10 橙と傷
「言うの忘れてたんだけど、今日と明日、一人で帰って」
「……なにか用事?」
めずらしく昼休みに綾斗が雪帆を訪ねてきた。
二年生の階に三年生がいると目立つし見られるのが嫌いだという綾斗は、放課後かなにか物を借りに来る時以外雪帆の所に来ることは、ほとんどなかったのに。
「そう、俺にも色々あんの」
受験関係のなにかだろう。そう雪帆は思ったから、わかったとその返事一つで終わった。ごまかされたと違和感を感じていたくせに、気づかないふりをした。
気になっていることを聞くこともできずに、時間は過ぎる。
「雪帆、帰ろ」
「デートは?」
いつも先に帰ってしまう美波が今日は雪帆を誘ってきた。
隆太も受験だから、と用事があるんだろうか。
「隆太、今日学校来てないから」
「どうして?」
「法事」
「あ、そうなんだ」
美波の彼氏だからといっても雪帆にそんな関わりがある人ではなかった。実際、海に遊びに行った日と一緒に帰った日以外、すれ違ってもいない。綾斗と会っても隆太がそこにくっついてくるわけじゃない。だからこの話は雪帆には関係ないと思ったんだ。
「綾斗もそうでしょ?」
「……え」
予想外の言葉が雪帆に降りかかる。
「綾斗も隆太も同じとこ行ってるって……ねえ、もしかしてなにも聞いてない?」
美波の言葉は雪帆に届いていなかった。
なんとか綾斗と連絡を取った雪帆は、美波と帰らずに知らない道を歩いていた。
閑静な住宅が並ぶその先に、綾斗がいると言っていた一つの家。雪帆がそこにたどりつくと、玄関の戸が開いて綾斗が出てきた。
「今から家来いよ」
「……え」
「話ってどうせ今日のことだろ。聞きたいなら来れば」
いつもの調子、口が悪い綾斗。
今日ぐらいは、と雪帆は綾斗が出てきた家を見つめる。
雪帆に向ける優しさは、もうないのかもしれない。
家に着くと本棚をあさり、奥から引っ張り出したのは中学の卒業アルバム。ぱらぱらとページをめくっていき、止まる。
「これ、こいつ大嶋優奈」
綾斗が指さした人物に目を向ける。
綾斗がどうして今の髪型に対して昔の方がいいと言った理由がわかった。
似てたんだ。
雪帆とそっくりだった。
「死んだのは去年」
とんとん、と指で優奈さんを撫でるような動きをする。
「あんま覚えてねーけど、多分中学一年の時から付き合ってた。雪帆達と行ったみたいに海に行って、そしたらあいつ、一緒に泳ぎたいとか言いだして上手くもないくせに海で練習なんかして、台風が来てる日にも行ってんだよ」
バカだろ。
そう、呆れたように笑った。
誰がどう聞いても辛い思い出をもう気にしてないというように、軽く笑って話す綾斗。その姿は余計に雪帆を苦しめていることに気づいていない。
「話したら雪帆は重く取るだろ? 俺はそれが嫌だったし、気を使わせたくなかった」
そういうんじゃない。言い訳めいた言葉はどうでもいい。
「綾斗は、まだ優奈さんのことが好きなんでしょ?」
「……なに、言いだすんだよ」
「だからまだ法事行くんじゃん」
「俺のせいで死んだからだよ」
「勝手に海に行って勝手に死んだみたいに言ったのに、そうやって責任あるように言うのは違うんじゃないの。好きだからそう言うんでしょ、気持ちがまだ残ってるから、私になにも話さなかったんじゃないの」
綾斗の開いた口が静かに閉じた。
踏み込んではいけない所まで雪帆は踏み込んでいた。感情に任せて、綾斗が今どんなに傷付いて苦しんでいるかも知らずに、ずかずかと勝手に入ってきて感情をぶちまけて荒らした。
「そうだな。……お前の言うとおりだよ、俺はまだ優奈を引きずってる」
やっぱり。
雪帆の中で、その言葉が一番納得できた。
綾斗はまだ想っている人がいる。
「ごめんな」
「なんで謝るの。そのごめんはなに?」
「……ごめん」
「私より優奈さんが好きでごめんってこと?」
「……は?」
「だってそうじゃん! どう考えたってそうなるじゃん!」
「おい、そんな」
「優奈さんが生きてたら、私を好きにならなかったでしょ?」
そんなことない。そう言ってほしかった。
雪帆が言った言葉を全部否定してほしかった。
もしまだ、綾斗の中に優奈さんに対する気持ちが残っていたとしても、今は雪帆が一番だって、そう言ってくれればよかったんだ。自分で持ちだしたことなのに、違うと言ってほしかった。大丈夫だと、安心したかった。ただそれだけなのに、雪帆は今、この時知った。
答えを聞かなくてもわかる。
綾斗はまだ優奈さんが好きだ。
雪帆なんかより、ずっと。
「……もういい」
「は? おい」
「帰る」
「なあ雪帆!」
綾斗の言葉を背中に受けながら、雪帆は綾斗の家から飛び出した。
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