「ほっといてほしい時ほど追いかけてくんの。なんでやめてくんねーの?」


 ああ、まただ。


 雪帆の知らない記憶を綾斗はさも知っているかのように話す。


 綾斗に追いかけられたことはあったけれど、雪帆が追いかけたのはこれが初めてだ。忘れているだけかもと頑張って思い出そうとしても、やっぱり記憶にないものはない。


 じゃあこれは誰に話しているの?


 答えは簡単だ。


「ねえ、綾斗」


「……なんだよ」


「今は私と話をしてよ」


 振り返った綾斗は今まで見たことのない顔をしていた。触れてはいけないところに触れてしまった。綾斗のその顔を見た瞬間に雪帆は気づいた。


 ずるずるとその場に座り込む綾斗。


「ああ……」


 ぼろぼろと崩れるように大粒の涙をこぼす綾斗。嗚咽に混じって優奈と名前を何度も呼ぶ。


「なんで俺をおいてくんだよ。どうせなら連れてってくれよ、なあ」


「綾斗」


「俺、まだお前になんにもしてやれてねーじゃん」


「ねえ」


「戻ってきてくれんならなんでもするよ」


「……っ、優奈さんに向かって言う言葉を私に言わないでよ!」


 綾斗の目が動く。


「死んだ人になに言ったってもう遅いんだよ!」


「……さっきまで生きてたよ」


 真剣な顔でそう言った。


「なに、言ってるの? 綾斗が去年死んだって言ったんじゃん」


 目をそらして答えない。


 大事なことほど綾斗は口をつぐむ。


「嘘ついたの?」


「俺だって知らなかった」


「知らなかったって、そんな。毎年家に行ってたんじゃないの?」


「そんなん、玄関で追い払われるに決まってんだろ」


 決まってるなんてそんなの雪帆は知らない。綾斗がなにも話してくれないから知ることもできない。


 ふと雪帆は思い出した。綾斗が大事に優奈と呼んでいた、苗字は大嶋。廊下で雪帆が見かけた人に看護師は、確かにその人のことをオオシマさんと呼んだ。


「優奈さんが今日死んだから?」


「……なんでお前がそれを知ってんだよ」


「やっぱり、そうなんだ」


「……、事故でこの病院来て、優奈が入院してることをその時知ったんだよ。なんで嘘つかれたんだとか、法事だって言って毎年来る俺のことどう思ってたんだろうかとかずっと考えてたけど、でもやっぱ、そんなの優奈が生きてたらどうでもよくなって……」


 もしかしたら、綾斗が海で溺れたのはわざとなのかもしれない。通院じゃ優奈さんに会うことなんてできないし、病室に行くこともできない。でも入院してしまえば患者として病棟を堂々と歩くことができる。


 危険をおかしてまでも、綾斗は優奈さんのそばにいたいと思ったんだ。


「ごめん、雪帆」


 ぼたぼたと綾斗の目からこぼれる涙。そのきれいなしずくを雪帆が見るのは二回目だった。苦しそうな声で何度もごめんと続ける綾斗。


「優奈さんが好きなんだよね」


 その言葉が自分の口から出た瞬間、雪帆は後悔した。


 言おうと思って言ったわけではない。でも、こらえきれなかった。もし雪帆がそれを言わなければ、このまま綾斗のそばにいられたかもしれないのに。


「……ごめん」


 ぐっと喉が閉まる。


 言葉が続かない。なにも出てこない。不思議と悲しくも悔しくもなかった。きっと、頭のどこかで覚悟していたんだ。


「私のこと、好きじゃなかった?」


「……ごめん、わかんねえ」


「わかんないじゃないよ、好きか好きじゃないか聞いているんだよ。私なんかより優奈さんが好きならそう言ってよ」


「わかんねえんだって」


「……学校で言ったことは嘘だったの?」


 口が、勝手に動く。


「色んなことできるんだって、終わりたくないって、言ったのは綾斗だよね? 好きだからそばにいるだけでいいって。だから私は綾斗と一緒にいたのに。私なんかいらなかったんじゃないの?」


「俺はちゃんと、雪帆のこと好きだったよ」


「綾斗は! 私を通して優奈さんに好きって言ってたんじゃないの?」


「違う」


「なにが違うの!?」


「お前が勝手に俺の気持ちを決めつけんな! 俺は海でお前に会った時からずっと好きだったんだよ。湊と付き合ってるって知ってても、俺の方見てくんねーかなってずっと思ってた」


 苦しそうにうずくまる綾斗。


「優奈がいなくなってから初めて好きになれたんだよ。大事にしたいって、思ってたのに、雪帆を好きになればなるほど、優奈が消えてくんねーんだよ」


 綾斗が優奈さんの名前を大事そうに口にする。どれほど愛おしく思っていたのか、どんな人だったのかも知らない雪帆にでも、それがわかってしまう。


 胸が苦しくなる。


 もう綾斗は雪帆を見てくれない。どんなに目の前で好きだと言っても、遅いんだ。


 きっと誰も悪くない。綾斗も雪帆も、死んでしまったあとまで綾斗を縛り続ける優奈さんでさえも、誰も責めることはできない。


 だからこそ、雪帆の中でわき上がるこの感情をどうすればいいのかわからない。


「ごめんな。俺、すげー自分勝手だな」


 いつもの調子で笑う綾斗。


 続く言葉がわかってしまった。


 時間が止まってほしい。


 そんなものは聞きたくない。なにも言わなくていい。なにも変わらなくていい。

雪帆はこのまま置いていかないでほしかった。


 全部抱え込んでどこかに行かないで。この関係を終わらせないで。


 例えそれが依存だと言われても、雪帆に対する気持ちがなくなってしまっていても、綾斗がそばにいてくれるだけでよかったんだ。


「雪帆、ごめんな。好きだったよ」


 笑顔のまま、綾斗は続けた。


「別れよう」


 ざあっと風が吹き、干されたシーツがばたばたとなびく。


 ああ、真っ白だ。


 雪帆を包む全てが真っ白に変わっていく。頭の中も目の前も、全部全部、消えてなくなっていくようだ。息が詰まって、涙以外なにも出てこない。なにか言わないと、返事をしなくちゃいけないのに。綾斗が、離れていかないように繋ぎとめないと。


「雪帆、俺を見ろ」


 綾斗の手が雪帆の頬に触る。


「俺のことも隆太のことも、お前はなんも悪くない。全部俺のせいで起きたことだから、お前が責任感じてこんなとこにいる必要なんかないんだよ」


「私は、綾斗が好きだからそばにいただけだよ」


「もう十分だよ」


「綾斗がしてくれたことに比べたら全然足りないじゃん」


「俺になにかを返す必要ねーよ。俺が好きで勝手にやったことだし、それを返そうなんて義務みたいに言うなよ」


「でも」


「俺のそばにいようとすんな。もう俺はお前の気持ちに応えらんねーんだから」


「なんで? 抱えた物全部持ってこいって綾斗が言ってくれたんじゃん、支えてやるからって。なのにこんなのってないよ」


「ごめんな、勝手で。偉そうなこと言っておいてお前を傷つけただけだった」


 こんなこと言っても解決しないのはわかっていた。綾斗を責めても物事は進まない。知っているくせに、頭ではわかっているくせに、雪帆は同じ場所から動こうとせず、酷い言葉しか言えない。


 いっそのこと、叱ってほしかった。


「湊のとこ戻れよ」


「……なんで」


「今さらって思うかもしれねーけど、あいつはまだお前のこと待ってるよ」


「でも」


「忘れられてないのはわかってたよ、俺もそうだったし。なんとなくそういうのってわかるんだよ」


 気を使う訳でもなく、雪帆を待つ人はもういなかった。西山くんが雪帆から離れて前に進むと言ったことを、綾斗が知るはずもない。


 雪帆はただ曖昧に頷くことしかできなかった。


「雪帆」


 優しく名前を呼ばれる。


 それがもうこれで最後だと感じた。


「いままでありがと」


 そう言って笑った綾斗。


 空はきれいなほど晴れ渡っていた。

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