第24話 蒼き川を行く紙舟
すでに日は沈み、空は薄紫から青が深くなり始めていた。
屋敷の中庭には五色の七夕幕が張られ東屋に設けられた祭壇の両脇には、青々とした竹が飾られ水の恵み地の恵みが供えられた。七夕節は王府による大切な儀式の一つだ。七夕節の準備が整った中庭に皆が集まると、辰斗王の声により天に向かい感謝と祈りが捧げられる。その儀式が済むと賑やかな宴が始まる。
宴では竹葉酒や竹葉茶が振る舞われ、五色の麺と五色の甘い麩菓子が並ぶのが慣例。子どもらは好きな色の麩菓子に我先にと手を伸ばす。
蒼天の七夕節で用いられる五色は、蒼、桜、黄、紅、緑。この五色の布で作られた七夕幕を見た七杏は、黄陽にいた頃に雲外洞で見つけた絹糸で織り上げた天女の羽衣を思い出した。
「泰様。この五色と同じ絹糸を天女様から頂いたの。私が黄陽で織り上げた羽衣も、この七夕幕と同じ五色だったわ。この五色の組み合わせは、黄陽には無い組み合わせだったから、珍しく思っていたの。」
「誠か? 杏。蒼天ではずっと、七夕節にはこの五色を用いて来たのだ。まさか君が、黄陽で織り上げた羽衣が、この五色の組み合わせだったとは・・・」
「えぇ。今、私も驚いています。あの時、吉紫山に返した羽衣と同じだなんて・・・ あの天女様は、蒼天から参られた方だったのかしら・・・」
七杏は、東屋を囲むように庭に貼られた七夕幕を見つめている。
「君が会った天女様が蒼天の方でも、黄陽の方であっても、我々の情絲の守り神である事は間違いない。きっと私たち二人を、見守ってくださっていたのだ。」
「えぇ、そうですね。きっと。」
七杏は、目の前の泰極を見つめた。
「この蒼天の五色には、それぞれ尊い意味があるのだ。蒼は、蒼天が最も大切にしてきた色。この国の空と水の色。そして、民の希望の色だ。
桜は、春の喜びの色。厳しい冬を越え、痛みや悲しみを越えた先に迎えた春の優しさの色。黄は、小麦や米の実りの色。豊かな土と富の色。紅は、火の神の色。命の源の色。そして、邪気を祓う守りの色でもある。緑は、草木の成長と繁栄の色。この国の未来を担う力が、すくすくと育まれることを願う色だ。」
「まぁ。そのように深い意味があったのですね。では、私が織り上げた羽衣にも・・・ きっと、吉紫山の桜木も竹林も、ずっとずっと大切にされ育まれてゆきますね。あの霊薬も、民の助けとなりますね。」
「あぁ、きっと。そう在るに違いない。」
泰極は、しっかりと七杏を見つめ手を取って言った。
無事に今年も天に祈りが捧げられ、賑やかな宴の時を迎える事ができ王府の中庭が多勢の笑い声と喜びで満たされた。子どもらは麩菓子を手に走り回り、大人たちは夕涼みの風にあたりながら竹葉の酒や茶を味わっている。笹竹を彩る子どもらの願いを留めた五色の短冊が、上弦の月明かりに照らされ風に揺れる。平穏な蒼天の七夕節の夕暮れも、今年はより一層の喜びに包まれているようだ。
宴の賑わいが高まった頃、辰斗王より泰極と七杏の婚約が皆に公布された。皆の前で照れながら微笑む泰極と七杏の姿を、空心、静月、陽平は眩しく見つめた。辰斗王と文世、その妻の芙蓮の胸には、安堵と幸せが広がった。泰極と七杏は一通りの挨拶を済ませると、婚約の公布に更に喜びが増した宴の中庭を秘かに離れ、王府の東を流れる青星川にやって来た。
この川の水は王府の北、龍峰山より流れる伏流水で、とても清らかで蒼く美しい。王府はこの水を大切に保っている。その川に、七杏が教えてくれた黄陽の習いの七夕節の紙舟を二人で流しに来たのだ。夜空の下の蒼く澄んだ川の流れには、空の星が映り天の川が下りて来たかのようだった。
泰極が胸元から昼間に二人で名を入れた紙舟を取り出し、二人がかがんで水の流れに手渡そうとすると、そこに一葉の紙舟が流れてきた。もう半分以上に水が浸み込み透き通った紙舟には、静月と陽平の名が浮かんでいる。
「あっ、これは・・・」
七杏が言葉に仕掛けて泰極の顔を見ると、泰極はその言葉を遮るように首を横に振った。
「人の願いについて、他人が言葉にしてはいけない。きっとね。だから静かに見送ろう。」
と泰極が囁き黙って見送った。
小さな紙舟が見えなくなると、
「なぁ、杏。いつか聞いてみたいと思っていた事があるのだけど、今聞いてもよいか?」
「まぁ、珍しいですね。そのように改まって聞くなんて。どのような事かしら?」
「うん。君が、伴修が持って来た蛇鼠様の邪香に惑わされた時の事だ。」
少し悪戯っぽく笑いながら話し出した泰極に、七杏は恥ずかしそうに苦笑いした。
「あの時、伴修は心からの愛の言葉を失って後悔した。そして凰扇様が現れて蓮の葉を三枚くれた。凰扇様は、その葉に書いた三つの言葉だけは取り戻せると云い、その三つの言葉は杏、君が書くのだと云ったよね。」
「えぇ、そうでしたわ。そう云われて私はすぐに書いたの。」
「そう。君は迷う事無くすぐに、あの三つの言葉を書いた。」
「えぇ、〈感謝致します〉〈申し訳ございません〉〈愛しています〉この三つの言葉を書いたわ。」
「そう、それなのだよ。なぜ少しも迷わずに、その三つの言葉を書いたのか? 私だったら考え込んでしまって、直ぐには書けずにいたと思うのだ。」
「そのように思ってくださっていたのですね。あの三つの言葉は、幼い頃から空心様に幾度も幾度も教えられて育ったのです。
空心様は、
〈人様に助けて頂いたり天の計らいに出逢ったら、‘感謝致します’と手を合わせ。悪い事をしてしまったり、こちらに悪心がなくとも人様を悲しませてしまったら‘申し訳ございません’と手をついて。大事な人には‘愛しています’と手を取って丁寧に伝えること。この三つは忘れちゃいけないよ。日常というのは大きな風呂敷のようなもので、時々、人の行いや人の心を包み込んで見えなくしてしまう。だから、こちらから‘愛しています’と声を発して風呂敷を解き、人の行いや心を見つけられるようにすることが大事なんだよ。〉って教えてくださったの。」
「ほう、素敵だね。さすが空心様だ。」
「ふふふっ。でもね。あまりにも幾度も云われるものだから暗唱できるようになってしまって。ある日、小坊主たちの前で空心様の真似をして今の話をしていたの。そうしたらいつの間にか後ろに空心様がいて、
〈桜、よく暗唱できておるぞ。感心、感心。だがな、ただ覚えている事と分かっている事とは違うのだぞ。しっかりとその三つを行える人になりなさい。〉って叱られてしまったの。」
「はははっ。その真似た姿を、私も見てみたかった。」
「いいわ。いつでも真似してあげる。」
「杏、君は空心様からたくさんの大事な心を教えられて育ったのだね。そしてその教えが根付いている。だからあの時、迷う事無くすぐに三つの大事な言葉を選べた。きっと凰扇様は、それを知っていたのだな。だから君に言葉を書かせた。」
「そうなのかしら? でも、空心様に教えられた事が役に立ったのだから善かったわ。」
七杏は少し照れくさそうに笑って、泰極を見つめた。
「さぁ、私たちの舟も。」
泰極が二人の紙舟を川の流れに乗せた。そして、泰極は七杏の手を取り、
「私は、あなたを愛しています。」
と丁寧に言った。
そして、
「私も、あなたを愛しています。」
と七杏が泰極を見つめて言った。
川面に白く浮かんだ紙舟は、上弦の月明かりに照らされ地に下りた天の川をゆっくりと渡って行く。二人はこの後も互いの心の航路が永く永く続くことを祈って、流れを行く紙舟が見えなくなるまで見送った。七夕節の夜、上弦の月が照らす蒼き川の紙舟は二人の愛の大切な証となった。
この年より後の七夕節の夜には、王府の側の青星川に密かに流された紙舟が幾葉も川を渡って行く光景が見られるようになっていた。
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