第21話 永果、泰極の元へ走る

 永果ヨングオは急いで走った。


 泰極は、玄京シュエンジンの都から遠く離れた浅石チェンシ村にいる。

 昨年の洪水で荒れた西方の地の治水事業の視察に行っているのだ。永果は、木々を渡り草むらを駆け泰極の元へ急いだ。浅石村までは、龍峰山の法力のリス永果の足でも半日かかった。


 泰極の元に着いた時にはすっかり日も暮れ、下弦を迎えようとする月がようやく姿を見せ始めた頃だった。


「永果! 永果じゃないか。どうした? 都で何かあったのか? 七杏に何かあったのか?」


突然の永果の来訪に泰極は慌てた。

永果は、息も切れ切れで必死に何かを訴えようとしている。泰極が水を杯に入れてやると、永果はチャプチャプと飲んだ。そして、涙をこぼしながら、伴修将軍が七杏の部屋に来て香を焚いた。その香の匂いが怪しい。邪心の匂いがした。七杏が危ない。と話した。


「分かった。急ぎ帰ろう。」


泰極はそう言うと、部下に指示を出し都へ戻る仕度をした。永果はホッと安心して、巾着から胡桃を取り出し食べながら泰極の出発を待った。



 しばらくして仕度を済ませた泰極は、永果を風呂敷に入れると胸の前に下げ馬で屋敷へと急いだ。無事に泰極の元にたどり着き大役を終えた永果は、風呂敷の中で胡桃でいっぱいになったお腹を抱え寝てしまった。





 翌日も昼前に、伴修は香を持って七杏の部屋に現れた。昨日の事ですでに七杏が話してあるのか、すぐに部屋に通された。伴修は、挨拶もそこそこにさっそく香を焚いた。


「あぁ、やはり好い香りですね。私、この香りが大好きになりました。とても心が安らぐのです。昨日は一日中、なぜか伴修様のお顔が幾度も浮かびましたわ。その度にとても嬉しくなって。」

「七杏様、そのように喜んで頂けるととても嬉しいです。端午節の宴でお目にかかって以来ずっと、七杏様が私の胸に在りました。あの時の微笑みが、どれほど私の胸を温め心強くさせてくれたことでしょう。」


「まぁ、そんな・・・ 私はただ、素敵なお方だなぁと感じただけ。自然に顔がほころんだのだわ。」

「そんなお言葉まで聞けるとは、本当に目覚めてくれて何より。こうしてお目にかかれ二人きりでお話会ができ、伴修はこの上なく幸せでございます。出来るならば、もっと七杏様とお話したり時を長く過ごしたく思いますが、まだ将軍になったばかりで何かと忙しく自由も利きません。」


「そうですよね。お忙しい身なのに時間を割いて香を持って訪ねてくださり、七杏はとても嬉しいです。こうしてお側でお話ができお顔を見られて・・・」

「七杏様、まだ香の残りがございます。明日また、お持ちしてもよろしいでしょうか?」

「えぇ、もちろんですわ。この香りがとても好きです。ぜひ、お願い致します。明日もお待ちしております。」

「では、明日また。」


 蛇鼠の香はとてもよく効いているようで、七杏は一日じゅう伴修の顔が離れなかった。この二日間、夢の中にいるような心持ちでいる。その七杏の様子を見た伴修は、想いが叶いつつあると確信し上機嫌だった。



 三日目の朝、伴修は最後の香を持ってやって来た。心待ちにしていた七杏は、戸口に伴修の姿を見つけると駆け寄った。


「伴修様、お待ちしておりました。頂いた香を二日間焚いていたので、香の火が消えても、ほら、まだ少し残っているでしょう。この残り香を見つけるだけでも、とても幸せな気持ちになるの。」


「それ程までに気に入って頂けて、私も嬉しく思います。さぁ、では、お持ちした香を焚きましょう。」

「えぇ、ぜひお願いしますわ。」


伴修が香炉に火を入れ部屋中に広がった香気が二人を包み込んだ頃、伴修はゆっくりと話し始めた。


「七杏様、今日は私の胸の内をお話してもよろしいでしょうか?」


「まぁ、伴修様、何か悩み事でもおありですの?」


「いいえ、悩みはございません。私は、七杏様が回復され心より安堵し嬉しく思っております。ですがもし、あの時のような危険な目に遇われたら・・・ そう思うと、とても苦しく心配でたまらなくなるのです。

 ですから将軍となった私に、七杏様を守らせて頂けないかと思っているのです。私の側に居て頂き、いつでも私がお守り出来る所で過ごして頂きたいのです。私は心より七杏様を想っております。どうか私と暮らし生涯を共に過ごしては頂けないでしょうか。」


「まぁ、伴修様。そのようなお心でいらしたなんて・・・」

「七杏様にとっては突然の申し出ですから、お返事はまた改めてで構いません。今日一日、この香りの中でゆっくりと考えて頂きそれからのお返事という事でいかがでしょう?」

「伴修様。今日は一日部屋に居り、この香りの中でゆっくり考えてみます。」

「えぇ、ぜひ。この部屋の香の中でゆっくりと。では明日、またお顔を見に参ります。」


そう言って伴修は部屋を出て行った。その胸には、蛇鼠の策をやり遂げた安堵が広がっていた。七杏は夢心地のまま、心から離れぬ伴修の顔を見つめていた。





 泰極は急ぎ馬を走らせていた。次第に夜が明け辺りは明るくなり、永果は風呂敷の中で目を覚ました。泰極は、ひたすら馬で駆けながら心は七杏を案ずるばかり、もどかしさと焦りだけが膨らんでいた。



 日は傾き夜になり、泰極は馬を乗り継ぎ玄京の都を目指し休まず駆けた。そうして屋敷にたどり着いたのは、西方の村を発った翌々日の昼前だった。


 屋敷に着くとまっすぐに七杏の元へ向かった。


「七杏! 杏! 何をしている? 気分はどうだ?」

「まぁ! 泰様。今日はお時間があって?」


「あぁ、このところ忙しくて顔も見られずすまなかった。西方へ行っていたんだ。」

「いいえ。あんな事があった後で、いろいろと忙しかったでしょう。しかも、西方へ行っていたなんて。それなのに、来てくれて嬉しいわ。」

「うん。将軍の交替や湖蘭の縁組み、西方の治水と立て込んでしまった。」


「えぇ。将軍といえば、伴修様がお見舞いに来てくださったのよ。素敵な香を持って。ほら、この香り。昨日も一昨日も持って来てくださったのよ。今朝だって。」

泰極は香炉の方へ近付いてみた。


「白檀に・・・ 桂皮、杏仁といったところか? 杏仁は、七杏の気を引くためか? んっ、それにこれは葡萄か?」


その時、泰極の護符が光り声が聞こえた。


「泰極よ! 今すぐ香を消せ! 扉を開け香気を外に出せ!急げ!」


永果の読み通りだと危険を感じた泰極は、すぐに香を消し扉を開け香気を払った。永果も窓を開けるのを手伝った。


「あぁ・・・ 泰様! なにをするの? せっかくの香気が消えてしまうわ。」



香気を払いながら泰極は思い出した。


〈確か・・・ 神仙様の中に葡萄の葉を使う邪法の者がいたはず、もしやその法力の・・・〉


その泰極の心の中の問いに答えるように護符が再び光り、


「蛇鼠の法力じゃ。奴の法力は護符にも対等に渡り合う。」


と声が聞こえ、泰極は確信した。伴修が蛇鼠の葡萄の葉を使ったのだと。


〈だがなぜ、七杏の護符は反応しなかった? なぜだ・・・ 少しも光らなかったのか?〉

泰極と永果がすべての窓と扉を開け放ち、七杏に駆け寄ると混乱した様子で頭を押さえている。



「七杏、どうした? 痛むか? 七杏。」

「泰様・・・ 頭が痛むの。それに目の前がぼんやりするわ。」

「七杏、大丈夫か? 香気のせいだ。今に消える。落ち着いて、しっかりしろ。」


泰極は、七杏が崩れ落ちてしまわぬよう長椅子に座らせ抱きしめた。


「七杏。この香は伴修が持って来たのだな?」

「えぇ、端午節の件から私を心配してくださりお見舞いにと。とても好い香りで気に入りました。そして、三日続けて届けてくれたのです。」


「そうか。〈そうか・・・ 七杏が好い香りだと気に入ったから護符は反応しなかったのか? それとも蛇鼠の法力が強かったのか?〉分かった。伴修は何か言っていたか?」


「伴修様は・・・ 私をとても心配してくださっていて、自分に守らせて欲しいと。これからは自分の側で暮らし生涯を共に過ごそう。心より想っていると仰って・・・」

「何だと! 奴は何を言ってるのだ! それで杏、君は何と返事をしたんだ?」

「私はまだお返事は・・・ 伴修様も今日一日この部屋で香に包まれ、ゆっくりと考えて欲しい。返事はそれからでいい。明日また来ると。」


「伴修め! なんてことを! 七杏、君は蛇鼠様の法力にかけられたのだ。今日は私が付き添う。安心して休むといい。さぁ、少し横になろう。」

「泰様、私なにか間違いを? 何かいけない事をしてしまったのかしら? あまり頭がはっきりしなくて・・・」

「いいや。杏、君は何もしていないよ。安心して。大丈夫。」


「泰極よ。七杏を少し休ませたら、竹葉と桑葉を用意して茶を淹れ飲ませよ。香気を払い浄化になる。」


護符から声がした。


 泰極は、七杏を横にならせると侍従を呼び茶の用意をさせた。それから、湯と竹葉、桑葉を受け取ると自ら茶を淹れた。少なからず香気を浴びた永果にもその茶を飲ませ、自分も飲みながら一人思案した。


〈伴修は剣成と繋がっているのか? もしや、あの毒矢を放ったのは伴修なのか? 七杏を得るため? いや、伴修はあの日初めて七杏に会ったのだから違う。ならば毒矢の狙いは私だったのか? 伴修はあの時に七杏を見初めたというのか? どういう事なのだ? 一体何がどうなっているのだ? とにかく明日、ここで伴修に問おう。〉


部屋の香炉にも竹葉を入れ焚いた。


 涼やかな竹葉の香が漂い始め落ち着きを取り戻した泰極は、七杏の危機を知らせに走った永果に感謝の杏子の仁を五粒やった。


 部屋中に今度は清々しく凛とした香気が広がると、七杏が目を覚ました。


「泰様、少し頭が痛いのです。それに・・・ この数日の事があまりはっきりと思い出せなくて・・・」

「杏、君は法力のかかった香気に当てられたのだ。伴修が持って来た香に。危うく君は、伴修将軍に嫁ぐ約束をするところだったぞ。」


泰極がちょっと意地悪く七杏に話すと、七杏は驚いた顔で


「なぜです? なぜ私が伴修様に? 確かに素敵な方ですが、私にそのような想いはありません。」

「はははっ。ならば危ういところを永果に救われたな。はははっ。まずはこの茶を飲んで香気を消し落ち着くといい。」

「これは?」

「神仙・・・ 龍鳳様が教えてくれた‘竹葉と桑葉の茶’だ。私が淹れた。安心して飲みなさい。」

「はい。泰様。」


七杏がお茶を飲む間に、泰極は事の概要を話して聞かせた。

 

 その話に永果も加わり自分の活躍を懸命に話した。そして泰極は、このまま七杏に付き添うことにし、明日、伴修将軍が来たら立ち会うと約束した。



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