7 緑と距離②

 そんなことを雪帆が思っていると西山くんが知るはずもなく、言葉を続けた。


「自分勝手だってわかってる。でも、今でも俺は雪帆が好きだよ」


 ホントに西山くんは勝手だ。今そんなことを言ったらどうなるかなんて、きっとなにも考えてない。欲しかった時にその言葉をくれればよかったのに。そうしたら雪帆がこんなにも悩んで苦しむ必要もなかった。


 でも。


 それでも、心の底から嬉しいと思ってしまう雪帆がいる。


 抑えていた涙が溢れだす。


「別れようって言ったのは俺だから、こんなこと言う資格もないかもしれないけど。俺ならこんな心配かけることもない」


「……ありがと」


 懸命に言葉をのんだ。


 必死にすがりたくなる気持ちを我慢して、伸ばしそうになる手を抑える。自分を押し殺すことをすればするほど、西山くんに返す言葉が短くなる。


 西山くんの声が好きだった。


 雪帆、と優しい声で呼ばれるのが好きだった。その声でもっと呼んで欲しかった。


 なのに、今は雪帆の胸を苦しめているのは西山くんのその声だ。


 西山くんが口を開いて雪帆に向けてなにか喋れば喋るほど、揺れていた気持ちが西山くんの言葉で一つ一つ丁寧に引き戻される。勝手だと思っても、求めていた言葉を今さらながらくれたことで、雪帆の気持ちが一つになろうとしていた。


 でも。


「ごめんなさい」


 今はその手を取ることはできない。


「俺のこと、もう嫌いになっちゃった?」


 こんな時にまで、西山くんは雪帆を優しく包み込む。


 それがすごく痛い。


「嫌いになんかなれないよ」


「それなら俺を選んでよ。もう二度と離したりなんかしない。あの時は自分のことしか考えられなかったからこうなっちゃったけど、今度はちゃんと話し合おう? お互いのこともっと知ってそうすれば」


「今の綾斗を見捨てて、西山くんのとこにいくわけにはいかないの」


 ふっと西山くんの言葉が途切れる。


「辛い時にそばにいてくれたのは綾斗で、それを今返さないといけないと思うの。だから」


「もう遅いってこと?」


「そういうんじゃ─」


 今、なにをしているんだろう。


 雪帆はふと思った。西山くんが向けてくれている気持ちをそのまま受け取るわけにはいかないのに、雪帆は綾斗と一緒にいる自分をまだ好きでいてくれと言おうとした。西山くんが好きだと言うのは遅くないと言おうとした。自然に口に出していた。なのに、それに答える気持ちは雪帆の中にはまだない。好きでも、今すぐ西山くんの所にいけるわけではない。なら綾斗を別れるまで待ってくれというのか。

そんなの自分勝手すぎる。


 夏目さんが言った、どっちも選んでないというのはこういうことだ。


「西山くんには、もっといい人がいると思う」


「……なに、いきなり」


「ごめん」


「遅くないって、今言おうとしたよね? それなのに、もっといい人がいるってなに」


「ごめんなさい」


「ごめんじゃなくて。もっと思ってること言ってよ、なんでも聞くから。じゃないと俺、納得できない」


「西山くんのことは好き。今でもこうやって言ってくれて、すごく嬉しいの。でも、なにも解決してないこんな状態のまま、西山くんの所に行くわけにもいかないし、この先、綾斗と別れるかどうかもわからない。ずるいかもしれないけど、二人とも大事なの」


「待ってるよ。俺は、ずっと」


「だめだよ」


「だめじゃないよ、俺がいいって言ってんだよ。雪帆が今あのひとと付き合ってても、なにをしてても俺は雪帆が好きだよ。どんな雪帆でも好きなんだよ」


「好きな人には、幸せになってほしい」


 真剣な想いを真っ直ぐに向けてくれる西山くんには残酷で、なにも言い返せないとわかっている言葉を、雪帆は放った。


 でも、幸せになってほしいのは嘘じゃない。本心だ。


 雪帆のその言葉に口を閉じ、言いかけた言葉をぐっと飲み込んだ西山くん。眉間にしわを寄せて次に言う言葉を選んでいる。お互いに傷つかない言葉を。


 西山くんはいつでも優しかった。


 自分のことしか考えられなかったと言っていたけれど、雪帆のことをずっと想い、見てくれていたんだ。付き合っている時も、別れたあとでもそれは続いていた。


 雪帆がどうしたら喜ぶのか、なにをしたら悲しむのか、きっと西山くんは全部知っている。


 だからこそ雪帆を一番に想い、言葉をひとつひとつ考えて会話をする。


 いつだってそうだった。


 自然に癖のようにするその行動に、雪帆が気づくことは少なかったけれど、ふとした時に見えた、考えている顔や優しい言葉に込められた、溢れるくらいの想いは、いつも伝わっていた。


 そんな優しすぎる西山くんだから、幸せになってほしい。


 もう一度やり直せて、付き合えたなら雪帆はすごく幸せだ。これ以上ない、死んでしまってもいいと思えるくらい。普段過ごしている日常でも、辛くて潰れそうになっている今でも、大切に扱ってくれているのがわかるからこそ、そう思える。


「最後にお願いしてもいい?」


 軽く息を吐いて、決意をしたように顔を引き締めた西山くんが言った。


「……なに?」


 最後という言葉が雪帆の心をえぐる。


 わかっていたはずなのに、傷つくことを避けられなかった。


「名前、呼んでよ」


「それだけでいいの?」


「それがいい」


 不自然に上がった口角。


 雪帆は見て見ないふりをした。


「湊くん」


 西山くんが消えてしまいそうな声でありがとうと言い、雪帆を抱きしめた。


 ゆっくりと腕をほどいてなにも言わずに立ち去る。


 その優しさが、雪帆のことが好きだと痛いくらい言っているようで苦しくなる。とっさに手をついて謝りたくなった。何度も何度も謝りたくなった。好きなのに、こんなにも西山くんが大好きなのに、気持ちを受け取れなくてごめんなさいと、そう言いたくなった。


 遠くなっていく西山くんの背中。ゆっくりとしたその行動は、雪帆に呼びとめられることを願っているようだった。それに気づいても、雪帆は揺れる袖の端さえ掴むことはできない。


 泣きつきたくなる。胸が苦しくてたまらない。


 雪帆はもうこれ以上抱えきれない。「助けて」そう言ったらきっと、今さっき言った言葉を全部なかったことにして、雪帆を抱きしめてくれる。それがわかってしまう。


 どうして西山くんは、こんなにも優しいんだろう。


 この先どうなるかも、報われるかどうかもわからないのに、はっきりと雪帆に待ってると迷わず言った。なんでこうも全てをかけて雪帆を好いてくれるんだろうか。

きっと、西山くん以上に雪帆を想ってくれる人はいない。


「俺、雪帆が羨ましくなるほど幸せになってみせるから」


 振り返ったあと、にっこり笑って言った。


 強がっている。


 雪帆にはそれがわかった。きっといろんな言葉を飲み込んで絞り出した言葉だ。こんなこと言いたくないと、西山くんの存在全てが雪帆に伝えてくる。


 無理に笑わないで。


 そんなこと、思ってないのに言ったりしないで。


 泣いてしまいそうになる。


 あと一歩で抱えているものを全て投げ出して、すがってしまいそうになる。


 雪帆はなにも言わず、ただ微笑んで手を振った。口を開いたら絶対に呼びとめてしまう。駆け寄って西山くんに抱きついてしまう。


 そんなことをしてしまったら、雪帆自身が願った西山くんの幸せをその手で壊すことになる。


 手を振り返す西山くん。


 今度こそ、雪帆に背を向けて歩き出した。


「大好きだったよ」


 聞こえないように呟いたその言葉が、風に流されて飛んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る