10 傘と世界③
タオルをかぶったまま知らない道を歩いて、行き着いた先はマンションの一室。
靴を脱いで奥に消えていった西山くんが、タオルを抱えて戻ってきた。
「とりあえずこれで拭いて。着替えは用意したから、洗面所使って」
「え、でも」
「いいから早く、風邪ひくよ」
水をたっぷり吸いこんだ靴から足を抜き、靴下もついでに脱いで廊下を歩く。
振り返れば鍵が開きっぱなしの玄関。
なんとも不用心。
「あ、鍵閉めなくていいから」
「危なくない?」
「上本さんはその方が安心でしょ?」
雪帆がなにか言う前に、洗面所こっちだよと話を切り変えた。
「脱いだものはハンガーにかけておいて。除湿機の前に置いとけば多分、乾くと思うから」
「このまま帰っても全然構わないんだけど」
「いーから、早く。俺リビングにいるから」
言われた通りに洗面所に入り、濡れた頭を拭く。
タオルが積まれているラックの上に、紺色のパーカーが置いてある。西山くんがさっき言っていた着替えはこれを指していたんだろうか。手にとって広げてみれば思ったより大きく、きっと西山くんのものなんだろうと雪帆は想像する。
そっとラックに戻して着ているワイシャツに手をかける。視線が下がると西山くんが慌ててタオルを被せた理由がわかった気がした。
濡れたワイシャツが、下に着ているキャミソールの色をぼんやり浮かび上がらせていた。
なんとも悪いことをしてしまった気分。
肌に張り付く制服を脱いでパーカーに袖を通す。ワンピースのように膝まで広がるパーカー。西山くんのにおいに包まれる。
制服をハンガーにかけて洗面所を出てリビングに向かう。
「制服、かけてきた?」
「かけてきたよ」
「うん」
よしよしと頷く西山くん。さっきまで濡れてぺしゃんこにつぶれていた髪が少し広がって、制服がラフな普段着に変わっていた。
「こっち座りなよ」
ソファーをぽんぽんと叩く。それに寄せられソファーに近づく雪帆。
「えっ。俺それしか出さなかったっけ」
「……そうだね?」
洗面所のラックの上にはパーカーしかなかったはず。
「ごめん、ジャージでいい? それならすぐ出せるから」
「いいよこれで、ワンピースみたいだし動きやすいよ。そんな私に気を使わないで、制服だって乾かしてもらってるし」
「いや、でも」
「いいの、大丈夫」
「……そう、ならそのままで」
雪帆が少し強く言うとしぶしぶ引きさがり、再度ソファーに誘う。
ふかふかなソファーは、ゆったりした作りで大きく感じたのに、西山くんと二人で並んで座ると思ったより狭かった。
横を見ればすぐそこに西山くんがいる。その事実に少し胸が躍らせる雪帆。
静かな家の中で聞こえるのは、心臓の音とテレビの音だけ。
「そういえば親御さんは?」
「いないよ」
「いないの?」
「共働きで夜遅いから。だから玄関の鍵開けといてって言ったんだよ」
「へぇ……」
「わかってないね。まあ、それでもいいけど」
西山くんが視線をテレビにうつす。リモコンをいじってチャンネルを次々と変えていく。
ふわふわと揺れる髪のせいで学校とは違って見える。
「なに?」
照れたように微笑む。いつもと変わらない、見慣れた笑顔のはずなのに、不思議とその優しい笑みが、雪帆を強くつかんで離さない。
西山くんの上がっていた頬が下がり、視線が鋭くなる。その目にどきりとする雪帆。今まで見たことがない、全て見透かされるような、のまれてしまいそうな感覚に溺れそうになっていると、気づいた時にはまつ毛ぶつかりそうな距離にまで、西山くんの顔が近づいていた。
すぐに距離をとって見つめ返すと、西山くんは少し寂しそうな顔をした。
「俺が上本さんのこと好きなのはわかってるよね」
「……うん」
「俺が言った好きは、こういうことしたいって意味の好きだよ」
「……ちょっと意外」
「俺だって男なんだからそういうことも考えるんだよ」
拗ねながらそう言った。
視線を外し、小さい子供の言い訳のようにこれ以上のこともしたいって思ってんだよ、そう西山くんは呟いた。
少しずつ赤く染まる頬を隠すようにそっぽを向く西山くん。
その行動のせいなのか、二人を包む雰囲気のせいなのか、理由はわからないけど、雪帆は胸が苦しくなり、なぜか泣きたくなった。謝りたいわけじゃないけど、ごめんという言葉が出てしまいそうで口をつぐむ。
この苦しさが、今の状況から作りだされたものではないことは、雪帆自身十分にわかっていた。
きっと雪帆はあの日、西山くんから告白をされた日から、無意識に西山くんを探し
ていた。目で追っていてなんだかよく目が合うな、なんて思っていたのは、雪帆の思い違いや偶然なんかではなくて。雪帆が西山くんを目で追うのと同じように、西山くんも雪帆の姿を探して目で追っていたからで、その理由はきっと、心の奥底でわかっていたはずなんだ。
いつなにがきっかけで、なんて考えたって、はっきりとした答えは出ない。
気づいた時にはもう遅いんだ。
こっちを見てほしい。
私を見て話をしてほしい、と雪帆は心の底からそう思った。
思っていることを、つたない言葉でも聞いてほしい。なのに、自分で抱いている気持ちを認めようともせずに見ないふりして、気がつかないふりして、困らせたあげく、言わなくていいことまで言わせてしまった。
完全に雪帆のせいだ。雪帆のわがままでこうなった。
それでも、こんな時にでも雪帆は、西山に触れたいと思ってしまう。
気づけば手を伸ばして、西山くんのふわふわした髪に触れていた。さらさらと指のあいだを流れていく柔らかい髪。西山くんがゆっくり振り返ると、さっきと同じ、のまれそうな視線を向けられた。
目が合う。
瞬きをしても、その目はお互いを捕えたまま。髪に触れた手を引こうとしない雪帆。苦しそうに眉間にしわを寄せる西山くんが、同じように手を伸ばして雪帆を捕まえる。ゆったりとした動きで、雪帆が逃げたりよけることはいくらでもできた。でもそれをしなかったのは。西山くんが向ける視線のせいではなく、雪帆の意思だ。
肩に西山くんの体温を感じる。ぐっと力こめて押されると、あっさり倒れる雪帆。
ソファーの感触を背中で感じる。天井と西山くんの顔しか見えない。西山くんが雪帆の顔の横に腕をついて上に乗っかると、重力に従って落ちてきた髪の先が雪帆の鼻先をくすぐる。
「さすがにわかってくれないと困るんだけど」
「……ごめん」
「うぬぼれも勘違いしたくないから、これ以上のこともしたいとか言ったんだよ。鍵を閉めなかった理由だって少し考えればわかることじゃん。このまま押さえつけることだって簡単にできんのに、なんで逃げないの?」
「そんなことしないでしょ?」
「……しないよ、俺はそんなことしたくない。でも、少しは警戒ぐらいしてくれないと」
「西山くんは優しいから」
「なんでそういうこと、今言うんだよ。無防備すぎだって言ってんだよ。今だって抵抗なんかしないし。好きでもない男にのしかかられてるんだよ」
「……それは違うよ」
「は……? なに?」
「どれくらいとか、いつからとかわからないけど、こうやって一緒にいると楽しいし」
「……」
気恥ずかしくなる雪帆。心臓がうるさい。
ああきっと、西山くんはこれよりもっと緊張していたんだろうな。
「……好きな人だよ」
時間が止まったように固まった西山くんの顔が、少しずつ緩み、赤く染まっていく。
ぼすん、と雪帆の顔の横に頭を埋めた。西山くんの頬が持つ熱がじんわりと雪帆にも伝わる。
「俺と付き合ってくれんの」
こもった声が少し震えていた。
「私でよければ」
むくっ、と起き上がった西山くんの頬はさっきより赤みが落ち着いていた。
うっとりとした目で雪帆を見つめ、ふっと息を吐いた。
「上本さんがいいんだよ」
まるで泣きそうな声でそう言い、優しく雪帆を抱きしめた。
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