2 黒と赤②

「助かった。辞書が必要な時は雪帆に借りるから」


 廊下側の窓から返される辞書。


 教室に入ろうとしない綾斗は、そのままの体勢で雪帆に笑いかけた。


「いや、持ってきなよ」


「やだよ重いし、今後使うこともすくねーし」


「えー」


「頼りにしてる」


 そう優しく笑って頭を撫でた綾斗。なにげない仕草が雪帆の心に残ったのは、普段見せない表情を現したからだろうか。


「……あのね」


「ん?」


「海の時、ごめんね」


 ああ、と軽く返ってきた。


 もっと深刻な顔するかと思いきや、そんなことかというような表情。


 なにも思っていないのか、触れてほしくないことがあるのか、雪帆にはわからないけれど、なにかあるんじゃないかと、なんとなく思ってしまった。

 

 だからこのまま話を終わらせたくないと、雪帆は言葉を続ける。


「泳いでるのすごくきれいだった。魚みたいって言ったら変かもだけど、もっと近くで見たいって思ってつい飛び込んじゃって」


「雪帆」


 言葉を止められる。


「照れるから、やめて」


 不快にさせたかと心配になった途端に、頬をほんのり赤くした綾斗が視界に飛び込んでくる。その姿があまりにも珍しくて、まじまじと見つめる。


「見んなバカ」


 頭を小突かれる。


「雪帆」


 廊下にたたずむ西山くん。その表情は少し曇っていた。


 綾斗と二人で楽しそうに話していた姿をいつから見ていたんだろうか。もし、海の話も聞いていたのなら、なにか勘違いを生んでいるのかもと不安になる。


 いやでも、誤解されるようなことを雪帆は言ってないんだし。なにも隠すことはないんじゃないか。でも、だったらなんでそんな顔をしているんだろう。


「じゃあな」


 雪帆と西山くんを残して去っていく綾斗。


 入れ替わるように西山くんが立つ。


「なに喋ってたの?」


「海のこと、謝ってたの」


「……そう」


 なんだか安心したようだった。西山くんが心配するようなことをしたつもりがない

雪帆が、この時西山くんが抱いていた気持ちに気づくはずがない。


「帰る?」


「ああ、それなんだけど、先生に雑用押しつけられてさ。待っててって言いたいんだけど、いつ終わるのか正直わかんなくって」


「そっかー、一緒に帰れないんだ」


「……寂しい?」


「泣いちゃうかも」


 にんまりと意地悪な顔をしていた西山くんに、仕返しをする気で雪帆がそう言うと一気に顔が赤くなる。自分で仕掛けたことなのに、雪帆の返しに毎回顔を真っ赤にさせている。


深い溜息を吐いた。


「そんな可愛いこと言われると、一人で帰したくなくなる」


「どうする? 待ってる?」


「んんー、いや、ダメ。明るいうちに帰って下さい」


「わかった」


 荷物を持つ雪帆。それをじっと見つめている西山くん。


 やっぱり二人で帰りたかったんだろうか。それにしては熱っぽい視線だった。


「……雪帆」


「ん?」


 言いにくそうに口が動く。


「キスしていい?」


「ここで?」


 ダメ?


 そう言われて断れる人なんているんだろうか。


 夕日に照らされる教室も廊下も、人はもういなくて二人を邪魔するものはない。


 西山くんと雪帆だけの世界だった。


 そこからからお互いに顔を近づけるのは自然なことで、ゆっくりと雪帆は目を閉じた。


「気をつけて帰ってね」


 口が離れるとなにもなかったかのようにそう言った。


 照れ隠しだとわかっていた。


 ここには二人しかいないんだから、なにも隠すことはないのに。


 西山くんとキスをするのは二回目で、恥ずかしい気持ちは雪帆にもあった。


 付き合うことも、好きだという気持ちを口にするのもなにもかも初めてで、手探りの日々を過ごしている。


 西山くんが雪帆に向けてくれる笑顔も想いも全部、雪帆の心を揺さぶって温かい気持ちにさせる。


 その中で唯一、このキスだけは雪帆の心に寂しい気持ちがほんのり広がっていた。


 去っていく西山くんの背中を見つめる雪帆は、自分の中に複雑な気持ちが生まれたことに気がついていた。


 その気持ちを抱えながら教室を出て下駄箱に向かう。


 もし、西山くんに話せたら、どうしてくれるんだろう。


「なにしょげてんの」


「わっ」


 びっくりした。


 先に帰ったはずの綾斗がそこにいた。


「……しょげてない」


「湊は? 喋ってただろ」


「先生のお手伝い」


「へー、お前一人で帰んの」


 へらへら笑っている。なんだか腹が立つ。


「そうだけど」


「りゅうたあ、一人追加」


「ん? 雪ちゃんじゃん。いいよー」


「めし食って帰っから、一緒に来れば?」


「女の子にもんじゃは重いよね。他んとこ行こ」


「はあ? 別にいいだろそんくらい」


 どこに行くか揉めて言い合う二人を見て、雪帆は笑みがこぼれた。

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