12 橙と傷③

 泣いた顔を洗った雪帆は、人がまばらになった廊下を歩いていた。


 部活動の声が校舎まで響いてくる。


 帰るタイミングを間違えた。


 こんな人が少なければもしまだ綾斗が学校にいたら帰っている姿を見られてしまう。隠れてないでむしろ人に紛れて帰ってしまえばよかったんだ。


 どうしよう。まとまらない考えと同じようにふらふらと校舎内を歩く。


 行き着いた旧校舎で溜息を吐いた。


 適当な所に腰かけてぼんやり新校舎を見る。


 普段気がつかないだけで、こっちを見ようと思えば見れるんだ。雪帆達が過ごしている階にも窓があって今も誰かがこっちを。


「─」


 見覚えがある。


 夕日で反射してはっきり姿を見ることはできないけれど、それでも誰かわかってしまうのは、いつも隣にいてくれた、西山くんだからだ。



 こんなこと想像もしてなかった。


 だって、できるわけない。

 

 今の雪帆には、そんな余裕がないんだから。

 

 ばたばたと駆ける足音に引き戻される。


 誰かが廊下を走り去っていった。


 忙しいんだな、と雪帆がのんきに思っていると、過ぎ去った足音が戻ってくる。


「こんなとこにいたのかよ!」


 綾斗が息を切らしてそこにいた。


 長い前髪を乱して汗を垂らしている。


「お前なあ、朝から探してたんだぞ。授業終わる度にお前の教室行ってもいねーし、携帯繋がらねーし」


 そんなこと頼んでいないのに、どこかでそうして欲しいと雪帆は期待していた。


 なにも答えが出てないのに、会ってなにを話せばいい?


「雪帆!」


 綾斗の声を背中で感じる。


 気がつけば雪帆は駆けだしていた。


 おい待てよ。と遠くで聞こえる綾斗の声が雪帆の足を止めようと絡まる。


 細くてもろい糸が絡まって、雪帆が足を動かすたびにぶちぶちと千切れていく。切れば切るほど、綾斗と雪帆の心の距離がひらいていくようだった。


 このまま家まで帰ってしまったら、どうなるんだろう。


「お前も、俺を置いてくのかよ!」


 雪帆の走る速度が落ちて立ち止まる。


「お前、意外と走んの早─」


「もって、なに」


「は?」


「お前もって、一緒にしないでよ。綾斗が悪いんじゃん。優奈さんを引きずってるから、だから……」


 じわ、とさっき泣いたばかりなのに涙が浮かぶ。


 綾斗は悪くないのはわかっているのに、なにを責めればいいのかわからず当たってしまう。そんな自分が一番腹立たしかった。


 涙を見られないように顔を伏せるとその瞬間、雪帆からふっと言葉が消える。


 綾斗は上靴のままだった。


 外靴に履き替えもせず、あの窓を飛び越えて雪帆を追いかけてきたんだ。


「俺の中に優奈がいないなんて言いきれねーけど、今好きなのは雪帆なんだよ」


「死んだ人には勝てないよ」


「別に勝つ必要ねーだろ。もう死んでんだから」


「……死んじゃって、なにもできないから綾斗の中できれいなまま残ってんじゃん」


 そんなこと言ったってどうにもなんないのに、雪帆はそこから進んでいこうとする綾斗を理解できなかった。昔のことを今さらなにをいっても変わんないなんてこと雪帆は痛いほどわかっていたはずだ。


 なのに。


「綾斗が優奈さんといた四年は、私には大きすぎる」


「それはそれだろ。お前はなにがしたいの、埋めようとか考えてんだったらそんなんすぐやめろ。俺はお前がそばにいればいいんだよ。死んだやつ相手に勝負すようとすんな」


「勝負なんて、そんなんじゃないよ」


「死んだやつに俺らはなんもできねーよ。でもな、死んだやつも俺らになんもできねーだろ」


「できるできないじゃなくて、優奈さんが綾斗にしたことは残ってるじゃん。私はそれを知らないから、同じことするかもしれないし、その度に綾斗は優奈さんを思い出すんでしょ」


「それを言ったら湊もそうだろ」


 なんでここで西山くんが出てくるの。


 それは関係ないでしょ。


 今は綾斗と話をしているんだよ。


「俺だって、湊のことは気になるよ。なにをどこまでしたんだろとか、でも、そんなん考えてても無駄だと思うから、時間かかっても俺との時間で湊が薄れていけばいいって思ってる」


 一歩、綾斗が雪帆に近づく。


「俺らはこうやって話したり色んなことできるだろ。俺の前にお前がいて、お前の前に俺がいるだけでいいよ。まだなんだってできんだから」


 綾斗の頬に一筋の涙が流れる。


「ごめんな、俺はこんなんでも雪帆が好きなんだよ。俺は、お前と終わりたくない。お前には離れていってほしくない」


 弱々しく手を伸ばしてそっと雪帆の手を握る綾斗。


 力任せに抱きよせて離さないことだって綾斗はできたはずだ。


 なのに、雪帆の力でも簡単に振りほどけるほどの力で手を握っているのは、無理やり繋ぎとめても無駄だということを綾斗はわかっていて、雪帆に判断を任せているからだろう。

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