2 銀色と欠片②
「落ちてたよ」
「夏目さんじゃん! やさしー」
「ん? でもこれキャップなくね?」
「あるよ」
夏目さんが振り返ると、その場にいるみんなが雪帆を見る。
これじゃもう、逃げられない。
ゆっくりと近づいてくる西山くん。雪帆の目の前で止まる。
わかっていた、のに、心臓がうるさい。
手のひらに転がるキャップを出す。
これで終わると思った。もう終わりにしてほしかった。
雪帆がどんなに願っても、現実はそう簡単にいかない。
目の前に差し出される赤ペン。先端は雪帆に向いている。
なにも言わない西山くん。
なんで。ホントに、もう勘弁して。
キャップを持って差し出せば、カチと音を立ててしまる。
「ありがと」
それだけだった。
たったその一言だけで、十分だった。
去っていく西山くんの背中がどんどん遠くなっていく。その姿を見ながら雪帆はずるずるとしゃがみ込む。拭っても拭っても、涙が止まらなかった。
「雪ちゃん、私ね、もう雪ちゃんが泣いてるとこ見たくないんだ」
「……ごめん」
「あのひとと付き合うのはやめた方がいいと思う。西山くんと付き合ってた雪ちゃんの方が可愛かったし、私は好きだったよ」
なんだか、夏目さんにはなにもかも見透かされているような気がした。
雪帆は西山くんより綾斗を好きになろうとしている。誕生日の前祝いで綾斗に魅かれて好きになったのは事実だけど、最近はもう、それを維持しようとしていた。
雪帆自身、それがわかり始めていたんだ。遊びに行くにしても、放課後一緒に帰るにしても、どきどきと緊張していたのは西山くんだった。
頬がゆるんだのも眠れない夜を過ごしたのも、楽しい記憶にはぜんぶ西山くんがいた。そばにいて支えてくれたのは綾斗なのに、今の雪帆の頭にはどうしても西山くんが出てきてしまう。
でも、もう。
「戻れないよ」
「そんなことない」
はっきりと言いきった。
どうしてそんなことが言えるの。
「わかんない? なにも」
わかるもなにも、雪帆は西山くんを見てない。さっきだって、俯いて西山くんが目の前から去ってくれるのをただ待っていただけだ。顔なんか見れるはずがない。
「西山くんは─」
「雪帆」
夏目さんの言葉を綾斗の声がさえぎった。タイミングが悪い。ぐっと綾斗をきつく睨んだ夏目さん。消された言葉の先をもう言ってはくれない。
「帰るぞ」
泣いている雪帆を心配もせずにただそう言った。
いつもの習慣、それを断る理由も用事も雪帆にはない。頷いて綾斗についていこうとした時、夏目さんの手がそれを止めた。
「行かないで」
切ない声だった。
雪帆を引き止めたその手は微かに震えていた。夏目さんが雪帆を掴んでいる力は、綾斗や西山くんに比べ物にならないくらい弱々しくて、雪帆の力でも簡単にほどけてしまうほど。それでも、そのわずかな力だけで動けなくなってしまうのは、夏目さんの視線のせいだろうか。
それはまるで、愛おしい人に向ける視線のようだった。
「なにしてんだよ」
綾斗が雪帆の腕を掴んで乱暴に引っ張る。
する、と夏目さんの手が離れていく。少し冷たい体温が名残惜しいのはどうしてだろう。
夏目さんの視線を背中に感じながらその場を去った。
「雪帆はそのままでいい」
立ち止まって雪帆を真っすぐ見た。
「なんも考えんな」
もしかして、わざとあの時声をかけたの?
なにを言われるのかわかっていたから、聞こえないようにしたの?
階段を下って行く綾斗の背中に、その疑問をぶつけたかった。
下駄箱に着くと自然に別れて自分の靴を取りに行く。また足が止まる。誕生日の時を再現しているようだった。少し考えればわかることだ。雪帆たちを置いて先に行った西山くんが、下駄箱にいてもおかしくない。そんな簡単なことに気づかないほど、雪帆は余裕をなくしていた。
目の前にいる西山くんは薄い青の手紙を持ってそこに立っていた。持っている手紙は明らかに女の子から出されたもの。西山くんが人気者だと、今改めて知る。
西山くんが雪帆に気づく。
悲しみにのまれたような視線に包まれる。まるで雪帆からの言葉を待っているようだった。
わかんない? と夏目さんが言った言葉を思い出した。
わかんないよ。
なにも、わかんない。
なんでそんな目で見るのかも、雪帆に見えるように手紙を持っているのかも。
なんて言えばいい?
行かないで? そんなこと、雪帆には言えない。
「湊、なにしてんの」
「……今行く」
ぐしゃっと手紙をポケットに押し込んで雪帆に背を向けた。
「雪帆」
綾斗が呼んでいる。多分、今の全部見ていた。
「海いこ、今度」
「……もう寒くない?」
「まだいけるだろ、最後に行っておきたい」
夏の最後に。
そういえば、蝉の声が少なくなった気がした。
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