第22話 蛇鼠に捧げた心からの愛の言葉
翌朝早く、伴修は七杏の返事を聞きににこやかに現れた。
三日続けて香を焚く事に成功し、その法力の効果を目の当たりにした伴修は、七杏の善き返事に期待が高まっていた。
しかし、七杏の部屋に入ると昨日までの甘く優美な香りはなく、竹葉の涼やかな清々しい香気に変わっているのに気づいた。伴修は一気に凍り付いた。そして目の前には、七杏に寄り添う泰極の姿があった。
「これは伴修将軍、朝から七杏の見舞いとは大変なお気遣いですね。」
「泰極様、まさかお部屋にいらっしゃるとは知らず失礼致しました。私はまた後で、出直して参ります。」
「いや、伴修将軍。その必要はない。ここで私も話したい事がある。」
「ですが・・・ 私はただ、七杏様のお見舞いに参ったまでで・・・」
「その見舞いの品に興味があってな。伴修将軍に聞きたいのだ。あの香は、何処で手に入れたのです? 七杏は、あの香がとても気に入ったようだが。」
「あれは・・・ あれは知り合いから譲り受けた物で、少量しかありませんでした。もう、手元には無いのでございます。」
「ほう。知り合いから・・・ 随分と風変わりな知り合いから譲り受けたのだなぁ。よこしまな葡萄の香りがしたぞ。蛇か鼠の知り合いでもいるのか?」
伴修は血の気が引き、その顔は一気に青ざめた。
「泰、泰極様・・・ 申し訳ございません。一人龍峰山へ参り、蛇鼠様に頂いた物にございます。」
「伴修、なんて馬鹿なことを! 蛇鼠様は、交換でしか受け負わない。代わりに何を差し出したのだ?」
「たいした物ではございません。私から発する今後一切の〈心からの愛の言葉〉でございます。七杏様が側に居てくださればもう、私には必要のない物ですから。」
「馬鹿なことを・・・ 何という交換をしたのだ! 言葉を・・・ 愛の言葉を差し出すなんて。
心からの愛とは、見初めた女子ばかりでなく部下にも友にも必要な大事な物だ。互いの心にある想いが言葉を生み、その言葉を理解し想いを感じ取り伝え合うのだぞ。それがどんなに大切で人の心に喜びをもたらすものであるか。
伴修、それが分からぬのか。言葉にして伝えなければ届かぬ想いというものがあるのだぞ。心からの愛の言葉は、女子に向けた甘い言葉だけではない。心に愛があって相手に伝えたい言葉すべてだ。その想いを乗せた言葉すべてだ。」
涙を滲ませながら力強く話す泰極の言葉は、伴修に深く響いた。伴修は涙をこぼし座り込み言葉が出ない。胸に熱く広がる泰極の愛の言葉に返す言葉がない。心に湧き起る愛を伝える言葉が、伴修からはもう、消えてしまっていた。
この時初めて伴修は、〈心からの愛の言葉〉の意味を知った。惚れた相手を甘く誘う言葉だけでなく、人の心の中にある悲しみも怒りも慈しみも全部が、心からの愛の言葉になるのだと。相手を愛しく想いその存在を有り難く思った時、その心に浮かぶ言葉すべてが心からの愛の言葉だったのだと。
涙を流し座り込んだ伴修を見て七杏が、
「泰様、どうにもならないのでしょうか? これではあまりにむご過ぎます。伴修様が私を気遣てくださったのは、間違いなく真心だったと思います。その心が行き過ぎ道を違えただけ。何か術は・・・」
そう泰極に聞いた。
「あぁ、だが・・・ 蛇鼠様と交換をしてしまった以上どうにも・・・」
三人が涙をこぼしその場で動けずにいると、急に窓が開き一陣の風が吹き抜けた。そして、蓮の香りがしたかと思うと小さな蓮の葉が三枚落ちていた。七杏が駆け寄りその葉を手に取ると、
「その葉に一言ずつ取り戻したい心からの愛の言葉を書き、刻んで茶にして飲みなさい。そうすれば伴修は、三言だけ心からの愛の言葉を取り戻せます。ただし、その三言は、七杏、あなたが書きなさい。」
と声が聞こえた。
とても暖かく慈悲深い声で、その場にいた三人ともが聞いた。
七杏は筆を取ると迷いなく葉に一言ずつ書いた。
〈感謝致します〉〈申し訳ございません〉〈愛しています〉
七杏は書き終えると葉を細かく刻み茶を淹れ、伴修の前に差し出した。伴修は両手で包み込むようにして、泣きながら茶を飲んだ。そして声を絞り出し、
「泰極様、七杏様。申し訳ございません。お二人に感謝致します。」
と言って、深々と頭を下げ出て行った。
「泰様、あの蓮の葉は一体・・・?」
「おそらく、龍峰山の神仙の一人、凰扇様の物だろう。きっとどこかで見ていたのだ。この一部始終を。そして、伴修の悟りと七杏の慈しみに胸を打たれ慈悲をかけてくださったのだろう。」
「そうだったのですね。凰扇様とは、何とも優しく慈悲深い方ですね。」
この伴修の一件は、辰斗王の耳にも入り泰極は詳細を聞かれるべく部屋に呼ばれた。そして、永果と七杏から聞いた事と自分が見た物とを報告した。
「父上、以上が今回の伴修の一件ですが、どうか伴修を将軍の任から解かずに頂きたいのです。」
「なぜだ? 七杏を邪法で惑わし奪おうとしたのだぞ。このままでは危う過ぎる。」
「えぇ、ですから処罰は免れません。幸い事の真相を知る者はごく僅かですし、伴修自身もすでに蛇鼠様に大きな代償を払っております。そして、凰扇様は慈悲をかけてくださいました。伴修は、もう十分に責めを負うております。この事はいずれ未来の蒼天国の力になると思うのです。」
「だが・・・ あまりにも危う過ぎる。伴修の武術の腕と才覚は埋もれさせては勿体ないとも思うが・・・ このまま残すのは危うい。私の怒りも治まらぬ。」
辰斗王が珍しく自らの心情を吐露し、花瓶を投げつけた。
あの端午節の毒矢の時でさえ、剣成将軍に声を荒げたものの冷静に対処し、辰斗王は泰極の前で怒りを現さなかったのに。
「父上。私が幼き頃、母上に連れられて母上の郷里へ参った事がありました。その東の都である
山の端に太陽が描かれた絵で、私は母上に〈これは朝日ですか? 夕陽ですか?〉と聞きました。母上は、〈泰はどちらだと思う?〉と聞かれたので私は、〈朝日では?〉と答えると、母上は〈夕陽ではないかしら?〉と云われました。
そして母上は続けて、〈朝日に見える物も誰かにとっては夕陽であり、夕陽は誰かの朝日なのよ。あなたが見た物が、そのままこの世の正しさだとは言えないわ。その時見た物は、その物のごく一部だけよ。その断片だけを見たにすぎないのよ。
だから、たった一つしかない物を切り分けて取り出したその一つに意味を付けて、それが全体だと一括りにするのは危ういわ。〉と云われました。
あの頃は幼く、その言葉を意味する物が何か分かりませんでした。ですが今この伴修の一件を得て、母上の言葉の意味が少し分かったように感じています。」
泰極は、幼き日の母との想い出を静かに語った。泰極の話を聞き終えた辰斗王は、じっと目を閉じて黙ってしまった。二人の間に沈黙が流れる。
しばらくして目を開いた辰斗王は、天を仰ぎ呟いた。
「
「母上はあの時すでに、ご自身のお身体の異変を感じていらしたのかもしれません。私はまだ幼くこれから先の方が長く、あの絵の太陽を朝日だと感じたのかもしれません。そう、今は思います。」
「あぁ、見る者の心によって物の見え方は変わり、それはその物の実態までもを変えてしまうのかもしれぬな。分かった。泰よ。伴修は将軍のまま据え置く。後にお前が王位に就いた時、どうするかは決めたらよい。」
「はっ。父上、感謝致します。」
「いや、礼は香霧に言うがよい。あぁ、恋しいのう。どうじゃ、これから王墓へ礼を言いに参らぬか? 二人で共に参るのは久しぶりじゃないか?」
「えぇ、父上。参りましょう。久しぶりに三人で話しに。」
辰斗王と泰極は、連れ立って王墓へ赴き穏やかな語らいの時をしばらく過ごした。
この一件の後、伴修は処罰として西方へ部隊を率いて長らく治水と警備に当たった。伴修が玄京の都に戻ったのは、この十年後、泰極が即位してからであった。
伴修が将軍のまま都に戻った時、美しい妻と三つになる娘を連れていた。泰極への帰京の報告の際には涙を滲ませ、
「泰極王に感謝致しております。この度の西方での任務を終え、妻と娘を連れ都に戻って参りました。泰極王、あなたを愛しています。」
とあいさつし皆を驚かせた。十年の月日が伴修を愛の将軍に変えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます