伴修の恋

第20話 誘惑の香り

 端午節の宴以来、伴修の心は七杏の面影ですっかり覆い尽くされてしまった。

 浮かんでくるのは七杏のことばかり。たった一度あいさつを交わしたあの時に、柔らかく微笑んでくれた七杏の姿が繰り返される。


〈あの後でまさか、あんな事になろうとは・・・ あの時、思い切ってお引き留めし、散歩にでもお誘いすればよかった。そうすれば、射られる事などなかったかもしれぬのに・・・〉


七杏が目覚めぬ間、心配で胸はざわつくばかり。伴修の心の内では、悔しく悲しい想いだけが繰り返されていた。王府内に七杏が目覚めたと知らせが広まった時には、どれほど安堵したことか。だが今度は、一目会いたくて仕方ない。その想いで胸がいっぱいになっていた。




 軍部の将軍であった剣成が南方へ行き、ぽっかり空いた将軍の座に武術の腕と勇敢さ真っ直ぐな心根を買われ、まだ若い伴修が就くことになった。都では民が、軍部も後の泰極の世を見据え今から若返りを計り安定させておく狙いだろうと噂している。この事が、伴修を勢いづかせた。


「何としても七杏様に側に居て欲しい。これからは共に暮らし生涯を送れたら、どんなに善いか。私も今や軍部の将軍だ。叶わぬ夢でもなかろう。しかし、泰極様がああもしっかりと付き添っておられては、私が入り込む隙があるだろうか? どうしたらよい? どうすれば七杏様を手に入れられる?」


と、そんな事ばかりを考えるようになっていた。元々の真っ直ぐさが高じて伴修は、ただただ七杏を手に入れることに夢中になった。

 そして、ある噂を思い出した。


 龍峰山には、三人の神仙様が棲まわれている。その中に、民の願いを聞いてくれる神仙様がいるらしいという噂のことを。


 神仙の一人は‘龍鳳ロンフォン’。最高位の神仙で、蒼天の皇族しか会うことが出来ぬという。もう一人は‘凰扇ファンシャン’。霊薬や法術にたけ自由を好み風のように各地へ赴き民を救うという。そしてもう一人は‘蛇鼠シォシュウ’。よこしまな心根で誰にでも会い願いを聞いてくれるが、代償を要求し邪法を使うという。


「龍鳳様は会えるはずのない神仙だから仕方がない。凰扇様なら会えるだろうか? いや、龍峰山には滅多に居ないという噂だから難しいかもしれぬ。ならば危険ではあるが、蛇鼠様の力を借りるしかない。よし、一か八か龍峰山に行ってみよう。」


勢いに乗じて胸に広がる想いのままに、伴修は龍峰山に向かった。




 もう夕陽が沈み辺りはすっかり暗くなっていた。山に入ると、風に揺れる葉音にも驚いてしまう。将軍と云えど夕闇に一人で上る龍峰山は、やはり恐ろしさが勝る。しかし、胸に在る七杏への想い、七杏との未来の日々を消し去る程の恐ろしさではなかった。伴修はただただ、その想いを成し遂げたい一心で山を上った。



 どのくらい進んだだろうか。満月から少し欠け始めた月が空に上がり始めると、足元が少し見やすくなり辺りがぼんやりと明るくなった。すると頭上から声がした。


「ワシを探しているのか? 何ゆえ山に入って来た?」


驚いて足が止まった。恐る恐る見上げると、木の上に翁がいた。


「あなたはもしかして、神仙様ですか?」


伴修が問うと翁は、

「皆はそう呼ぶがどうだかな。ワシは交換が好きじゃ。善行をする気など毛頭ない。どんな者でも話は聞く。交換次第で願いを叶える策を与える。」


伴修は翁の言葉に蛇鼠だと悟ったが、胸の想いは叶えたい。邪法と代償を承知で蛇鼠に頼むことにした。


「神仙様、この胸に叶えたき想いがございます。ある娘を手に入れたいのでございます。生涯私の側に置き、共に話し茶を飲み微笑みかけて欲しいのです。私だけのものにしたいのです。」

「ほう。その娘が好きなのか? どうしても手に入れたいのじゃな。」

「はい。そうでございます。」

「ならば、その想い叶えてやってもよいが交換する物がなければならぬ。そうじゃな・・・ お前の〈心からの愛の言葉〉と交換するのなら叶えてやろう。」


「はぁ、〈心からの愛の言葉〉ですか? それはどういう事でしょう?」

伴修が問うと、


「お前がその娘を手に入れた後、心にある愛を娘に伝える事は出来ぬという事じゃ。そのほか目の前のどんな相手にもお前の愛を伝える事は出来ぬ。だが、その娘と共に暮らし茶を飲み微笑みかけてもらうことは叶う。そこに、お前の心からの愛の言葉はないがのう。手に入れた娘とただ微笑み合い日常を語らい過ごす日々が続く。

 そして万が一、策を使い失敗して娘を手に入れることが出来なくともお前の心からの愛の言葉は頂く。今後お前が向き合うどの相手に対しても、お前は心からの愛の言葉を伝える事は出来ない事になる。それでもよければ策を与えよう。」


「構いません。愛の言葉などなくとも共に過ごせ、互いに想い合っていればそれで構いません。七杏様に私の側にいて頂けるならそれで十分。互いに想い合えるならそれで。」


伴修は七杏への溢れる想いに任せ、蛇鼠の交換を受け入れた。



「ならば力を貸してやろう。

 この法力の封じられた葡萄の葉に、お前と娘の名を書き三重の円で囲み一晩月光に当てた後、細かく刻み香に混ぜて娘の部屋で焚くがよい。香は三日に渡って届けよ。娘の部屋で三日続けて、この葡萄の葉の混じった香を焚くのじゃ。さすれば娘はお前を慕い愛を受け入れ、お前の元に嫁ぐであろう。」


そう言い終わると蛇鼠の姿は木の上になく、伴修の手元に月光に照らされ葡萄の葉が一枚と大きな葉にくるまれた香が下りて来た。


「神仙様。ありがとうございます。ありがとうございます。」


伴修は大事に葡萄の葉を持ち帰り、蛇鼠に云われた通り自分と七杏の名を書き三重の円で囲み、よく月光の届く所に置き眠った。



 翌朝目が覚めると、伴修は昨夜の葡萄の葉を細かく刻み香と混ぜ三つに分けた。可愛らしく上品な香炉を用意すると、七杏の元へ届けるべく向かった。




 将軍という肩書はとても重く、思いのほか信用されていた。七杏の見舞いを申し出ると簡単に会うことが出来た。伴修は部屋に通され七杏に会うと見舞いの言葉を丁寧に述べ気遣った。


「七杏様、お身体はいかかですか? お目覚めになられ安堵いたしました。あの日初めてお会いしご挨拶したばかりですぐ、あのような事が起こり随分と心配しておりました。」

「伴修様、ご心配に恐縮いたします。今や将軍になられお忙しい身だと思います。このようにお見舞いにまで来て頂き感謝致します。」

七杏も丁寧に返した。


「とんでもない。回復されて何より。今日はとても好い香が手に入りましたので、ぜひ七杏様にとお持ち致しました。心安らぐ香りで寛げるそうです。ますますのご回復に善いかと。よろしければ私が火を入れますが。」

「まぁ、お気遣いありがとうございます。ぜひ、どんな香りか聞いてみたいわ。」

七杏が華やいだ笑顔を見せたので、伴修もこの上なく嬉しくなり、

「では早速、香を焚きましょう。」


と香炉に火を入れた。程なくして香は部屋中に漂い始めた。


「まぁ、なんて甘く優美な香りでしょう。心が解けるような心持ちでございます。」

「それはよかった。お気に召しましたならば、まだ家に幾分残っておりますので、明日またお持ち致しましょう。一度にあまりたくさんを聞き過ぎてもお身体に障ります。お持ちした分で今日一日は穏やかに過ごせると思います。」


香気が部屋いっぱいに満ちた時、胡桃箱の中で寝ていた永果が飛び起きた。異変を感じた永果が七杏に駆け寄り必死に訴えるが、もはや香気を吸いこんだ七杏には届かない。


「永果どうしたの? お客様の前ですよ。静かに。」

どうにも異変が伝わらず焦った永果は、部屋中を走り回って暴れている。


「おや、元気のよい珍しいリスですね。」

もしや香気に気付かれたのではと不安になった伴修が、永果を捕まえようと後を追う。


「えぇ、いつもは寝てばかりの大人しいリスなのですが、今日はどうしたのでしょう? 永果、お客様とのお話を邪魔するなら外へ出て行きなさい。」

七杏は永果を部屋の外へ出してしまった。


「すみませんでした。伴修様。とても好い香りですね。ぜひ明日もお願い致します。心も体も解けて軽やかになるようです。また明日、楽しみにしております。」

「ならばぜひ、明日また必ずお持ち致します。今日はごゆっくりお部屋でお寛ぎください。ではこれにて。」

伴修は、七杏の気に入り様に天にも昇るような心地で部屋を出た。



 七杏に部屋を追い出された永果は、急いで泰極を探した。屋敷中を探し回ったが何処にも姿がない。庭にも公務室にもおらず、永果は急いで泰極の部屋に行き泰極のかんざしをくわえると七杏の部屋に戻った。

 幸い伴修は帰った後で、さっき部屋中を駆け回った時に少しだけ開けた窓がまだ開いていた。その窓から部屋に入り七杏に駆け寄ると、首から下がっている護符をかんざしで弾いた。


「永果、何をしているの? それは泰様のかんざしでしょ。勝手に持ち出して。今日はどうしちゃったの?」


永果は、じっと護符から放たれる音波を聴いている。泰極の居場所を探っているのだ。そして、音波から泰極の居場所を突き止めると、かんざしを七杏に渡した。

 それから自分の巾着に幾らかの胡桃を詰めて背負い、悲し気な目で心配そうに七杏を見つめると、急いで窓から駆け出して行った。


「永果、どこに行くの? 永果・・・」


永果のただならぬ様子に不安を覚えながらも蛇鼠の香気に包まれている七杏は、夢心地になっていた。

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